「あの……」
か細い声が聞こえ、振り返ると、小さな女の子がスカートの裾をギュッと握りしめながら立っていた。
顔は俯いていて見えないが、緊張しているのか少し震えている。
『えっと……?』
ちなみに俺は友人宅にお邪魔しており、これから帰ろうと玄関に向かい階段を降りたところ、今のこの状況になったわけだ。
多分彼女とは初対面だと思うが、誰だかは予想が着いていた。
よく話に聞いていた、友人の妹だろう。
しかし、先程も言った通り彼女とは面識がない。
俺も少し話に聞いてる程度なので、こうして呼び止められるような仲ではないのだが、果たして何の用なのだろう。
戸惑って固まっていると、彼女も同様に固まったまま直立不動。もうかれこれ一分以上は沈黙が続いている。
どうしたらいいか分からずにいると、トントンと階段を降りてくる音が聞こえてくる。
「あれ、まだ靴履いてないの?」
友人だ。頭をかきながらゆったり降りてくると、妹の存在に気づいたようで、「あぁ、」と声を漏らす。
「まだやってるのか、早くしろよ。」
「お兄うるさい。」
友人が絡んでやっと彼女が声を発した。
本当になんなんだ。
友人に視線を送ると、ため息をついて口を開く。
「今日お前を家に呼んだのは、こいつがお前に会いたいって言ったからなんだよ。」
『はぁ、なんでまた。』
「んなもん、チョコ渡しn」
「ああああああああ!!お兄!!ばか!!」
友人が急に妹に突き飛ばされ、壁にめり込む勢いでぶつかっていった。
頭を打ったからか、友人は軽くフラフラしている。
『……えっと、俺に用があるのかな。』
小さい子ましてや女の子に声をかける機会なんて無いもので、少し緊張しつつも話しかけた。
友人を突き飛ばしたおかげで、俯いていた顔もしっかり見える。
目を合わせて話すと、彼女の顔がだんだん真っ赤になっていった。
「あ、あ、ああの……」
先程までの強気な彼女とは打って変わって、最初のしどろもどろな様子に戻ってしまった。
さて、どうしたものか……。
頭を悩ませていると、袖を引っ張られた気がした。
よく見ると彼女がちょいちょいと引っ張っている。
ジェスチャーで耳を指していた。
どうやら耳を貸してほしいらしい。
彼女の要望に答え、しゃがんで彼女の背丈に合わせるように耳を向けた。
「あげる。」
たった三文字。とても小さい声だっただろうけど耳打ちだったからか、俺の心臓を跳ねさせるには十分だった。
言われたと同時に、小さな箱が渡された。
中身はおおよそ、季節からしてチョコレートだろう。
まさかこんな小さな女の子から貰うとは……どんな反応をしたらいいのか分からず、柄にもなく照れてしまった。
『あり……がと。』
お礼を言うと、女の子はコクリと頷きまた俯いてしまった。
ふと目線が台所の方に行くと、母親らしき人が覗いてニコニコしている。友人もそこに便乗していた。
これは明日会った時に茶化されそうだ。
「……まだ、」
『え?』
「初めて作ったので、まだ下手だけど……来年はもっと美味しいの、作るので!!……また受け取ってください!!」
力が入ったのか、彼女は顔を上げながら俺に叫んだ。
目がとてもキラキラして綺麗だった。
惚けていると、彼女からの視線で我に返った。
どうやら返事を待っているらしい。
コホン、と咳払いをしてちゃんと彼女に向き直る。
『待ってるね。』
ニコッと微笑むと、よほど嬉しかったのか彼女もたちまち笑顔になった。
「はい!!待っててください!!」
少し恥ずかしいような、嬉しいような和やかな時間が流れていたと、友人にあとから言われた。
これが僕と彼女の始まり。
十数年後、僕は彼女にプロポーズするのだが、それはまた別の機会に。
#待ってて
ザッ……
『つい……た。』
重い足で思い切り大地を踏みつけた。
目の前には、日の出に照らされた山々。
俺が一番見たかった景色。
この数年間、たどり着きたかった場所だ。
かつて雑誌で見たのと比べて何倍も綺麗だった。
