土の匂いが強く感じる。もうすぐ、雨が降るようだ。
私は今日も停留所の横で持鈴を鳴らし立っている。そこには、もう一人いた。
古びたバス停にセーラー服を着た女が傘を差して立っている。
「こんにちは、居るんでしょう?」
女に私の姿は視えないらしい。だが鈴の音か、私の気配を察知してか、時々声をかけてくる。
私は咳払いをして答えた。
「あぁ、居るとも。ところで、お前はなぜ、傘を差している?」
「だって、もうすぐ雨が降りますから」
クスクス笑いながら、彼女は空を見上げた。その空には、未だ青空が雲の隙間から覗いている。
「気が早すぎないか?」
「そうでもありませんよ。あなたが気づいてくれた」
「それは、お前が声をかけてくれたからで……」
図星だ。言葉に詰まる私に彼女は何も言わなかった。
私は彼女が来るのを楽しみにしている。一人、鈴を鳴らせど気づくものはいない。
視える体質の人間と出会っても、叫ばれ逃げられてしまう。実際、私の姿は恐ろしいのだろう。
「今日は姿を視せてはくれないんですか?」
「こんな化け物を視て、お前に何の得がある」
「あなたの目を見て話せます」
その声に偽りはない。
「雨が降ればあなたに会えますか?」
「どうだろうな」
私は冷たく言った。
ぽつりと穴の開いた笠に雨粒が落ちてきて、瞬間、ぱらぱらと雨が降り出す。
雨は嫌いだ。土の匂いも、古くなった水の匂い。それらが、人間だったころを思い出させる。
雨が強くなり、彼女の瞳に私が映る。にっこりと笑った彼女の顔に懐かしさを覚える。
「ほら、会えた」
「私は会いたくなかった」
傘に私を入れようと、腕を伸ばす彼女。妖に転じてから背が伸び、今ではバス停の標識よりもはるかに大きい。
「やめろ。お前が濡れてしまうぞ」
「優しいのね」
姿もおどろおどろしいもので、人間のころの面影もない。それなのに、この娘はちっとも怖がらない。
「怖くないのか?」
「怖くないわ」
色素の薄い澄んだ瞳に、不気味な私が映る。
「……私はお前よりも大きく、手足も長い。見ろ、手のひらはお前の体を、簡単に鷲づかみ出来てしまう。口だって大きく開けば、お前をひと飲みできるというのに」
「それでも、怖くないわ。だって、あなたはやらないでしょう?」
「なぜ、そう言い切れる?」
「だって、人のために泣くでしょう?」
彼女の柔らかな手が私の目元を触る。
「人が亡くなると、この道、葬儀の列が通るでしょう? 小さいとき、泣いているあなたを視たの。鈴を鳴らしながら、誤魔化していたけど、私にはバレバレだったよ」
恥ずかしさで顔が熱くなる。人をやめてしばらく経つのに、未だに、人が死ぬことに対して悲しみの感情がわく。こんな醜い姿なのに。
「それだけでは、何の根拠にもならないだろう。私は復讐するためにここにいるのだから」
「誰かを恨んでいるの?」
私は黙り込む。彼女は心配そうに私の顔を覗き込んできた。
その時、バス停とは反対側に一台の軽自動車が止まる。サイドウィンドウを下ろし中年の女性が顔を出す。
「——美咲? こんなとこで、何してるの。家は反対方向でしょ?」
その声に聞き覚えがあった。車から降りてこちらに向かってくる。その女性の面立ちが彼女と似ていた。
「お母さん……。少し考え事をしていたら、ここまで来ちゃってたの」
「そう、あまり変なことしないでね。進さんに何て言われるか……」
「うん、わかってる」
彼女の表情が曇る。あぁ、思い出した。
「——何してるの? 早く帰るわよ! わたし、忙しんだから」
「先に乗ってて。すぐ行くから……」
母親が車に乗ったのを確認した彼女は、私の方を向かずに「ごめんね」と言い車の方へ歩いていく。
車が発進し、見えなくなるまでその様子を眺めていた。
あいつだ。やっと見つけた。それなのに、なぜ心が痛むのだろうか。
あの子に——美咲に嫌われたくないと思うのだろうか。私は、私を殺した町田成美たちに復讐するために、人間をやめたのだ。
