彼女は宇宙に行った
正しくは、帰った
私の親友 わがままで内気 面倒臭い女の子
月に帰るんだって言っていた こんな世界、まっぴらごめんだって言った口で、育ての親のお爺さんとお婆さんに 帰りたくないと泣いていた 馬鹿な子 一つの嘘だってうまくつけない そんな風にして、この世界に図々しく居座っていればよかったのに
彼女が宇宙に行ってしまったことを無念に思って、不死の薬を火口に投げ込んだ男がいたとか 馬鹿馬鹿しい 馬鹿な子に惚れる男だから程度が知れる 細く長く立ち上る煙一つで彼女に何を伝えようと言うのか 馬鹿ばかり ねぇ、やっぱり、この世界は馬鹿ばかりだ 「まっぴらごめん」だね ねぇ
親友が去ってから、お爺さんとお婆さんは萎れたようになってしまった 病にもかかった
彼女は宇宙に帰った 遠い、空の彼方
悲しみも怒りもない場所 つまり、何もない場所 楽園じゃないどこか
退屈な地獄だと思う どうせ地獄なら、ここに居座ればよかった いつものわがままを言って、喚いて、暴れて、ここに残ればよかった 馬鹿な子 罪なんて、一生背負ったままでいいのにね
遠い空の彼方に、私は手を伸ばす いくら伸ばしても届かない 指の先がピリピリと痺れてもまだ、手を伸ばす 気がすむまで 馬鹿な子 馬鹿な子 馬鹿な子
私の親友の泣き顔を思い出す
あなたに空は似合わない
どうか、幸せでいてください
そう言って、僕の彼女は消えてしまった。前の彼女も、その前の彼女も。彼女未満の、気になっていた女の子も。隣の家のお姉さんも、従姉妹も、気難しい妹も。みんな、同じ言葉を残して、逝ってしまった。
僕が彼女たちを愛したからこんなことになってしまった、んだと、思う。この小さなセカイで、君と僕の恋は、愛は、世界の命運を背負い込んでしまった。そして、彼女たちを、えいえんがあるという向こう側に突撃させてしまった。彼女たちが運命に特攻したあと、決まって骨が降り注いだ。一人の人間の身体にある骨量よりずっと多くの骨が降るから、きっとそれは特攻し死んだ彼女のものではないんだと思う(混ざって入るかもしれないけど)。僕は骨が降るたび街を歩き回り、肋骨を一本だけ拾う。それを持ち帰り、部屋の奥にしまってある木箱に収める。かちゃり、と、すでに収められている肋骨たちが鳴る。僕は、この肋骨たちを彼女たちの遺品とすることにした。向こう側にいって、骨も肉も涙も残らなかった彼女たちを悼むために、誰のものかもわからない肋骨を用意する。肋骨を詰めた箱を抱きしめるたび、僕は彼女たち一人一人を思い出す。この箱の中には彼女たちの誰一人としていないけど。僕は、この箱の、ここに詰め込まれた、誰のものでもない肋骨を通して彼女たちを感じる。
僕にとって彼女たちを感じるということは、結局のところ、彼女たちの感じた不安や寂しさや恐怖に思いを馳せることではない。彼女たちの怒りに共感することもないだろう。これはただ、あの日にあった恋心を追体験するための儀式だ。儀式だから、骨は本物でなくて良い。箱は棺でなくて良い。僕は、彼女たちを愛している。僕に、腐ることのない恋を残してくれるから。
かつん、かつん、かつん
骨がまた、降り出した。きっと、どこかで誰かが向こう側に行ったのだ。それは、少女かもしれないし少年かもしれない。老年かもしれないし青年かもしれない。そもそも、人ですらないかも。いずれにせよ、きっと、僕みたいな人間が誰かを愛してしまったということだ。
「どうか、幸福でいてください」
きっと、そう言われたのだろう。
