それは
窓を開けたつもりで
ずっと排気口に顔を近づけていた、
そんな感じだ。
Xは、
スケジュール帳でもなく、
広告の掲示板でもなく、
元々、昔は
声に出すほどでもない言葉の避難場所だった。
今日あったこと、
今浮かんだ違和感、
まだ整理されていない感情。
完成させる気のない文章を
息の延長みたいに置いていく場所。
あれは主張じゃなく、
記録でも宣言でもなく、
思考が自分の形を探す途中の音だった。
私は書いていなかった。
掲げてもいなかった。
他人の日記の頁を、延々とめくっていただけ。
でも、そのうち、
あの呟くような日記は、掲示物に変質した。
読む前提、評価される前提で言葉が歪んでいく。
そうなると、
もう
呟きを置く場所じゃなくなる。
風のつもりで吸い込んだものが
実は
誰かの焦げた言葉や
未消化の怒りの粉塵で、
肺の奥に
静かに積もっていく。
最初は
「少しむせるだけ」だった。
目も冴えるし、
世界をどう誘導したい人がいるのかを、
感じられる気もした。
でも
気づくと
心拍が一拍早くなり、
思考は常に
警報音の横に置かれるようになっていた。
だから目を伏せた。
ページを閉じた。
言葉の洪水から
視線だけを引き上げた。
逃げたわけじゃない。
酸素濃度を
自分の体に戻しただけ。
今は
静かな場所で
呼吸がちゃんと
胸まで届く。
世界はまだ騒がしい。
でも
その全部を
吸い込まなくていいことを
思い出しただけだ。
題 閉ざされた日記
木枯らしは、
何かを壊そうとして吹いていない。
ただ、
空気の粒を荒らし、
砂を巻き上げ、
呼吸の経路にノイズを流し込む。
感知器は壊れていない。
むしろ、よく拾う。
音も、間も、
ため息の角度も、
沈黙の長さも。
だから、
身体の内側では
選別と予測と防御が
休みなく走る。
まだ起きていない衝突の
予告編だけが
繰り返し再生される。
木枯らしは、
敵の姿を見せない。
どこから吹いているのかも
いつ止むのかも
はっきりしない。
ただ、
「安全ではない」という情報だけを
一定の風量で送り続ける。
逃げ場はない。
止める対象もない。
だから神経は
未確定の緊張を抱えたまま
拘束される。
外から見れば、
誰も殴られていない。
何も起きていない顔をしている。
けれど、
回転部には砂が残る。
アクセルを踏んでも
力はきれいに伝わらない。
反応は遅れ、
判断は鈍り、
思考は重くなる。
それは破壊ではなく、
摩耗だ。
跡は残らない。
ただ、
神経系の奥に
乾いた冷気だけが居座る。
木枯らしは過ぎ去っても、
身体はまだ
その風向きを
記憶している。
これは嘆きではない。
長く吹きさらしの場所で
生き延びた結果としての
静かな後遺症。
木枯らしとして
読むことができる、
確かな事実。
題 木枯らし
鳥は、
「この色が好きだ」と考えてはいない。
ただ、その刺激だけが、
ほかよりも高い処理優先度を与えられている。
人も同じだ。
美しいものを見たとき、
「怠惰が読み取れないからだ」とは思わない。
「努力の結果だ」とも思わない。
ただ、
足が止まり、
息が一拍遅れ、
視線が引き寄せられる。
その反応は、感情ではない。
痩せていることは、美しさそのものではない。
飾り気のなさは、怠惰の証明でもない。
健康に近づくことは、美しさに近いが、正解ではない。
表情も同じだ。
笑顔が張り付けば、
それはもはや好まれるとは言えなくなる。
覇気が過剰になれば、
そこには息苦しさが生まれる。
幼稚園の担任が、子どもたちに向けて
「今日も、みんないい顔してるね」
そう言うときの“いい顔”は、
美しさにかなり近い。
けれど、それもまた唯一の答えではない。
退廃的な美も、確かに存在する。
人の美しさも、
本来はもっと、
花が咲いたり、
光が屈折したりするのと、
近い場所にあったはずだ。
山が空気の層を、
静かに切り替える場所に、
サンカヨウという花が咲いている。
図鑑に載る白は、少し雄弁だ。
実際の花は、
手のひらに隠れるほどの在り方で、
群れても、主張しない。
雨が音を細かくほどき、
地に潜り、
眠っていた香気を
ゆっくりと立ち上がらせるころ、
そのやわらかな花弁は、
降り注ぐ雫に触れ、
静かに、白の役目を終える。
消えたのではない。
ただ、光を受け取るのをやめ、
水と世界のあいだへ、身を透かす。
形は残る。
その小さな質量は、
確かにそこにある。
可視性だけを手放し、
内部を、そのまま差し出してくる。
花びらは光に透け、
雨粒を抱えたまま、
薄い水の膜のように、
ごくわずかに波を打つ。
細胞に水が満ち、
境界はやわらかく曖昧になり、
花は世界と同じ屈折率を持つ。
息を詰めるのは、見る側だ。
