幼い頃の俺には、嘘も誤魔化しも、
部屋に沈む濁りさえも見えてしまっていた。
俺に誠実だったものは音楽だけだった。
何も奪わず、何も押し付けず、
ただ静かに「好きに感じていい」と佇んでいる。
ギターは上昇気流だった。
指先から立ちのぼる振動が、思考に微かな囁きを落とし、
世界の色相までも塗り替えてしまう。
空気の震えだけで俺を遠くへ連れ去る。
それは現実に潜む、まぎれもない魔法だった。
あの頃の孤独こそが、未来の俺の手を引いていたのだろう。
大人になった俺は、その風を生み出している奏者に出会った。
奏者は言った。
「夢は叶ってしまえば、ただの現実だ。」
俺は応えた。
「夢を見るのも人間。
夢を魅せるのも人間。
それの何が悪い。」
互いの刃を確かめ合うような張り詰めた会話だった。
夢は幻想の衣をまとっているだけで、
決して逃避ではない。
誰かの手で綴られた、確かな現実の一部なんだ。
奏者は知らずにいた。
自分の一曲が、知らぬ地の幼い誰かの脈拍を支え続けていたことを。
放ったひとつの振動が、
ある夜を切り裂き、
孤独の底に灯を落とし、
世界の速度を変えてしまっていたことを。
音を作り出す者の夜は驚くほど静かだった。
実を結ばぬ日々に揺らぎ、遠く死を見つめた。
ふと顔を上げ、
机の上のギターが、弦をひとつだけ小さく震わせる。
それは、風の予兆のようだった。
闇の奥で風が生まれ、
指先を駆け抜け、胸を揺さぶり、意識の隅まで震わせる。
死よりも速く、音がその人を掴んだ。
それが、魔力の生まれる瞬間だったんだ。
絶えず生まれ続ける風は、
今も世界をそっと揺らし続けている。
題 吹き抜ける風
闇の中でこそ、
世界は一枚の黒へと溶け合い、
虚飾は役目を失う。
記憶だけが、灯りのように
本当に残すべきものの形を示す。
わずかな光は、
忘れずにいたい部分だけを拾い上げる。
声の温度。
指先の震え。
微笑の角度。
胸の奥で静かに燃え続ける小さな強さ。
それらが光に触れたとき、
“真実の輪郭”として姿を戻す。
ランタンの光は誠実だ。
余計なものをすべて抱き込み、
最後に“記憶の底に残った美しさ”だけを
そっと照らし返す。
外の強い光に慣れようとしなくてもいい。
歩かなくてもいい。
思い出を手に取れる瞬間が来たら、
そのときゆっくり
ランタンの灯を掲げればいい。
記憶のランタン
その旅人は、
音のない思索を背負ったまま、淡い蒼の尾を引いて進む。
歩幅は大きくも小さくもなく、
まるで世界の拍動に合わせて調律しているかのようだ。
霜を踏むとき響くその微かな音は、
破滅の兆しではなく、
世界が沈黙へ溶ける前の前奏にすぎない。
外套を翻すたび、
群青のあいだから銀鼠の粒子が宙へほどけ、
夜の端にかすかな輝きを撒いてゆく。
髪に宿る氷晶は、生きている。
ただ冷たいのではなく、
触れた者の雑音をすうっと眠らせるための、小さな護符。
人々が冷酷と呼ぶその面差しは、
本当は世界の痛みを黙して受け取るがゆえに硬く見えるだけで、
実際には、疲れた者が納まる影をつくるよう、
ゆっくり枝を下ろす古樹の所作に似ている。
そして旅人は、振り返らない。
けれど、振り返らないのは無関心からではなく、
「歩調を乱さないでいい、君は君の速度で来い」
という寡黙な許しを背に残しているからだ。
題 冬へ
喜:笑いが誰かに伝播し場がぱっと明るく満ちるとき。
怒:小さな喧嘩で、心の縁が薄く欠けてしまうとき。
哀:独りの帰り道、沈む光を追うように空を仰ぐとき。
楽:散歩道の曲線にふいに足どりが軽くなるとき。
心は満ちては欠け、欠けては満ち、
ゆっくりと色を変えながら揺れ続ける。
ひとの心は果てのないグラデーションだ。
たとえ自分を
世界の片隅にぽつりと落ちた影のように感じていても
それは “自分の位置から見える景色” にすぎない。
知らぬまま誰かの暗がりに灯り、
名も知らぬ誰かの孤独をあたため、
気づかぬまま誰かの道をそっと照らしている。
昼の月は埋もれているのではなく、
青の粒子に紛れながらも、静かに、確かに、
白い輪郭をたたえたまま空に在り続ける。
君を照らす月もまた知らぬままに。
題 君を照らす月
森の床にはまだ夜露が残り、苔の上には小さな水珠が散り敷かれている。
その上を、木々の隙間から落ちる光の斑がかたちを移しながら揺らめき、ところどころで脈を打つように明滅していた。
ひときわ強く射し込む場所では、小さな草の芽が、訪れた一瞬の光を逃すまいと、そっと葉の表を開いている。
木漏れ日は照らすというより、命へ向けて静かに掌を翳しているようだ。
風が渡ると、光の粒は一斉ではなく、わずかに拍をずらしながら連弾のように揺れ、地面をやさしく撫でていく。
光は絶えず変化する。けれどその移ろいは急ではなく、次にどう揺れるかおおよその予感がある。
光と影の往復を眺めているうちに、いつのまにか自分の呼吸がそのリズムに重なっていく。
呼吸が深くなるのは、光に従うからではなく、光そのものがひとの内側の律動へ寄り添ってくるからだ。
葉の揺れる音、光の瞬き、影の揺らぎ
──森全体が呼吸を共にしているように感じられる。
世界と自分がひそやかに呼応しているという感覚。
自分という存在が、広大な流れの中のほんの一瞬の波にすぎないと確かめていられる安らぎ。
森そのものに包まれ、世界の一瞬の呼吸へ身をゆだねて溶け合うような感覚。
時間も境界も薄れてゆき、心がひたすら澄んでゆく。
題 木漏れ日の跡