ドサリ、と背負っていたリュックサックを地面に置く。
長い旅をしていたわけなので、相当な重さはあったのだろう、体がだいぶ軽くなった。
『よっこいしょ……うわぁっ』
腰掛けようとしたが、歩き続けていたせいで足がふらつき体制を崩しそのまま倒れ込んだ。
仰向けに倒れたので、目の前には若干白くなってきた空があった。
雲がちらほら見えるが、きっと今日も快晴だろう。
今日という一日を、来たかった場所でようやく迎えることが出来た。
なんて最高な日なんだ。
季節や場所の関係でとても寒いはずなのに、心はとても温かい。念願の場所へ来られて、胸がいっぱいだからかもしれない。
『あぁ、そうだ。』
ゆっくりと起き上がり、さっき置いたリュックサックの元へと這っていく。
体の限界はとっくの昔にこえていて、もう立ち上がることも出来なかった。
リュックをガサゴソと漁ると、一つの錠剤が出てきた。
『……もう、最後か。』
錠剤をプチプチと取り出し、口の中へ放っていく。
少しだけ残しておいた水も一気に煽り、ゴクリと飲み込んだ。
一息ついて、改めて景色の見える所へと腰を下ろした。
俺は重度の心臓病を患っている。
旅の途中で気づき入院も勧められたが、この場所に行きたいから、と断った。
何を馬鹿なことを、と思われるかもしれないが、それくらいたどり着きたかった場所なのだ。
数年前。
働いていた会社の業績悪化の末、倒産。
もちろん俺は無職になって、当時一緒にいた家族からも見放された。
元々家庭を顧みなかった旦那だ。
生活費を稼ぐしか役割がなかったのに、それすらも全う出来なかった俺にはもう居場所は無かった。
家も売り、どこかで新しい生活を始めようと考えていたその時、一冊の雑誌と出会った。
それは写真の雑誌で、その中にここの景色があった。
守る家族も頼れる親戚もおらず、もう人生に未練もなかった俺はこの場所に向かうために一人旅を始めたわけだ。
もう俺がこうして生きる理由は、この景色を見るだけになっていた。
正直、この景色を見たあとは、自分の命なんてどうでもいいと思っていたからこそ、こんな無茶ができたのだと思う。
入院を断り、本来は安静で休んでいなきゃ行けないところをこうして水分食料もまともに補給せずに歩き続けるなんて、病人がやる事じゃない。誰にでもわかる。
体は思うように動かず、視界もだんだんぼやけてきた。
きっともう、手遅れだろう。
ろくに治療もせず体にムチを打って、助かるほど人生甘くない。
目的は果たした。もう俺は充分楽しかった。
強いて言えば、あの家族が幸せに過ごして行けるのかどうか、それだけが心残りだった。
どうか、笑顔で、過ごしてくれますように……。
そう神様に願ったところで、俺の意識は途絶えた。
#旅路の果てに
言葉がなくても通じ合える。
なんていうのは、簡単のようで難しい。
どれだけ長く一緒にいても、人は変わっていく生き物。
たとえ変わらない “想い” があったとしても、
きちんと伝えないとわからない。
そしてそれは、いつまでも伝えられる訳じゃないから。
伝える事のできるその “瞬間” を、
大事に過ごしていって欲しい。
もし、言葉で伝えることが難しければ、
文章でもそれ以外でもいい。
貴方の “気持ち” を込めながら、
相手に尽くしてあげてね。
たくさんの人の想いが、愛する人へと届きますように。
#I LOVE…
『今日も疲れたぁ。』
自宅マンションのエレベーターに乗り込むと、壁に寄りかかる。
先程まで残業をしていて、もうずっと立っていられるほど体力もメンタルも残っていなかったのだ。
ポーン、とエレベーターが目的階に着いたことを知らせ、ドアが開いたのでとぼとぼと歩き出した。
社会人四年目。
会社にも慣れつつあるが、上司や先輩、後輩との人間関係に悩みながら、荒波にもまれて社畜生活を送っている。
ガチャガチャ、キィッ……
鍵をまわし、扉を開けると、部屋の方が明るい。
玄関へ入ると見覚えのある靴がちんまりと揃えておいてあった。
