#53 愛と平和
それを歌えた頃が懐かしい。
兄から譲り受けた部屋には、たくさんのCDと1本のギターが残されていた。
時間をかけて全部聴いた。
錆びた弦など気にもしないで、指先の指紋がなくなるまで弾いた。
自然と、歌うようになった。
独りだった。
ちっぽけだった。
若かった。
パンクでロックを気取りながらも、理解のできない英語でできた、愛と平和を信じてた。
一人だ。
大きさの分からぬ歯車だ。
もう若くはない。
トイックで800点取ったのに、理解ができなくなった歌詞。
それでも。
着慣れたスーツの奥で、鳴ることがある。
兄の墓の前で、聴こえることがある。
別れた彼女の思い出の中で、響くことがある。
恥ずかしい思いに、寝返りを打った。
一度でも信じたことがあるのなら、まだ歌えるのかもしれない。そう思ってしまった。
眠れなかった。
愛と平和どころではない月曜日を着々と迎えていた。
薄く、唇を開いた。
夜明け前の鼻歌は、掠れていた。
#52 鏡の中の自分
――君、僕のこと好きでしょ。
隣に並んだ彼が突如断言した。
手を洗っていた俺は驚いて、元々何も発していなかった口を、さらに固く閉ざした。
水色の正方形が並び、作られた柑橘類の臭いで満たされた学校の男子トイレなどと言うこの空間は、美しすぎる彼にはあまりに不釣り合いだった。
そんな場所で、銀色の蛇口からこぼれ続ける締まりの悪い水道水は、俺の隠せない動揺のようだった。
「ど、……」
「当然だから」
俺が何か言葉を放つ前に被せて言い切った彼は、キッチリと三角の蛇口を締めた。そして、カッターシャツの脇に挟んでいた高級そうなハンカチで手を拭いた。
その間も、彼の視線は鏡の中の己に熱く注がれていた。艶めき整ったその髪型だけじゃない。薄く化粧を施したような、俺たちの年代にはあり得ない肌理の細かさを持った肌も、入念に堪能しているようだった。
「僕なんだ。当然だろ」
今度は、澄み渡り、自信と自己愛に満ちた視線で俺を射抜きながら言う。生粋の一人称“僕”遣いの日本男児が、ここには存在している。クエスチョンマークをただの一度も使用したことのない日本男児が、ここには存在している。
「そうだね……」
「フッ」
俺が完全に陥落した、説得力のある肯定の四文字を落とすと、彼は満足気に鼻で笑った。
そして言った。
「僕はお前を好きじゃない。だけど、心底知ってみたいと思うんだ」
何を? そう俺が問い返す前に、彼は放った。
「死にたくなるくらい自分が嫌いな人間の気分」
その言葉が持つ暴力的なまでの素直さに、俺は今度こそ絶句した。あまりに衝撃的だったが、傷付いたわけではなかった。
やっぱり彼が好きだ、と。無様にそう思うだけだった。
俯きがちで、前髪のチラつく俺の狭い視界の中にも、彼はいつもレッドカーペットを歩く母親想いのハリウッドスターのように颯爽と入り込んできた。
教室に満ちた読みようのない空気も移動教室先の机に並んだ恋愛のポエムも、勉強した形跡の残らない新品のような教科書も誰にも貸したことのない英和辞書も。学校や同級生に纏わる何もかもを見たくない俺が、唯一、見たいと思うもの。見たいという欲求を抑えられないもの。それは、神様の最高傑作である彼だ。
見透かすような目で、見透かされていたのだと知る。だけど、それでも彼は理解できない。死にたくなるくらい自分が嫌いな人間の“気分”。気持ちじゃなくて、気分。
誰もいなくなった空間に、水音はまだ響いている。
俺はそういう“気分”になって、梁に縄をかけるように、風呂上がりの薄暗い洗面台でしか行わない儀式を、白昼の男子トイレで決行した。
恐る恐る、顔を上げる。
震える指先で、前髪を払う。
