彼女が記憶喪失になったので自己紹介をする。
「初めまして」から始まる会話は、今日で何度目だろう。判らない。数えることは随分前に止めてしまった。けれど、4桁はいかないはずだ。でも、4桁に近い数字であることを否定は出来ない。それぐらい沢山、繰り返してきた。
「初めまして、私の名前は——」
0から築き直す関係は、一度も険悪にならない。
彼女からすれば0より前が無いので悪くなりようもないけれど、だからこれは私の問題なのだけれど、不思議と嫌ではないのだ。苦にもならない。何故かは不明だ。彼女が大好きで愛し過ぎているからかもしれない。0より前を思い出して悲しさや淋しさを煮詰めるより、0から始めて新発見した点に喜びを感じているからかもしれない。実際、彼女は全く飽きない人だ。
0より前が無く、0より先へ行けない人。
過去がなく、未来もない彼女。
飽き性な私が、全く飽きられない存在。
明日もまた「初めまして」な彼女がやってくる。
だから、今ここにいる0のきみを強く抱き締めておく。
To.10年前の私
元気で生きていないことは判っています。そして、今あなたが一番訊きたいことも判っている。私はあなたですもの。
だから私好みに、端的に言いましょう。
世界は苦悶に満ちています。私は然程、幸福ではありません。戦争は起こるし水は腐るし、夏は燃えて冬は凍ったり……やっぱり燃えたりします。核より恐ろしいものが飛び交っています。あなたが今感じている『地獄』と変わりありません。
しかし、全く不幸というわけでもないのです。それは確かです。
というより寧ろ、10年後のあなたは『幸福マスター』です。どんな小さな出来事からも幸福を見つけ出す天才になっています。そして、その幸せを他人へ分け与える余裕を持っています。
何故、そんなことが出来るようになったのか。
答えは、私がこの手紙を書いている今から10年前の経験に隠されています。
From.10年後の私
英語を覚えた。
中国語を覚え、フランス語、イタリア語、ドイツ語、アラビア語、ロシア語、その他あらゆる言語を可能な限り覚えた。
手話を覚えた。
点字を覚えた。
「言語学者にでもなるつもりかよ」
友達が揶揄ってくる。そんな崇高な目的なんてない。もっと個人的で俗っぽくて、ちょっと恥ずかしい理由だ。
「愛してる」
その一言を伝えたい。
ただそれだけ。
誰もがみんな寝静まる真夜中、影が動き出す。
寝床を出てふわりと宙に浮いた影は、するすると夜空へ昇る。影は星空が好きだ。凍て星が一等お気に入りだけれど、その実、星が輝けば季節など関係ない。地を潤す雨も、静かに世界を覆う雪も、悪戯な風も、轟く雷も好きだ。誰もがみんな、そうであるように。
夜空をご機嫌に散歩中、綺麗なベッドで眠る幸福な子供を見つける。誰もがみんな好きなように、影も幸福な子供が好きだ。影はするすると子供の枕元に降りる。そしてこめかみにキスをして夢を頂戴する。
ふわふわで甘い天国の味を堪能して、再び夜空へ。
しばらくして、今度は不幸な子供を見つける。ごみ同然の、住居とは言えない住居の中で、ごみと見紛えるほどに汚い可哀想な子供。誰もがみんな同情するだろう痩躯を見下ろし、影は憐れに思う。どうしてみんなが平等な夜を過ごし、平等な朝を迎えられないのか不思議に思う。
するすると子供の傍らに降りた影は身体を横たえる。ありもしない体温を分け与えるように。そうしながら、自分の身に溜めた幸福を優しく分けてあげる。きっと誰もがみんな、こうするだろうと希望を抱きながら。
入院中の夫がクローバーをくれた。
「これ、どうしたの?」
「作ったんだ」
こいつで、と掲げられたのは一冊の『折り紙の本』。談話室に設置された本棚で見つけたらしい。スマホで動画を観尽くし、無料漫画も読み尽くし、SNSのチェックにも飽きたようだ。ふーん、いいんじゃない? ずっとスマホを弄るのは目に悪いからね。
「でも、なんでクローバー?」
「『数分でも見舞いに来てくれる妻に幸あれ』ってね」
その日から夫は毎回折り紙を折って、私に作品をくれる。
ハート。蓮の花。薔薇。チューリップ。紫陽花。朝顔。カラー。水仙。ひまわり。ダリア。椿。たんぽぽ。カーネーション。
私の名前に入ってる桃の花が沢山。私が好きな百合は、もっといっぱい。
花柄の箱まで用意してくれた。勿論、イラスト込みでの手作りだ。それに入れて、貰った花は大切にとっておいている。ひとつも欠かさずに。
最後の作品はポインセチア。メリークリスマスの言葉と一緒に差し出され、私は泣いた。彼の退院と同じぐらい最高のクリスマスプレゼントだった。
さあ、今度は私の番。
ひと折りひと折りに感謝の気持ちを込めて。
恐竜好きな彼のために、まずはティラノサウルスを折ってあげよう。