『また来てる……』
ちなみに私は大学の頃から一人暮らし。
世話をしてくれるような御相手はいないので、そうともなればいるのは一人しかいない。
履いてたヒールを雑に脱ぎ捨て、ドダドダと音を立てて居間へ向かう。
「あっ、おかえり〜遅かったね。いつもこんな時間なの?」
キッチンには想像通り、母がいた。
振り返って私を確認したあと、すぐに手元に視線を戻した。
トントンと包丁の音と共に、鍋のコトコトと煮込む音も聞こえてくる。
『あのさぁ……』
「もうすぐできるから、待っててね。」
被せるように母に言われる。
憤りを感じながらも部屋を見渡す。
朝出た時は散らかっていたはずの部屋が片付いている。
きっと晩御飯作りも兼ねて、掃除もしてくれたのだろう。
すると母が準備していたサラダを持ってやってきた。
「明らかにゴミっていうのは、捨てておいたよ。あと洗濯もしたから後で取り込んでね。それから……」
『お母さん!!』
私の大声に母がビクリと反応する。
普段声を荒らげるタイプではないが故に、よほど驚いたのだと思う。
「な、何?」
『もうすぐ私二十六だよ?いい加減過保護なのやめてくれないかな。』
荒らげた勢いのまま母に詰め寄る。
「でも、なんだかんだ心配だし……」
『一人暮らし初心者ならまだしも、私もう一人暮らし始めて七、八年になるんだよ?仕送りだって貰ってるし、食べ物にも困ってないんだけど。』
娘に早口でまくし立てられたせいか、母はしどろもどろに答える。
「お金は確かに送ってるけど、ご飯とか……見たけどコンビニばっかりで済ませてるんじゃない?洗濯物だって溜まっていたし、たまにはお母さん頼ってくれても……」
『だから!!そういうのを、やめてって言ってるの!!』
さっきよりも大きな声で叫んだ。
自分でも驚くくらいの大声。
母の言葉は容易にかき消せてしまった。
『私もう社会人なの!!自立してんだよ!!平日は仕事があって自炊まで手は回ってないかもしれないけど、休日は作ってるし!!洗濯物だって、帰ってから回してる日もあるし、休日には絶対やってる!!ちゃんと自分で決めて生活してんだよ!!』
仕事のストレスも相まってか、つらつらと今までの不満が爆発し、早口で母にぶつける。
母は驚いたまま聞いていた。
『合鍵で入ったんだろうけど、余計なことしなくていいの!!一人でも生きていけるんだから!!心配しなくt…』
心配しなくていい、と言い切ろうとした瞬間、突然目の前がぐにゃりと歪んだ。
母の顔も見えなくなって、世界が回っているかのように見える。
『あ、れ……』
母が必死になにか声をかけているのはわかるが、なんて言ってるのか分からない。
そのまま声が遠くなっていき、
私は意識を手放した。
目が覚めると、病院だった。
規則的な電子音で目が覚めて、そばでは母親が座って寝落ちていた。
『おか、さん……』
声をかけると母がパチリと目を開けた。
「ん、あ……おき、たぁ……良かったぁ……」
起き上がると母にそっと優しく抱きしめられる。
「起きなかったらどうしようかと思った……」
声的にきっと泣いているのだろう、それほど心配をかけたのだ。
時計を見るともう午前五時。鳥の声まで聞こえてきてほのかに外も明るい。
家に帰ったのが確か夜の八時だったから、少なくとも九時間近く眠っていたのか。
あんなに酷い言葉をかけたのに……救急車を呼んで、今までずっと寄り添ってくれていたのだ。
母の温かさを改めて感じ込み上げてきた涙を拭い、抱きしめられた腕から少し離れて、母と向き合った。
『お母さん、ごめんね。』
母がキョトンと私を見ているが、そのまま続けた。
『最近残業も多くて、人付き合いもなかなか上手くいかないしで、余裕無くなってた。コンビニご飯も生活が雑になっていたのはその通りなのに、図星をつかれて逆ギレして……』
確かに過保護だった母。
でも、それは娘である私を想っていたからこそ。
