「ねーコレやってえ」
何度キミにお洋服を着せてあげたろう。
裏返しになったTシャツ。
半泣きなのは直そうと自分で頑張ったから。
くちゃくちゃに丸まったTシャツのなんと愛しいこと。
私が直すと泣きそうな顔がぱぁっと明るくなって
両手を広げてちゃっかり着せてもらう。
「脱ぐ時に裏返しにならないように脱ぐの!」
そういうと決まって
「むずかしいんだよぉ」とほっぺを膨らませる。
今でも時々
裏返しに脱いだ服を見ると思い出す。
でももう私が直すことはない。
「これやってえ」と泣かれることもない。
自分で直して自分で着られるようになった。
ああ、大きくなったね。
「ちょっと! 靴下は裏返し直してから入れて!」
「あ。……面倒臭いんだよぉ!」
[裏返し]#136
この世はなんて生きづらいのだろう
やりたいことなんてない
楽しむ余裕もない
自分も他人もどうでもいい
毎日消えたいと思う日々
そんな私は
この世の世知辛さなんて知りもせず
自分の欲求に正直で
少しのことにも一喜一憂する
他人が産み落とした小さな命を
毎日必死に守ってる
我が子可愛さに
時には自分を失い
敵だと言わんばかりに勇んできては
どう育てたらいいか分からないと縋り泣く
そんな哀れな大人に寄り添い
嫌な顔ひとつせず
心を砕いて手を差し伸べる
そんなときがいくつあっただろう
怒りや涙を見せはしない
偉そうに子どもの前に座っては
"あれをしてはいけません"
"これをしてはいけません"
"ルールを守りなさい"
"友達に優しくしなさい"
そんな最もらしいことを
不出来な私が呪文のように唱えている
それでも
あの屈託のない笑顔と
成長を感じる小さくも頼もしい背中に
私は思わずにはいられない
無情なこの世界に
激しい社会の荒波に
幸多かれと願いながら送り出すことの
なんと残酷で誇らしいことか
[誇らしさ]#125
にんぎょは よいよい
おばけは こわい
きれいな にんぎょさん
てのなるほうへ
お盆の始まり、迎え火を焚いた日から、私は毎夜家のそばの海へ出掛けている。
家から出て10メートルも行けば浜に着く。今はお盆期間だから、海の近くには誰もいない。そもそもここは海水浴場から少し離れた場所だから、人がいないのはいつものことだった。
今週はずっと快晴で、まんまるになろうとする月が海の上に静かに佇んで海面を照らしていた。
夜の海は穏やかで、月光が明るいせいか怖さを感じない。
私はゆっくり波打ち際に近づき、濡れるのも構わず腰を下ろした。あたりには波の音だけが響き渡り、視界が海でいっぱいになると、まるでこの世界が滅んで私だけが生きているみたいだ。
実際、去年の5月に姉が交通事故で死んでから、私の世界は終わったようなものだった。たった1人の姉妹。歳の離れた姉は私の憧れで、どこへ行くにもついて行った。煩わしいときもあっただろうに、私の記憶にある姉はいつも笑顔だ。絵が得意で、いつも浜に行って海の絵を描いては私に見せてくれる、海を愛する人だった。事故の日も、海へ向かう途中だったらしい。
姉が死んで初めてのお盆の日、今日のような月の眩しい夜に私は人魚をみた。人魚は穏やかな海を大きな尾鰭で悠々と泳ぎ、ふとこちらを向いた。
息が、時間が、世界が止まった気がした。
間違いなく姉の顔だった。逆光なはずなのに、まるで浮かび上がるかのように顔がはっきり見えた。
"おねえちゃん"
口が動くが声が出ない。ヒューヒューと息が吐き出され、言葉を紡ぐことができない。
私をじっと見つめると、姉の顔をした人魚は音もなく海中に潜り、その後姿を見せなかった。
にんぎょは よいよい
おばけは こわい
きれいな にんぎょさん
てのなるほうへ
海を愛した姉は、死んで人魚になったのかもしれない。
海の神様が若くして死んだ姉を不憫に思い、海に魂を連れて行ったのかもしれない。
私は今日も姉に会いたくて、夜の海で人魚を探す。
[夜の海]#113
「アンタも見に行くか?」
町内の会長をしている隣家のお爺さんが私の顔を懐中電灯で照らしながら尋ねた。
時刻はまもなく深夜0時。
急にどこからか、鈍い鐘音がけたたましく鳴り響いた。
こんな時間にどうして、と
みんなが家の窓や玄関から顔を出している。
「いや、でも……この音って」
鐘の音は随分と聞き覚えのあるものだった。当時はもっと澄んだ音色だったが、恐らく。
「あそこだろうなぁ……」
お爺さんも同じことを思ったようで、懐中電灯を私の顔から遠くの田んぼ道へと向きを変える。田んぼ道の奥先には、10年前に廃校になったままの母校があった。
お爺さんに続いて校舎に向かう。近づくにつれて音はますます大きくなり、すぐ近くで会話をするのも困難だ。お爺さんも流石に耳に堪えるのか、顔を顰めている。
校舎に着く頃には、あまりの大音量のチャイムに道の小石が震え、音波で校舎も揺れている気がした。
時計台はすでに長針と短針が腐り落ちていて、文字盤だけが寂しく残っているだけだ。廃校になってからは誰も手をつけず、静かにそこに佇んでいた。
お爺さんが呼んだのであろう、村の人たちが車で次々とやってきて、誰かが鍵を持っていたのかドヤドヤと校舎の中へ入っていく。
少しすると鐘の音は止み、辺りは静寂に包まれたが、私は校舎の前に着いてから今も時計台から目を離せないでいた。
私の祖母の代からあった学校。小さなこの村のシンボルだった時計台。授業の終わりと始まりを知らせてくれたチャイム。廃校から10年経った今、校舎に足を踏み入れるものは誰も居ない。
(忘れないで、って……言ってるの?)
今もまだ頭に響いている。
呻くような、悲痛な叫びのような、鈍い鐘の音。
[鐘の音]#101
あと何度陽が沈んだら
あの子に会えなくなってしまうだろう
答えのない疑問が頭をよぎっては
風が攫っていく
まるで生き急ぐ様に
足早にすぎていった私の人生
生涯かけて大事に守っていくと決めた
あの子との出会い
羽根のように軽い身体を抱きしめて
ほおをすり寄せて泣いたのが
まるで昨日のことのようだ
ふと
部屋のドアが開く音がして振り向く
お母さん
私をそう呼ぶ子どもは
駆け足で私のところへ来ると
ランドセルを背負ったままベッドへ顔を埋めた
黄色い帽子の隙間から
いたずらっ子のような笑みが覗く
私はあと何度この笑顔に会えるだろう
この子のこれからの人生
楽しいことも辛いことも腹立たしいことも
全部傍で見ていたかった
部屋のドアの前には
一緒に来たのであろう母が
鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ
涙を堪えていた
ああわたし
このこを
かなしませたくなかった
[病室]#88