今更、後には引けない。なのに、黒く濁った眼から涙が流れる。その理由を誰か、教えてくれ。【雨の香り、涙の跡】
「なんで、また縁を結んだんですか?」
僕は怒りを含んだ声で言った。
夕暮れ時、丁字路の真ん中。目の前には古びた石畳の階段。この上には神社がある。
横を振り向くと、白いワンピースを着た20代後半の女性が微笑みながら立っていた。
今日は、つばの広い白い帽子をかぶっていないが、逆光で口元しかわからない。
「累くん、怒ってるの?」
柔らかな声で言う彼女に僕はさらにイラついた。彼女に悪びれる様子はない。
気づいていないのだろう。自分が最悪なことをしたということを。
「怒ってますよ。わかりませんか?」
「声で何となく。でも、理由がわからないわ」
「本当に? さっきも言いましたが、なぜ、宮永さんと元カレである有田の縁を結んだんですか?」
彼女は小首を傾げ、人差し指を顎にあて、トントンとリズムを刻むように考え出す。その姿さえ、僕は腹が立ってしまう。
「綾さん? 聞いてますか?」
「聞いてるよ? もちろん、累くんの話はぜーんぶ聞いてるよ」
「じゃあ、なんで——」
綾はにっこり笑い、人差し指を僕の唇に当てた。
「だって……、可哀そうじゃない?」
甘ったるい声で言った。
「可哀そう? 誰が?」
「元カレさん」
「はあ?」
一番低い声が出た気がする。眉間や手のこぶしに力がこもった。
「やだー、怖い顔。累くん、怒らないでー」
「……あんたのせいで、宮永さんは襲われたんですよ?」
「そうなの?」
「そうなのって……。あんたが縁を結んだことによって、有田の宮永さんに対する執着が、以前よりも強いものになった! そのせいで、ストーカー行為をして
、彼女を襲ったんです。有田は逃げ、今、宮永さんは外に出られない状態だ」
「そう、悪いことをしたわ。ごめんなさい」
上辺だけの反省の言葉を述べる綾に、僕はため息をつく。怒っても無駄だと思った。
「けど、累くんも悪いと思うの」
「なぜ、僕が悪いと?」
「構ってくれないから。ちょっと、意地悪しちゃった」
「いつも、ここで喋ってますよね?」
「ここじゃなくて、上には来てくれないの?」
彼女の言う上とは、神社のことだろう。小学生の頃はよく遊び場にしていたが、高校生になってからは、一度も行っていない。
「僕は、もう高校生なので。神社では遊びませんよ。それより、今は宮永さんの——」
彼女の顔から笑みが消えた。背筋がぞくっとするような雰囲気を感じる。
さっきまでうるさかった蝉の音さえ、無音に感じた。
「綾さん……」
学ランをただし、彼女の名前を呼ぶ。
「変わってしまったんだね」
その声はさっきの柔らかな声ではなく、棘のある低い声だった。
「そうですね。僕はこれからも、変わっていくと思います。大人になるとはそういうことだから」
「そうやって、私のことも忘れていくんでしょ?」
顔をあげた彼女の瞳は少し寂しげに見えた。
「忘れませんよ。僕は、綾さんの傍にいます」
「なんで、そう言えるの?」
眉間にしわを寄せ、怪訝そうな表情を浮かべる。
「縁がありますから」
「視えないのに?」
「視えないからこそです。それに、綾さんと僕の間に糸が視えていたら、僕は切らなきゃいけなくなる。それが視えないから僕はあなたの傍にいるんです」
そう伝えると彼女は穏やかな表情に戻っていた。
「累くんは、私を喜ばせる天才だね。ごめんね、依頼者さんの縁を結んで。まさか、あれほどの執着になるとは思わなかった」
「いいです。これから、どうするか、考えましょう。もう、あの執着は僕だけでは切れません」
「そうだね」
これは、縁切り屋を営む・兵頭累と縁結び屋を営む・綾の、絆と執着の物語。【糸】
「そろそろ、来るよ!」
メイが、リビングの窓を開け、庭に出る。
それに続き、ケイトも出て、空を見上げた。
