「アンタも見に行くか?」
町内の会長をしている隣家のお爺さんが私の顔を懐中電灯で照らしながら尋ねた。
時刻はまもなく深夜0時。
急にどこからか、鈍い鐘音がけたたましく鳴り響いた。
こんな時間にどうして、と
みんなが家の窓や玄関から顔を出している。
「いや、でも……この音って」
鐘の音は随分と聞き覚えのあるものだった。当時はもっと澄んだ音色だったが、恐らく。
「あそこだろうなぁ……」
お爺さんも同じことを思ったようで、懐中電灯を私の顔から遠くの田んぼ道へと向きを変える。田んぼ道の奥先には、10年前に廃校になったままの母校があった。
お爺さんに続いて校舎に向かう。近づくにつれて音はますます大きくなり、すぐ近くで会話をするのも困難だ。お爺さんも流石に耳に堪えるのか、顔を顰めている。
校舎に着く頃には、あまりの大音量のチャイムに道の小石が震え、音波で校舎も揺れている気がした。
時計台はすでに長針と短針が腐り落ちていて、文字盤だけが寂しく残っているだけだ。廃校になってからは誰も手をつけず、静かにそこに佇んでいた。
お爺さんが呼んだのであろう、村の人たちが車で次々とやってきて、誰かが鍵を持っていたのかドヤドヤと校舎の中へ入っていく。
少しすると鐘の音は止み、辺りは静寂に包まれたが、私は校舎の前に着いてから今も時計台から目を離せないでいた。
私の祖母の代からあった学校。小さなこの村のシンボルだった時計台。授業の終わりと始まりを知らせてくれたチャイム。廃校から10年経った今、校舎に足を踏み入れるものは誰も居ない。
(忘れないで、って……言ってるの?)
今もまだ頭に響いている。
呻くような、悲痛な叫びのような、鈍い鐘の音。
[鐘の音]#101
あと何度陽が沈んだら
あの子に会えなくなってしまうだろう
答えのない疑問が頭をよぎっては
風が攫っていく
まるで生き急ぐ様に
足早にすぎていった私の人生
生涯かけて大事に守っていくと決めた
あの子との出会い
羽根のように軽い身体を抱きしめて
ほおをすり寄せて泣いたのが
まるで昨日のことのようだ
ふと
部屋のドアが開く音がして振り向く
お母さん
私をそう呼ぶ子どもは
駆け足で私のところへ来ると
ランドセルを背負ったままベッドへ顔を埋めた
黄色い帽子の隙間から
いたずらっ子のような笑みが覗く
私はあと何度この笑顔に会えるだろう
この子のこれからの人生
楽しいことも辛いことも腹立たしいことも
全部傍で見ていたかった
部屋のドアの前には
一緒に来たのであろう母が
鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ
涙を堪えていた
ああわたし
このこを
かなしませたくなかった
[病室]#88
身近な喧騒から抜け出したくて
自転車を漕ぎ出した
畔道に差し掛かれば
静寂に耳を突かれる
真っ黒な空は月と星に照らされ
朝を忘れたかのようにそこに在る
誰も要らない
誰も見ないで
誰も私に近づかないで
願わくば何もかも消え失せて
世界の真ん中にただ独り
不意に
立ち上がって自転車から体を乗り出した
視界いっぱいに空が映って
まるで飛んでいるみたいだ
強く吹き付ける生温い風を感じながら
ただ一人
心地よい孤独に包まれていた
[だから、一人でいたい。]#73
遠くから聞こえるお囃子の音
浴衣を着付ける祖母の優しい手
母親の急かす声
下駄を転がして歩いているうちに
空がだんだん赤らんでくるのが見える
夜の帷が降りて
提灯の灯りが濃くなってくる時刻
大きな鳥居を抜けると
喧騒に混じって火薬の匂いが鼻を突いた
弾かれたように母親と繋いでいた手を解いて
境内の裏へと駆け出す
境内の裏は表通りとは打って変わって人気はなく
巨大な御神木だけが佇んでいる
ふと視線を感じて見上げると
御神木の一番下の太い木の枝に
狐の面をした女の子が立っていた
ぶわ、と吹いた風が
遅い、と言っているみたいだった
濃紺の空にはもう星が瞬いている
[お祭り]#70
「神はそんなことは言わぬ」
茹だるように暑く、青空と入道雲が眩しい8月。
涼しさを求めて入った林の奥で、私はポカンと口を開けて立ち尽くしていた。
「え……でもさっき、急に出て来たと思ったら願いをなんでも叶えてあげるよってやたら神々しい神様が」
「神はなんでも叶えることはできぬ。そしてアレは悪霊の一種。人から奪いこそすれ、与えることはできぬぞ」
「悪霊…!」
騙された事実と信じてしまった自分の愚かさに、思わず口元を手で押さえた。
空から舞い降りてきたその人は、長い黒髪に獣の耳を生やして、着ているものは着物風で薄汚れている。壊れかけの石造りの社の屋根を愛おしそうに撫で、チラリと私を見た。
「おぬし、随分と異形の者に好かれとるの」
「はぁ……まぁ、好かれやすいのは確かみたいですね」
「因みに何を願ったのじゃ」
「大阪王将が家の近くに出来ますようにって」
「おおさか…なんじゃて?」
「大阪王将」
「……まぁよい。この辺りは信心も廃れ、異形の者が住みつきやすい。早く去ね小娘」
そう言われて嫌だと駄々を捏ねるほど、命知らずではない。今までの経験上、こういったこの世のものでないものに逆らって良かった試しがない。
「分かりました。……あの、国道へはどうやって出れます?」
「なんじゃおぬし、迷子なのか」
「はい」
「大阪なんとやらよりも其方を願うべきであろう」
「へへっ!」
道を教えてもらってそそくさと退散すると、迷っていたのが嘘のようにすぐ国道に出ることが出来た。
ようやく帰路に着くことができる。
「あれ?」
林の目の前の空き地に、いつの間にか売地の看板が立っていた。新しい家でも建つんかな。
[神様が舞い降りてきて、こう言った。]#59