小砂音

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#52 鏡の中の自分

――君、僕のこと好きでしょ。

隣に並んだ彼が突如断言した。
手を洗っていた俺は驚いて、元々何も発していなかった口を、さらに固く閉ざした。

水色の正方形が並び、作られた柑橘類の臭いで満たされた学校の男子トイレなどと言うこの空間は、美しすぎる彼にはあまりに不釣り合いだった。

そんな場所で、銀色の蛇口からこぼれ続ける締まりの悪い水道水は、俺の隠せない動揺のようだった。

「ど、……」
「当然だから」

俺が何か言葉を放つ前に被せて言い切った彼は、キッチリと三角の蛇口を締めた。そして、カッターシャツの脇に挟んでいた高級そうなハンカチで手を拭いた。

その間も、彼の視線は鏡の中の己に熱く注がれていた。艶めき整ったその髪型だけじゃない。薄く化粧を施したような、俺たちの年代にはあり得ない肌理の細かさを持った肌も、入念に堪能しているようだった。

「僕なんだ。当然だろ」

今度は、澄み渡り、自信と自己愛に満ちた視線で俺を射抜きながら言う。生粋の一人称“僕”遣いの日本男児が、ここには存在している。クエスチョンマークをただの一度も使用したことのない日本男児が、ここには存在している。

「そうだね……」
「フッ」

俺が完全に陥落した、説得力のある肯定の四文字を落とすと、彼は満足気に鼻で笑った。
そして言った。

「僕はお前を好きじゃない。だけど、心底知ってみたいと思うんだ」

何を? そう俺が問い返す前に、彼は放った。

「死にたくなるくらい自分が嫌いな人間の気分」

その言葉が持つ暴力的なまでの素直さに、俺は今度こそ絶句した。あまりに衝撃的だったが、傷付いたわけではなかった。

やっぱり彼が好きだ、と。無様にそう思うだけだった。

俯きがちで、前髪のチラつく俺の狭い視界の中にも、彼はいつもレッドカーペットを歩く母親想いのハリウッドスターのように颯爽と入り込んできた。

教室に満ちた読みようのない空気も移動教室先の机に並んだ恋愛のポエムも、勉強した形跡の残らない新品のような教科書も誰にも貸したことのない英和辞書も。学校や同級生に纏わる何もかもを見たくない俺が、唯一、見たいと思うもの。見たいという欲求を抑えられないもの。それは、神様の最高傑作である彼だ。

見透かすような目で、見透かされていたのだと知る。だけど、それでも彼は理解できない。死にたくなるくらい自分が嫌いな人間の“気分”。気持ちじゃなくて、気分。

誰もいなくなった空間に、水音はまだ響いている。

俺はそういう“気分”になって、梁に縄をかけるように、風呂上がりの薄暗い洗面台でしか行わない儀式を、白昼の男子トイレで決行した。

恐る恐る、顔を上げる。

震える指先で、前髪を払う。

鏡の中の自分を見つめる……。

フッと、悲鳴の代わりに、荒いため息が吐きこぼれた。

ニキビで埋め尽くされた顔には、線で書いたような釣り上がった目が二つある。

盛り上がった頬骨と、げっそりと尖った顎。

そこに張り付く乾いた厚い唇。

それを見た瞬間に心と脳を支配する、この“気分”――。

俺は慌てて、掻き毟るように前髪を戻した。
目に水の膜が張って、呼吸が浅くなった。

嫌な高鳴りを見せる心臓を抑えながら、俺も知りたいと思う。狂気に囚われそうになるくらい自分が好きな人間の気分を。

俺は吐き気を覚えて、男子トイレの個室に駆け戻った。

鳴り響くチャイムの音を聞きながら、意味もなく、激しく頷きたくなる。

そう。俺だって見透かしているんだ、彼のことを。

彼は、鏡の中の自分しか愛せない。

それは殺したくなる程羨ましい、理解のできない悲しみなんだろう。

11/3/2023, 1:42:38 PM