はじめまして
ああ
私を見ているのね
違うわ
貴方が見られているのよ
今もさっきもこれからも
みんな気づかないの
さあ
次に来る"貴方"は
一体
[誰かしら?]#166
楽しいことも辛いことも
私の海馬は記憶できない
完成したパズルのピースが
ひとつ またひとつと
抜け落ちていくように
懐かしい声が
記憶を呼び覚まそうとしているのに
跡形もなく溶けていく
ああ 名前を呼ばないで
涙が止まらないの
差し出された手を取っていいのかさえ
私にはわからない
あなたは誰?
ああ
私は?
[あなたは誰]#155
コーヒーマシンに挽いた豆をセットする。
スイッチを入れると、薄暗いリビングに駆動音が小さく聞こえ始めた。
日中はまだ暑さが残るこの時期も、朝方4時は寒さが際立つ。無意識に両手を擦り合わせ、作った空洞に息を吐きかけた。サテン生地のこのパジャマはそろそろお役御免だろうか。
この時期のこの時間帯は、一直線に伸びた地平線が少しずつ赤らんできて、太陽が浮上してきているのだろう様が見て取れる。キッチンからリビングの窓を見やると、空が先ほどよりも色づいてきているようだった。
急かすように、窓とコーヒーマシンを交互に睨める。
尤も、機械には"空気を読む"機能というのはまだ備わっていないわけだが。
やがてコーヒーの艶めかしい香りが漂ってきて、私はそれを肺いっぱいに吸い込むと、満たされたような気持ちでマグカップを食器棚から取り出す。自分自身のその動きでさえ、優雅だと感じるほどに気持ちの良い瞬間だ。
カップにコーヒーを注ぎ、少し追い立てられるようにリビングのソファーに腰掛けると、眼前に夜明け前の美しい景色が広がった。
未だ眠る街が奏でる静寂。
青藍と曙色が混じりあい蕩ける空。
何かを追いかけるように足早に過ぎていく千切雲。
私は震える手をぎゅっとマグカップに押し付けた。得も言われぬ感情に涙が出そうになる。
しばし眺めてからふと立ち上がって窓を少し開けると、冷たい風がレースカーテンを揺らしながら入り込み、私の頬や髪を撫でた。昨夜に降った雨の匂いが鼻を掠め、思わず吐息を漏らす。
まるで世界の始まりを見ているかのようだ。
闇から一筋の光が生まれ、万物が世界を成した始まりの物語。神々は光と海と大地の狭間に、どんな物語を見出し、世界を創造したのだろう。創造ののちに、もしかしたら私と同じように心を震わせて、涙を流したのだろうか、なんて。
瞬間、日の光が申し訳なさそうに地平線からリビングへと降り注ぐ。タイムアップだ。ずっと握りしめ存在を忘れかけていたマグカップに漸く口をつければ、苦味が舌を刺激し、一気に現実に引き戻された。
きっと今日も、私の日常が進んでいく。
[夜明け前]#148
巻貝の殻を耳に当てても
海の音なんて聞こえなかった
それでも聞こえないとは言えなくて
聞こえる気がする と笑った
あの時の気持ちを思い出して
ぎゅっと寂しくなったとき
宝箱を開けては
たくさんの貝殻を取り出す
凹凸に指を滑らせ
優しく握りしめ
頬をすり寄せる
私と同じ 海に還りたいものたち
[貝殻]#142
「ねーコレやってえ」
何度キミにお洋服を着せてあげたろう。
裏返しになったTシャツ。
半泣きなのは直そうと自分で頑張ったから。
くちゃくちゃに丸まったTシャツのなんと愛しいこと。
私が直すと泣きそうな顔がぱぁっと明るくなって
両手を広げてちゃっかり着せてもらう。
「脱ぐ時に裏返しにならないように脱ぐの!」
そういうと決まって
「むずかしいんだよぉ」とほっぺを膨らませる。
今でも時々
裏返しに脱いだ服を見ると思い出す。
でももう私が直すことはない。
「これやってえ」と泣かれることもない。
自分で直して自分で着られるようになった。
ああ、大きくなったね。
「ちょっと! 靴下は裏返し直してから入れて!」
「あ。……面倒臭いんだよぉ!」
[裏返し]#136