ユズ

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12/13/2022, 2:00:33 PM

愛を注いで

幼少の頃、父の実家は小さなスーパーを経営していた。近所のおばちゃんたちにはとても可愛がられた。子どもながらに小さな店であっても、店の信頼、暖簾を背負っていると感じた。

祖父母に連れて行ってもらうのは、仕入先の卸売市場。市場近くの喫茶店。忙しいなか、少しの時間を一緒に過ごしてくれた。

釣りに行ったり、農作物の収穫をさせてくれたり、お店の手伝いをさせてもらった。子供だから上手にはできない。自分がやったほうが早いのに、失敗しても、下手でも、静かに見守り、経験をさせてくれた。

思春期には会いに行く機会が減り、会うたびに食品やお小遣いをもらった。お金やモノでだけつながっているみたいで、寂しかった。もっと私に興味を持って、頑張っていることを褒めてと。

愛の注ぎかたには色んな形がある。忙しいなかでも、私が喜ぶと思って与えてもらったことを素直に喜ぶことができなかったことを後悔している。

愛を注いでと求めるばかりだった自分は、今、誰に愛を注いでいるのだろう?これから先、私は自分が注いでもらったように誰かに愛を注げるのだろうか?

愛はこんなにも近くにあふれていたのに、薄れてようやく気づくものなのかもしれない。

12/13/2022, 8:15:16 AM

心と心

職業柄、他人の悩みを聞くことが多い。改善の可能性を探り、無理強いはしないが、ご提案をする。気持ちに寄り添うこと。寄り添いますよ。と見せかける演技力が必要とされる。

自分のことですら何が正解か分からないことも多いなか、他人に正しいアドバイスができているかどうか分からない。

初めて会う年齢も若い相手に対して、「お願いします。どうにかしてください。」「おまえはプロだから分かるだろう」と言う人もいる。

藁をも掴みたいほど、困った状況の人の心に真正面から向き合い、寄り添えば共倒れする。ただ、若い人ほど、仕事と割り切って、私のできるのはここまでです。とはっきりラインを引くことができない。だからこそ、心の弱った人間は自分の気持ちをもっと理解し、解決に導くのがおまえの仕事だと頼ろうとする。

家族や愛する人のために心を砕いて尽くしても、仕事においては、自分が果たして適任か?身を削る思いで応じるべきか客観的に考え、自分の心の守るべきだ。みんなに愛され、好かれようとするのは無理なのだから、大事な人のために自分を大事にしなければ。

12/12/2022, 5:55:56 AM

何でもないフリ

「今日は大安です。一粒万倍日です。」
宝くじ売り場前で繰り返される呼び込みの声。

世の中の吉日が万人にとって吉日ではないようだ。当たり前か、吉日であろうとなかろうと事故や病気で亡くなる人もいるのだから。

慎重な性格といえば聞こえが良いが、面倒臭がりで臆病だからゆえに自分から知らない場所に足を運んだり、珍しいものを食べに出かけたりしない。

知りたいとなんて思わないみたいなフリをしているが、年齢を重ねてもまだこんなことすら知らないなんて恥ずかしいという気持ちもある。

無欲で慎ましいとは程遠く、内面には人間らしい欲望もあるし、嫉妬や妬みもある。何でもないフリをしているだけなのだ。

子供の頃から感情や欲望が周りに伝わらないように、寂しく辛くても、笑顔を作り、嬉しくて飛び跳ねたい時には冷静を装った。

自分自身の素の感情に嘘をつき続けることで、自分を愛せなくなった。ズルくて、したたかな感じがして、なぜ素直になれないんだろうかと苦しんだ。

音楽を通して、素直な自分を表に出すことへの恐怖や不安が小さくなった。私が出会った楽器は、二胡という弦楽器だ。“ド”の鍵盤を押さえれば、必ず“ド”が出るピアノとは違い、緊張、苛立ち、心地よさ、自信の有無といった内面の状態が、指に入る力の度合いや姿勢の崩れなどにより、全てが音に表れる。

最初は恥ずかしくて、怖かった。緊張してどんなに乱れた演奏をしても、周りの人は何でもないフリをしてくれた。どんな状態であっても、自分のことを否定しないで、ただ見守ってくれたことが嬉しかった。

何でもないフリは無関心だけじゃない。相手を傷つけないための優しさでもある。

12/11/2022, 1:08:23 AM

仲間

学生時代、いくつもの仲良しグループができる中、私はどのグループにも属せなかった。音楽や家庭科の授業でのグループ実習、修学旅行などの班を決める時に、余り者の私は行き場がなくなる。

学校という人がたくさんいる場でありながら、心のなかでは孤立していた。出席しなくても出席簿には○がついている。誰にも気をかけてもらえない。自分から孤立していると感じていることを言葉にすることもできなかった。

社会人として企業組織で働くようになり、仕事のうえでは仕事仲間として、互いにコミュニケーションをとる。ただ、プライベートでは職場の人間とは関わらない。

グループや組織にいれば、居場所はある。守られる安心感がある。人間は集うことで、自分の存在意義を認識し、困難や不安なことも、一人ではないから大丈夫だと根拠もなく不安を軽減できるし、もし間違えた選択をしても、自分だけのせいだけではないのだからと開き直ることもできる。

同じことに好感を抱いたり、共に苦楽を乗り越えた成功体験を経て、自分自身の人間性を育てる仲間なら、属しておくべきだが、自身の考えや気持ちにそぐわないのに、有利不利とか依存心だけで仲間を選ぶのは不幸だと思う。

12/9/2022, 2:50:10 PM

手を繋いで

クリスマスシーズンのイルミネーション、4時くらいからライトアップの瞬間を待つ。

手袋をしても冷えきっている私の手をパンのようにふかふかな大きな手が包み込む。何度あの温かい大きな手に救われたことだろう。癒やされたことだろう。

もう二度と繋ぐことのない彼の手を、きらびやかなイルミネーションを見るたびに思い出す。誰かと手を繋いでイルミネーションを見て歩く、この人生であるかどうか分からない。

私と手を繋いで、共に人生を歩む人と出会うために、今日も生きる。

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