『紅の記憶』
「あっ……やだ、どうしよう」
学食を出てすぐの通路で。俺にぶつかってきた彼女は、自分が付けた口紅の跡に、ひどく狼狽えている。顔を真っ赤にして涙目で、でも俺の顔を見上げることなく、俺のTシャツを凝視していた。
「ごめんなさい! クリーニング、じゃなくて、弁償? 口紅って落ちるのかな? っ、わかんない、どうしたら、」
「えーと。ますば落ち着いて、大丈夫なんで」
ああ……よく見れば。ついさっき、学食で見かけたばかりの女の子だ。
学食の一つ向こうの長テーブルで友人らに、弄ばれるように化粧をされていたのが、彼女で。俺はそれを、カレーをカツカツとかっこみながら、見るともなしに眺めていたのだ。
そう確か、人生初めての口紅だ、とかなんとか言って、騒いでて……。
「本当にごめんなさいっ、この後授業とか、」
「あと一限あるけど、パーカーあるから問題ないし。それにこのTシャツ安モンで、もう捨てようって思ってたところだから」
「えっ? 捨てる?」
そこで、やっと彼女が顔を上げ、俺を見て──。
「……口紅。伸びて、ここんとこにも付いてる」
俺が自分の頬を指差しながら言うと、彼女は怪訝そうに首をかしげ、無意識に、自身の唇に手をやって。それで、その手に付着した紅がまた、彼女の頬を汚した。
「あー……先に、そっちの口紅落としたほうが。クレンジングシートとか、誰かにもらってさ」
「私の顔、すごいことになってる? でも私の顔なんかより服が、」
「いいって。あーでも、気になるなら……連絡先、交換しとく?」
◇◇
その後、なんやかんやあって、俺の隣にいて俺と手を絡めている彼女は、口紅を塗らない。
どうやらあのときのことが、ちょっとしたトラウマになっているようだ。
だから、あのとき──口紅の深紅を唇から頬に走らせて、戸惑いながら俺を見上げた彼女の顔に、俺が一目惚れしてしまったことは、秘密で。
それを忘れたくなくてTシャツを捨てられずに飾ってることももちろん秘密、けどあのTシャツは、明日俺の部屋に来る彼女のためにも、今夜中に証拠隠滅……でもまぁ、画像保存くらいは許されるよな?
……あーあ、ったく。
俺が大変に気持ちの悪い男になったのは、いったい誰のせいだと思う?
11/23/2025, 9:58:13 AM