鏡の中の自分を見つめる……。
フッと、悲鳴の代わりに、荒いため息が吐きこぼれた。
ニキビで埋め尽くされた顔には、線で書いたような釣り上がった目が二つある。
盛り上がった頬骨と、げっそりと尖った顎。
そこに張り付く乾いた厚い唇。
それを見た瞬間に心と脳を支配する、この“気分”――。
俺は慌てて、掻き毟るように前髪を戻した。
目に水の膜が張って、呼吸が浅くなった。
嫌な高鳴りを見せる心臓を抑えながら、俺も知りたいと思う。狂気に囚われそうになるくらい自分が好きな人間の気分を。
俺は吐き気を覚えて、男子トイレの個室に駆け戻った。
鳴り響くチャイムの音を聞きながら、意味もなく、激しく頷きたくなる。
そう。俺だって見透かしているんだ、彼のことを。
彼は、鏡の中の自分しか愛せない。
それは殺したくなる程羨ましい、理解のできない悲しみなんだろう。
#51 ジャングルジム
「猿め。」
腹の出た草臥れたスーツ姿のおっさんにそう吐き捨てられても、僕らは何も感じなかった。
むしろ、アルコールに熱せられた優越感がますます膨張して、缶の中身を今すぐにでも空にしたくなる衝動に駆られた。
お金の無さと不自由さに苛まれながら、ただただ若さだけを自覚し呑んでいる僕らには、この公園はあまりに広大で、闇に包まれた安全な楽園で。大人など取るに足らない存在だった。
錆びた歯車が消えていった、暗く茂った道を目で辿っていると、膝のあたりでふわりと風が舞った。咄嗟に振り返る。
そこには彼女が居て、風は、ワンピースの裾が彼女の大胆な歩幅に合わせて翻った証だった。
彼女は公園の中央に佇む城に手を掛けたところだった。僕はあれだけ頼りにしていた缶ビールをその場に捨て置いて、反射のように彼女を追った。
「君も来なよ。怖いよ」
怖いと言う割に、彼女はとても楽しそうな顔をしている。街灯に照らされた恐らくブルーの無骨な遊具は、側から見れば大した高さには見えない。
僕は彼女のスカートの中につい視線を走らせてしまってから、すぐに薄汚れた青い棒に手を掛けた。許可を得た僕は、永くて短い夏休みの愚昧な勝者だった。
確かに実際に登ってみると、足場の頼りなさが高さを押し上げて感じられた。身体を捩り入り組んだ躯体を見下ろしながら、上手くすれば、たぶんこれを使って死ぬことだってできると思った。
「猿ならこんなもの、怖がらない」
僕は気がつくと、余計な言葉をこぼしていた。彼女のかわいい眼球が、僕の方を向いた。
「いい眺めだ」
そう取り繕うように続けた僕に安心した彼女の気配を知って、僕は瞬く間に永くて短い夏休みの英明な敗者となったのだと、悟った。
分かっている。ぼくは公園の正しい広さを知っているし、塞いだ耳から大人の足音を聴いている。
自分がどれだけ不安定なところに座っているかも、ちゃんと、分かっている。
#50 明日、もし晴れたら
明日、もし晴れたらなんて
天気の所為にしないよ
晴れなくなって
なんだってやるよ
雨だって味方にするよ
馬鹿にするなよ
死なないことに必死なんだ
浅ましい人間を真っ当するのに
血を吐いているんだ
地球に対する迷惑行為だと
どこか自覚しながら
意味の分からない最寄りのプラットフォームで
明日もまた
惰性みたいな眩しい日差しを浴びている
#49 お祭り
いろいろあって
引越したばかりの家の前
ほんの小さな公園で盆踊り
この地に慣れきった
子どもとおとなの
安心しきった賑やかな声と歌
ぱしっと揃った手拍子が鳴って
まだダンボールの残った部屋
お祭り騒ぎが染み込んだ
生温い夏の夜風が
さびしさをカーテンの外へ追い出すと
ヨーヨーが地面に落ちて
涼やかな水飛沫
涙のかわりに
ありがとうの
はなうたがこぼれた