彼女の『安らかな瞳』が、瞬きもせずに私を見つめている。
彼女は私の作業机のすぐ脇の棚の上で、すっかり眠りの体勢……キジトラと呼ばれる芸術的な毛皮に覆われた前足もしっぽも、体の内側すっかり収納済み、ふっくら体型がふっくらを増して、私を見つめていたはずの瞳も、重たくなったまぶたのせいで、どんどんと細くなってゆき……。
ああ、神様。
彼女はアナタが遣わした、眠りの精なのですね?
私は彼女に誘われるがまま、夢路へと旅立っていい……そうですよね?
そう、レポートの提出期限が明日ってのはきっと、どこか遠い国の話。
本当に、なんで……なんでこんなに、気持ちのいい……眠るって、眠れるって本当に、なんて幸せなことなんだろう……。
あー……意識が、溶けるぅ……。
ぐう。💤
「……って、また、なっちゃうからね? だからね、いまこの部屋には入れてあげられないの、許して、お願い!」
「にゃ〜」
「わーん、かわいいよぅ……でもダメ、二時間は絶対、集中しないとだし」
「にゃ〜ん?」
「っ、前足でドアをカリカリしてもダメなの〜!」
「にゃっ」
「あっ、こら! 待って、またその棚の上……お願いだから、そこで丸くならないでってばー!泣」
「フフッ。キミのこと、こうして『ずっと隣で』見てたいなぁ」
「いやあの、そろそろちゃんと神様の仕事してくれませんかね? だって聞けば、私の転生先だって決まってるって話じゃないですか? ってか隣もクソも、こんな精神だか魂だかな状態のままなんて……とにかく、肉体をくださいよ、肉体を!」
「……肉体? あ、そっか、そうだね。肉体はあったほうがこれから、いろいろと……」
「っ、えーい、そうですよ! どう転ぶにしても、このままなんて私、イヤですから!」
「うーん、でも……やっぱり先に、告白の返事を聞かせて欲しい、落ち着かないし! あっでも、断られちゃった場合は、どうしたらいい? その後のボクって、冷静に転生チュートリアル終わらせられるのかな……?」
「ちょっ、それ……私のこと、脅してます?」
「ねぇ、ボクのこと……『もっと知りたい』?」
「あー……えーと。まずは、これから転生するっていう、この世界のことが知りたい、かな?」
上下左右のどこを見渡しても、真っ白な空間。
突進してきた暴走車を避けようとして崖から転落死したという、とっても残念な前世を終えたばかりの私は、目の前にフワフワと浮かんでいる、光を放つ球体に言った。
「なんでー? そんなの、後ででもよくない?」
「いやぁ……」
さっきの自己紹介によると、球体の彼はこの世界の神様らしいんだけども。
でもね……この場所で気がついた私に向かっての第一声が、
「初めましてー! 単刀直入に言うけどさ、ボクのカノジョになって欲しいんだっ」
って、さぁ……ホント、なに言ってんだコイツ、ってなった。
でもしょうがない、状況を把握するために質問を繰り返して。
そしてようやく、ここが次元のハザマ的な場所で、私はなんだかんだでこれから異世界に転生しなくちゃで、その説明なんかのためにここに呼ばれたってことがわかって、やっとやっと、頭が働くようになったところなのだ。
頭、が……うん、いまここにいる私って、肉体、ないっぽいんだけどね?
にしても、この状態でナンパされるって、いったい?
あ、待てよ……そうか。
きっと「カノジョ」の意味が、なんか違うんじゃないかな?
「……あのぅ」
「うん、なぁに?」
「カノジョってのは、どういう意味、なのでしょう?」
「あれ? ボクはいま、キミがさっきまでいた世界の言葉を使ってるはずなんだけど。つまり、ボクはキミのことが好きだから付き合ってくださいっていう、そういう意味だよ? これなら、伝わる?」
「…………」
……えーと。
この状況で告白されたらこうしたほうがいいよ、っていうアドバイス的なのを『もっと知りたい』んですが……?
どっかにスマホ、落ちてないかなー?(切実)
彼女と僕の『平穏な日常』、なんてものは。
取るに足らない、本当にちっぽけなことで、波立ってしまうものなのだ。
「あ、おでこの、ここンとこ。このヘンになんか、できてるよね?」
「っっ! ……っ、もうっ、なんで……」
「ん? どした?」
「……フキデモノ。朝からさ、できちゃったなぁって、気にしてたの! なのに、そんなふうに……っ、あ〜〜〜、もうっ!」
「え、え、なんで、」
「気づかれたくない人には、気づかれたくないの! そのくらい、わかって欲しかった」
と、苛立った声の彼女が言い……。
そう。どうやら僕は、そのちっぽけなフキデモノには、見て見ぬフリをしなければならなかったらしく。
「えーと。いや……疲れてるのかな、って」
「………………」
パンとかベーコンエッグとか、いつもの朝食が並んだ食卓越しの彼女は、無言のまま。
ちょっと涙目になってて、むくれ顔で……あーあ。
僕たちの平穏を奪った、フキデモノの野郎……と。
僕は僕の失言を棚上げにして、この瞬間、この世の誰よりも、彼女のおでこに突如出現したフキデモノを恨む。
こうなってしまった彼女への完璧な対処法を、僕は未だに見つけられてないのに──。
「今日さ。夜はなにか、外に食べに行こうか?」
「……こんなのができちゃってるのに、外に行くのヤダ」
……はい、失敗。
こんなときどうしたらいいのか、AIにでも訊いてみようか?
んー……たぶんだけどさ、『愛と平和』を受け入れることってのは、それらに反発するよりもスゲェ難しいことなんじゃないかなぁって、例えば職場で気に食わないヤツと同じ空間にいるだけで胸ン中がザワザワしてイライラが隠せなくなったりするオイラとしてはだな、そーゆうのが受け入れられない奴のほうが世の中にはたくさんいるんじゃないか……ってね、思うから。
だからー、まだ「ラブアンドピース」ってモンを受け入れらんねぇ奴には、オイラも含めてだな、「まぁ頑張ろうぜ」って……な?
うん、そうだ。「頑張れ、頑張れ」って、注射を怖がってるちっちゃい子やワンコに言い聞かせるみたいに、とにかく励ましてやるし、そんでその怖い注射を頑張って受け入れた奴にはちゃんと「おまえ‼︎ あんなに嫌がって、怖がってたのによくやった、ちょースゲェじゃん‼︎」って、ホメちぎる準備だってしとくから。
だーかーらー。いま世界中で派手に「ラブアンドピース」に反発してるどいつもこいつも、もうちょっとだけさ、頑張ってみない? って言うからにはオイラも、職場でクッソ気に食わない奴がいても、もうちょっとだけ頑張ってみるから……って。
……あれ?
これってなんだか、上から目線ぽくね?
だってよ。どいつもこいつも、頑張ってねぇってわけじゃねぇだろ? それをなんか、どいつもこいつもが、まるで頑張ってねぇみたく……。
っとに。何様なんだよ、オイラって奴は!
えーはい! どうも、すみませんでしたー‼︎
んー……でも、さ。
この際言っとくわ、「頑張れ、頑張れ」って。
「頑張ろうぜ、お互い」って意味を込めて。
こんな独り言なんか、どこにだって届くわけなんかないんだけども。
そんでもいいから、独り言みたくつぶやいてたいだけ……ただそれだけ、なんよ?