家の中に出る蜘蛛を殺しちゃいけない、って言うあれはね、あの蜘蛛はアナタやアナタの家族専属の『時を繋ぐ糸』を吐く蜘蛛だから、なんだよ。
ほら。ふいに、自分が子どもだったころのことやなんかを、思い出すことがあるだろう? あれはアナタの蜘蛛が、吐いた糸を過去へ向かって投げて、パッと捕まえるから。まぁ投げ輪が上手くない蜘蛛もいれば、糸をしっかり網に仕立てている蜘蛛もいるし、それぞれなんだけど。それでボクらは、その蜘蛛の糸経由で、過去に繋がって……。
ああ、それでね。実はね、ボクはうっかり、ボクの小指くらいの大きさの蜘蛛を、潰してしまったことがあって。そしたら別の蜘蛛がやって来て、そいつは、糸で過去を絡め取るのが嫌なくらいに上手くて。余計なことすんなよ、って言いたくなるくらいに、ボクの嫌な過去ばっかりを、ボクに繋いでくるんだよねぇ。そう、まるでボクを、狂わせようとしてるみたいに……。
──オマエは。
時を繋ぐ糸吐く蜘蛛を、殺めた者。
……って、そんな声も糸経由で、うるさいくらいに聞こえてくるし……あーうん、そっかそっか。
もし、代わりに来てくれたこの蜘蛛を、ボクがまた潰してしまったら。そのときはまた、新しい蜘蛛がやって来て、その蜘蛛は、もっと大きな声でボクを責めて、もっと上手にボクの忘れたい過去だけを絡め取ってくる……だってさ!
わかった、わかった。ボクはもう蜘蛛を潰したりなんかしない──けど、ハサミでこの糸を切るくらいの抵抗は、させてもらおうかな?
駅から住宅地へと続く並木道の途中に、私の店はあって。この道に延々と植わっているのはユリノキなんて可愛らしい名前の、だけど昔からある並木道だけあって、そこそこ育っている立派な木で、夏にはその大きな葉っぱで直射日光を遮ってくれたりもするのだけれど。
「……わあ。今日も、大量」
店先はまさに『落ち葉の道』って感じで、アスファルトのはずの地面が見えないほどの、大きな葉の、たくさんの落ち葉が……。
あーもう、店の体面的にも、この状態はマズい。
でもバイトさんたちの出勤時間まで、まだだいぶ時間あるんだよねぇ。
出勤したばかりの私は、コックコートに着替えずに私服のまま、ホウキとチリトリのセットを手に、店の外に出る。ユリノキ、別名ハンテンノキ──なんでもこの大きな葉が、半纏の形に似ているからだそうで。
「いいデザインの葉っぱなんだけどねぇ……」
ふう、とため息をつきつつ、チリトリをガコンガコン言わせながら落ち葉を回収して、ゴミ袋に入れて……うーん。正直、メンドクサイ!
あーあ。こんなことなら、もう一つの物件のほうがよかったかも? なーんて……候補を最後の二つに絞って、考えに考えた末、いまのこの物件を借りて開店したわけなんだけど。もしあっちだったら、並木道じゃないから、こんな苦労はしなくて済んだはず、で……。
「あー……でも、それじゃダメだ」
「なにがダメなんですか?」
独り言に合いの手を入れられて顔を上げると、スバルくんが立っていた。
「おはよう。あれ、もうそんな時間かぁ」
「おはようございます。ユウナさんそれ、代わりますよ。あと、なにがダメなのか気になるんですけど」
「え? あーうん、まぁ独り言だからさ? こっちはもう終わりそうだから大丈夫、仕込みのほう頼むねー」
スバルくんを無理矢理店の中に押し込み、私は掃き掃除を再開する。
顔がニヤけそうになりながら、思い出すのは──面接のときの、スバルくんのこと。
『志望の動機、ですか? レストランで働いてみたかったのと、あとは……お店の場所が、住んでるアパートから近かったので』
そう、もう一つの物件だとスバルくんのアパートからは、電車の乗り換えもあって通いづらくて、だから──スバルくんとは、会えなかったかもしれないのだ。
「うん。この物件に決めて、よかった!」
掃き終えたアスファルトにひらり、と落ちてきたユリノキの葉を、指でつまみ上げながら。
