コーヒーマシンに挽いた豆をセットする。
スイッチを入れると、薄暗いリビングに駆動音が小さく聞こえ始めた。
日中はまだ暑さが残るこの時期も、朝方4時は寒さが際立つ。無意識に両手を擦り合わせ、作った空洞に息を吐きかけた。サテン生地のこのパジャマはそろそろお役御免だろうか。
この時期のこの時間帯は、一直線に伸びた地平線が少しずつ赤らんできて、太陽が浮上してきているのだろう様が見て取れる。キッチンからリビングの窓を見やると、空が先ほどよりも色づいてきているようだった。
急かすように、窓とコーヒーマシンを交互に睨める。
尤も、機械には"空気を読む"機能というのはまだ備わっていないわけだが。
やがてコーヒーの艶めかしい香りが漂ってきて、私はそれを肺いっぱいに吸い込むと、満たされたような気持ちでマグカップを食器棚から取り出す。自分自身のその動きでさえ、優雅だと感じるほどに気持ちの良い瞬間だ。
カップにコーヒーを注ぎ、少し追い立てられるようにリビングのソファーに腰掛けると、眼前に夜明け前の美しい景色が広がった。
未だ眠る街が奏でる静寂。
青藍と曙色が混じりあい蕩ける空。
何かを追いかけるように足早に過ぎていく千切雲。
私は震える手をぎゅっとマグカップに押し付けた。得も言われぬ感情に涙が出そうになる。
しばし眺めてからふと立ち上がって窓を少し開けると、冷たい風がレースカーテンを揺らしながら入り込み、私の頬や髪を撫でた。昨夜に降った雨の匂いが鼻を掠め、思わず吐息を漏らす。
まるで世界の始まりを見ているかのようだ。
闇から一筋の光が生まれ、万物が世界を成した始まりの物語。神々は光と海と大地の狭間に、どんな物語を見出し、世界を創造したのだろう。創造ののちに、もしかしたら私と同じように心を震わせて、涙を流したのだろうか、なんて。
瞬間、日の光が申し訳なさそうに地平線からリビングへと降り注ぐ。タイムアップだ。ずっと握りしめ存在を忘れかけていたマグカップに漸く口をつければ、苦味が舌を刺激し、一気に現実に引き戻された。
きっと今日も、私の日常が進んでいく。
[夜明け前]#148
巻貝の殻を耳に当てても
海の音なんて聞こえなかった
それでも聞こえないとは言えなくて
聞こえる気がする と笑った
あの時の気持ちを思い出して
ぎゅっと寂しくなったとき
宝箱を開けては
たくさんの貝殻を取り出す
凹凸に指を滑らせ
優しく握りしめ
頬をすり寄せる
私と同じ 海に還りたいものたち
[貝殻]#142
「ねーコレやってえ」
何度キミにお洋服を着せてあげたろう。
裏返しになったTシャツ。
半泣きなのは直そうと自分で頑張ったから。
くちゃくちゃに丸まったTシャツのなんと愛しいこと。
私が直すと泣きそうな顔がぱぁっと明るくなって
両手を広げてちゃっかり着せてもらう。
「脱ぐ時に裏返しにならないように脱ぐの!」
そういうと決まって
「むずかしいんだよぉ」とほっぺを膨らませる。
今でも時々
裏返しに脱いだ服を見ると思い出す。
でももう私が直すことはない。
「これやってえ」と泣かれることもない。
自分で直して自分で着られるようになった。
ああ、大きくなったね。
「ちょっと! 靴下は裏返し直してから入れて!」
「あ。……面倒臭いんだよぉ!」
[裏返し]#136
この世はなんて生きづらいのだろう
やりたいことなんてない
楽しむ余裕もない
自分も他人もどうでもいい
毎日消えたいと思う日々
そんな私は
この世の世知辛さなんて知りもせず
自分の欲求に正直で
少しのことにも一喜一憂する
他人が産み落とした小さな命を
毎日必死に守ってる
我が子可愛さに
時には自分を失い
敵だと言わんばかりに勇んできては
どう育てたらいいか分からないと縋り泣く
そんな哀れな大人に寄り添い
嫌な顔ひとつせず
心を砕いて手を差し伸べる
そんなときがいくつあっただろう
怒りや涙を見せはしない
偉そうに子どもの前に座っては
"あれをしてはいけません"
"これをしてはいけません"
"ルールを守りなさい"
"友達に優しくしなさい"
そんな最もらしいことを
不出来な私が呪文のように唱えている
それでも
あの屈託のない笑顔と
成長を感じる小さくも頼もしい背中に
私は思わずにはいられない
無情なこの世界に
激しい社会の荒波に
幸多かれと願いながら送り出すことの
なんと残酷で誇らしいことか
[誇らしさ]#125
にんぎょは よいよい
おばけは こわい
きれいな にんぎょさん
てのなるほうへ
お盆の始まり、迎え火を焚いた日から、私は毎夜家のそばの海へ出掛けている。
家から出て10メートルも行けば浜に着く。今はお盆期間だから、海の近くには誰もいない。そもそもここは海水浴場から少し離れた場所だから、人がいないのはいつものことだった。
今週はずっと快晴で、まんまるになろうとする月が海の上に静かに佇んで海面を照らしていた。
夜の海は穏やかで、月光が明るいせいか怖さを感じない。
私はゆっくり波打ち際に近づき、濡れるのも構わず腰を下ろした。あたりには波の音だけが響き渡り、視界が海でいっぱいになると、まるでこの世界が滅んで私だけが生きているみたいだ。
実際、去年の5月に姉が交通事故で死んでから、私の世界は終わったようなものだった。たった1人の姉妹。歳の離れた姉は私の憧れで、どこへ行くにもついて行った。煩わしいときもあっただろうに、私の記憶にある姉はいつも笑顔だ。絵が得意で、いつも浜に行って海の絵を描いては私に見せてくれる、海を愛する人だった。事故の日も、海へ向かう途中だったらしい。
姉が死んで初めてのお盆の日、今日のような月の眩しい夜に私は人魚をみた。人魚は穏やかな海を大きな尾鰭で悠々と泳ぎ、ふとこちらを向いた。
息が、時間が、世界が止まった気がした。
間違いなく姉の顔だった。逆光なはずなのに、まるで浮かび上がるかのように顔がはっきり見えた。
"おねえちゃん"
口が動くが声が出ない。ヒューヒューと息が吐き出され、言葉を紡ぐことができない。
私をじっと見つめると、姉の顔をした人魚は音もなく海中に潜り、その後姿を見せなかった。
にんぎょは よいよい
おばけは こわい
きれいな にんぎょさん
てのなるほうへ
海を愛した姉は、死んで人魚になったのかもしれない。
海の神様が若くして死んだ姉を不憫に思い、海に魂を連れて行ったのかもしれない。
私は今日も姉に会いたくて、夜の海で人魚を探す。
[夜の海]#113