シャンシャンシャンと、遠くから鈴の音が聴こえてくる。
夜空から、トナカイが引くソリが、メイの家に降着した。
「メリークリスマス!」
降りてきたのは、赤い服を着た巨漢の老人。
ゴーグルを外し、髭についた雪を払う。
「あー、疲れた。おら、プレゼント」
「あ、ありがとうございます」
ケイトがプレゼントを受け取ると、思ったより重量があり、落としてしまった。
後ろからメイが顔出してそれを興味深く見る。
「おじさん、これ何?」
「あー、肉だよ、肉。うめぇーぞ」
「お肉ー!」
わーいとはしゃぐメイ。その横でケイトは、よろめきながら袋を、家の中に運び入れた。
「とりあえず、家に入ってください。近所の目とかあるので……」
「おう、悪いな。あっと……その前に」
後ろを振り返ると、ソリとトナカイに向かって見えない何かをかけた。
「何をしたんですか?」
「ここらへんは、お前みたいに素質があるヤツが居るみたいだから、見えねえように布をかけたんだ」
「へぇー」
ケイトに布は見えず、ソリとトナカイが見えている状態。しかし、他の人には見えないようになっているようだ。
「ハジメちゃん、お肉貰ったー」
メイが、台所でイブのディナーを作っている、兄のハジメに声をかけた。
「え!本当に?何のお肉だろう?」
前髪にキャラ物の髪留めをつけ、フリフリな白いエプロン姿で現れる。
重量に負けたケイトとは異なり、軽々と肉の入った袋を持ち上げた。
「鹿肉と七面鳥、あとイノシシだな」
ソファーに座ったおじさんが答えると、ハジメの目が嬉しそうに輝く。
「そんなに!これは明日のディナーが楽しみだね」
「ハジメちゃんのご飯、すっごく美味しいもん!期待してる」
肉を冷蔵庫へしまい、熱い緑茶をおじさんに用意した。
「イブなのにお前たちは、こう……青春が足りねえな」
「そうですかね。皆、こんなもんじゃないですか?」
「いやいや。ケイちゃんが枯れてるんだよ」
メイが出来たてのおかずをおじさんへ供する。
クリスマス感のない里芋の煮物だ。それを肴に飲むのは日本酒。
「おじさんこそ、サンタ味がないですね」
ケイトが言うと、大口を開けてガハハと笑った。
「だな!だが、こういう特別な日こそ、いつも通り好きな物を食うのも、悪くないわけよ」
「そうですね」
台所からいい匂いが漂ってくる。今日もまたいつもと変わらない夕食。
だが少し特別な日でもある。
サンタのおじさんと共に、イブの夜がやってきた。
──この二人は私に隠し事をしてる。
幼馴染のユカリとコウスケと下校してる中、ナツミは後ろから二人を見つめながら思った。
あれは一週間前のこと。
放課後に教師に呼ばれ、二人には少しの間教室で待ってもらっていた。
急いで戻ると、ナツミが見た光景は、背伸びをしたユカリがコウスケにキスをしていたところ。
ドキリとしたナツミはすぐにしゃがみこんだ。口手をあて息を殺した。
あいにく、ユカリたちはナツミに気づかずクスクス笑いあっている。
──付き合っていたんだ……。
ナツミの心がズキリと傷んだ。
それからナツミは二人の関係に気づかないふりをした。自分の気持ちさえもなかったことにして。
──だってお姫様と結ばれるのは、いつも王子様なんだから。
昔、仲間だった人間を探している。
くだらない喧嘩で疎遠になったやつだ。
きっと彼は亡くなっているだろう。
人間は他の種族と比べても寿命が短い。その命が僕の10分の1もないんて、知らなかったんだ。
どんな喧嘩をしたのかも、昔のこと過ぎて忘れてしまった。
今日、僕は旅に出ようと思う。きっかけは、彼に貸していた本が必要になったから。
けどその頃には60年ほど時が過ぎていた。
「人間には、十分すぎる時間だね」と先生は言う。
それでも、僕は「行きます」と告げた。
彼が生きている保証はない。僕は間違えてしまった。
彼に会いに行こう。そして遅すぎる「ごめん」を伝えに行こうと思う。