私はそんな独り言を、盛大につぶやいたのだった。
「『君が隠した鍵』という表現は正しいが、間違ってもいる。なぜなら──君こそが、この封印の鍵だからだ」
僕は言い、けれど彼女は、薄く微笑みを浮かべて僕を見つめているだけだった。
「どうして……最後の最後にこんな、残酷な事実を僕に突き付けるんだ?」
「フフッ。やだなぁ、簡単な二択だよ? 封印を解くか、解かないか──わたしに封印されてしまった"勇者の力"を取り戻して世界を救うか、それとも、救わないか。どっちを選ぶかなんて、わかりきってることじゃない?」
「……君を犠牲にして、世界を救え、と?」
「いーじゃない、べつに。だってわたしは勇者の敵、勇者を弱体化させるために遣わされた魔王様のしもべで、ああでも……情が、移っちゃった?」
彼女が、両方の腕を僕に向かって差し出しながら僕のほうへ、ゆっくりと歩みを進める。すぐにでも引き寄せ、この腕に抱きたい──いや、遠ざけなければ彼女は、僕に施した封印を解いてしまうんだ。
「あなたは、わたしが隠した鍵を見つけた。そしてわたしはもう逃げられない、ならさっさと鍵としての役目を果たして、全部終わりにしたいの。あなただって、こんなところでぐずぐずしてるわけにはいかないでしょう?」
僕の体に施されている封印が、鍵である彼女に反応して、熱を帯びる。……どうして、どうして君は、どうしたらいい、僕はこんな結末を望んでいない、でも、僕は……!
わたしが『手放した時間』たちが、どれほど尊く得難いものだったかなんて、わたしはきっと、最後まで気がつけはしないのだ。
だから、手放した時間の代わりに選んだ未来の果てで思う存分、野垂れ死ねばいい──後悔をする必要もないのだ。
『紅の記憶』
「あっ……やだ、どうしよう」
学食を出てすぐの通路で。俺にぶつかってきた彼女は、自分が付けた口紅の跡に、ひどく狼狽えている。顔を真っ赤にして涙目で、でも俺の顔を見上げることなく、俺のTシャツを凝視していた。
「ごめんなさい! クリーニング、じゃなくて、弁償? 口紅って落ちるのかな? っ、わかんない、どうしたら、」
「えーと。ますば落ち着いて、大丈夫なんで」
ああ……よく見れば。ついさっき、学食で見かけたばかりの女の子だ。
学食の一つ向こうの長テーブルで友人らに、弄ばれるように化粧をされていたのが、彼女で。俺はそれを、カレーをカツカツとかっこみながら、見るともなしに眺めていたのだ。
そう確か、人生初めての口紅だ、とかなんとか言って、騒いでて……。
「本当にごめんなさいっ、この後授業とか、」
「あと一限あるけど、パーカーあるから問題ないし。それにこのTシャツ安モンで、もう捨てようって思ってたところだから」
「えっ? 捨てる?」
そこで、やっと彼女が顔を上げ、俺を見て──。
「……口紅。伸びて、ここんとこにも付いてる」
俺が自分の頬を指差しながら言うと、彼女は怪訝そうに首をかしげ、無意識に、自身の唇に手をやって。それで、その手に付着した紅がまた、彼女の頬を汚した。
「あー……先に、そっちの口紅落としたほうが。クレンジングシートとか、誰かにもらってさ」
「私の顔、すごいことになってる? でも私の顔なんかより服が、」
「いいって。あーでも、気になるなら……連絡先、交換しとく?」
◇◇
その後、なんやかんやあって、俺の隣にいて俺と手を絡めている彼女は、口紅を塗らない。
どうやらあのときのことが、ちょっとしたトラウマになっているようだ。
だから、あのとき──口紅の深紅を唇から頬に走らせて、戸惑いながら俺を見上げた彼女の顔に、俺が一目惚れしてしまったことは、秘密で。
それを忘れたくなくてTシャツを捨てられずに飾ってることももちろん秘密、けどあのTシャツは、明日俺の部屋に来る彼女のためにも、今夜中に証拠隠滅……でもまぁ、画像保存くらいは許されるよな?
……あーあ、ったく。
俺が大変に気持ちの悪い男になったのは、いったい誰のせいだと思う?