「どうか、幸福でいてください。私の苦しみや悲しみが、私の命が、あなたの都合の良い解釈になりかわり、平べったい、美しくて無害な思い出になって、あなたの退屈を紛らすための慰めになるから。思い出を反芻することで得られるかりそめの快楽を幸福と拡大解釈してください。なるべく不幸でいなくていいように。私の命をそんなことのために使い果たすあなたが、不幸を感じるなんてあまりにも身勝手だと思うから。だから、どうか、幸福でいてください」
「君の生まれた街に行こう」
「私の生まれた街は、ここからずっと北に行った寒い寒いところです」
「雪は降るのかい」
「ええ。深く深く降り積もります。夜は、しんと静まり返り、雪がキラキラと光る美しい景色が見られます」
「是非見てみたいな」
「けれど、私の故郷に行くのは骨が折れるんです」
「どうして?」
「昔は違ったけど、今はもう電車も通っていないし、街へつながる道路もまともな状態で残ってるものはほとんど無いんです」
「ずいぶんと山奥なようだね」
「いいえ。私の生まれた街は、とても栄えた港町でした。でも、街は、滅んでしまった。爆弾が落ちて、あっという間に人々は炭になり、土地は汚染されてしまった。人が住める場所じゃ、なくなってしまった。禁足地となって久しいのです」
「なんてことだ……けれど、そんなニュースは聞いたことがないな」
「ええ。遥か遠い土地の出来事ですから。私の故郷は、遠くに行ってしまった」
「どういうこと?」
「記憶の彼方。歴史の彼方。ずっと遠く、手も届かない場所に行ってしまった。追いやられてしまった。そういうことです」
今日の天気は秋です。昨日の天気も秋でした。明日もきっと秋でしょう。私たちの毎日は、秋です。昔は日本にも秋以外の春や夏や冬があって、それぞれ色彩豊かな景色が見られたといいます。けれど、私たちにはそれがありません。私たちの季節は、いつも、秋です。
秋は突然訪れました。歴史の授業では、秋は1月の雪の降る日の晩に突然現れたと習いました。日本列島の上空を覆った秋は、枯れ木のような声で、「自分は秋である」こと、「自分は冬のやつをここで待ち伏せしてやろうと思っている」こと、「冬がここにやってくるまで日本上空を漂わせてもらう」ことを一報的に告げました。当時の人は、さぞ混乱したでしょう。だって、昔の人にとって秋や冬はただの気象現象で、「秋」のように喋ったり、自分勝手に空を漂ってひと所に秋に閉じ込めてしまったり、そんなこと想像なんてしてなかったでしょうから。けれど、実際に秋は枯れ葉が擦れるような声で言葉を喋りましたし、こうやって日本を秋の真っ只中に閉じ込めてしまいました。
冬が来る合図は、木枯らしという風だそうです。木枯らしにくくりつけた紐をソリに繋いだ乗り物で、冬はやってくるそうです。
秋がどうして冬を待ち伏せしているのかは、だぁれもしりません。
だからわたしたちは今日もまた、冬を待ちます。木枯らしが吹いたらたちまち、冬が日本にやってくるでしょう。
「わぁ」
綺麗な子。思わず声が出てしまうくらい。彼女はだらんと舌を垂らして木にぶら下がっている。ぎしぎし、と風が吹くたびに彼女が揺れて、木が鳴る。ぎしぎし。これはきっと彼女の声だ。ぎし、ぎし。美しい、と思った。
「イケメン」と騒ぎ立てられる同級生にも、「かわいい」と有名な先輩にも、私は一度だって「美しい」と思ったことはなかった。顔の造形が良いことは分かる、けど、美しいには全くもって足りなかった。美しさが分からないことに、孤独にも似た感覚を抱いていた。
私の脳は、やっと美しさを知覚した。美しさは、目の前にある。
ぎしぎし。歪んだ声で、彼女は私に語りかける。きっとこれは運命だ。
私は彼女に手を伸ばす。世界で初めて出会った、美しいあなたに。