壊れそうだと、
勝手に思い込まされてしまう。
けれど雨が去れば、
白はまた、何事もなかったように戻ってくる。
それが脆さではなく、
一時的な同化だったことを、
静かに知らせる。
美しさと呼ばれるものは、
対象の性質ではなく、
それを見る側の屈折率として、
ふと立ち上がる。
題 美しい
ひとも空も
木も草も
くるり、くるりと
ないて、わらう。
風は みみをくすぐり
光は ゆびをすりぬけ
影は あしもとで
くるくる、くるくる
たのしそうに踊る。
世界はぐるぐる
止まりたくても止まれない。
ぐるぐる、ぐるぐる
回っちゃうから
ちいさな かけらが
目のはしで キラリ、キラリ。
手をのばせば
ゆびさきが ふれそうなところで
ぐるぐる、ぐるぐる
だから心は ふわり、ふわり。
私たちをのせて
今日も世界はぐるぐる。
ぐるぐる、ぐるぐる
ぐるぐる、ぐるぐる
ぐるぐる、ぐるぐる
回っている。
題 この世界は
どうして、実際に傷害や暴行が起きているのに、
それが“いじめ”という曖昧な言葉に回収され、
刑事事件として即座に扱われないのか。
どうして、被害が発生している事実よりも、
学校内の空気・立場・大人の都合が優先されるのか。
どうして、被害者や目撃者が“通報する”という
本来まっとうな選択肢を、最初から与えられていないのか。
どうして、子どもは
「自分が何をされたのか」「それがどの罪に当たるのか」を教えられないまま我慢を強いられるのか。
どうして、記録を積み重ねて守るという
正当な自己防衛が“面倒な行為”“空気を乱す行為”として
忌避されるのか。
どうして、当事者の被害よりも、
学校や大人が責任を問われない構図を守ることが
優先されてしまうのか。
どうして、道徳は
「やめよう」という理想論だけを語り、
「被害を認識し、身を守り、通報する権利」を
教えないのか。
どうして、人権より校則が前に出てくるのか。
どうして、大人は
“うまく回らない何か”を理由に、
まだ試されてもいない選択肢を
最初から潰してしまうのか。
どうしてこの社会は、
被害が起きた事実よりも、
大人が面倒を見なくて済む仕組みを守ることを
優先してしまうのか。
どうして「守られるべき人」が、
自分を守るための知識と手段を
最初から与えられていないのか。
子どもがスマホを持つ時代に、
通報が電話前提のままなのは、
技術の遅れじゃなく、
責任から逃げたい側の都合
ワンタップで出来るはずなのに出来るように未だになっていない。
「被害者がいる」
「今起きている」
「人数」 を選択式で送信
GPS自動添付(任意)
動画・音声の即時アップロード
匿名/仮名での一次通報
通報ログを自動で時系列保存
全部、既存技術。
新発明は一つもいらない。
こんな機能は更新すべき時期を、とっくに過ぎている。
今ある“子供のSOSを受け取ります”系の相談窓口を、子ども専用の準通報機関として再配置し、公式記録をとればいい。
準通報機関と、警察と学校、スクールカウンセラーで連携し「記録と選択肢」を最優先にする。一定件数、一定の重さ、連続性があれば、自動で次の機関にエスカレーションすればいい。記録を残し、安全な話し合いも、介入も、すべてその後で判断すれば、話し合いで解決しようとした子どもが再被害にあったときに戻れる場所にもなれる。
いたずら電話は今もある。虚偽申告、誇張、勘違い、感情的な訴えも、すでに山ほどある。いたずらかどうかはログを見れば一発でわかる。いたずらが混じることより、本物が沈むことの方が圧倒的に重い。
「お前が傷つけている相手は弱いから標的になっているんじゃない。
お前が、自分の弱さから目を逸らすために選んでいるだけだ。
でもな、それを やめてもお前は消えない。
誰かを壊さなくても、お前は立っていられる。
お前がやっているのは、暴行罪、傷害罪、器物損壊罪、
窃盗罪、脅迫罪、強要罪、恐喝罪、侮辱罪、名誉毀損罪、強制わいせつ罪だ。
ひとを踏みにじって得た居場所は、いつかお前自身を殺す。」そう、早いうちに警告してやることのどこが大袈裟なのか。
クラスメイトが見て見ぬふりをしているのではなくて、
大人が見て見ぬふりをしているから子どもも見て見ぬふりをせざるを得ないだけではないのか。
どうして、大人になるまで放置するのか。
どうして、取返しがつかなくなるまで放置するのか。
私たちは、“この人が悪い”と考えるシンプルな物語として、ドラマの中でいじめを描き、社会制度や構造ような複雑で因果関係を理解するのが難しいことを脇に置き、
“単純なストーリーに落とし込む方が心理的に楽になる”という訓練を娯楽という形でしてしまっているのではないか。
題 どうして