学生の頃、運動部に入りたくて母に相談したら最初は反対されたものの、やりたい旨を伝えたら応援してくれた。
大学進学での一人暮らしも、心配だっただろうけど、社会人の今まで支えてくれている。
過保護からのぶつかり合いは何度もあったけど、いつだって母は私のやりたいことを応援してくれていたのだ。
不安だって沢山あったはず。それでも、娘を信じてくれていた。
それをきちんと、わかっていたのに……。
『ごめん、なさい……。』
申し訳ない気持ちや自分の情けなさで胸がいっぱいになる。堪えていたはずの涙が、ポロポロと溢れ出して、布団をギュッと掴んでいる拳に滴り落ちた。
泣いてる顔を見られたくなくて、下を俯く。
母はそれを察してか、頭の上にポンッと手を置いた。
「社会人が大変なのは、お母さんも知ってる。お父さんが亡くなった後、あなたを育てながら働く事がとっても大変だったのを覚えてるから。あなたを食べさせることに精一杯で自分を顧みれなくて、体を何度も壊したわ。」
そんな時期があったのかと驚き、涙が少し引っ込む。
母は懐かしむようにゆっくりと続ける。
「おばあちゃんにも怒られた。仕事も大事だけどもっと大事なもんもあるだろって。何度も助けて貰ったなぁ。だから、私も大事に育てたあなたが不自由なく過ごして欲しくて、ちょっと一方的だったかもしれないわね。」
申し訳なさそうに小さな声で…ごめんね、と母は謝った。
母は悪くないのに…と思うとまた涙が出て、そのままわんわんと泣き、母は私が泣き止むまで背中をさすってくれていた。
母の優しさやあたたかさを、再認識して改めてありがたみを感じたのだった。
結局、過労と睡眠不足で倒れたようだったので、しっかり栄養と睡眠を摂りなさいと、医者には注意を受けて帰された。
職場に話したら、一週間程休みを頂いた。
「しっかり休んで、仕事に復帰しなさい。」と上司からの伝言付き。
だいぶ仕事が忙しかっただろうから、と気を遣ってくれたみたいだ。
退院後は少しの間実家で過ごすので、病院からは母と帰宅を共にすることにした。
病院を出ると、ゆっくりと母の隣に並んで歩く。
『お母さん、』
「ん?」
『お母さんのご飯食べたい、から、お願いしてもいい?』
こんなお願いするのは、数年ぶりすぎて恥ずかしくなってしまい、たどたどしくなる。
言われた母は、花が舞ったかのように嬉しそうな顔をした。
「もちろん!あなたが好きなのを作るわね。」
ウキウキしながら献立を考える母はとても楽しそうで、私もなんだか心があたたかくなった。
少し、この優しさに甘えてみようと思いながら、母とゆっくり家までの道を歩いた。
#優しさ
「お母さん。このアルバムはこっちでいい?」
娘が一冊の厚めな本を持ってくる。
表紙は経年劣化しており、少し黄ばんでいた。
『そうね、そこに置いておいてくれる?』
私はそばの段ボールを指さして答えると、娘は素直にアルバムを段ボールの中に入れた。
その段ボールの中には、数冊ほど似たような本が入っている。どれもアルバムで、中には家族の写真だけではなく、夫婦の思い出の写真なんかも入っている。
「にしても、アルバム多いね。」
娘はそう言いながら腰をトントンと叩き、フローリングの床に直に座った。
『お父さん写真撮影が趣味だからね。』
「あぁ、ことある毎にカメラ持ち出してた様な気がする。」
私の旦那は写真撮影が好きで、どこかへ出かけたり
イベント事の際には必ず自前のカメラを手に持っていた。
こうして撮られた写真たちは、全て現像してきているので数千枚近くがこうしてアルバムに保管されていることになる訳だ。
『これでも、この家に引っ越してくるときにかなり減らしたはずなのよ。』
「これで……?」
二人の視線は、目の前に山積みされたアルバムへと行く。
まだ数十冊ほどありそうだ。
『……お父さん、捨ててもまた撮っちゃうから……』
「それじゃあ、整理しても意味ないじゃないのよぉ。」
『まぁまぁ、写真で我が家を埋もれさせない為にも、手伝ってちょうだいな。』
呆れながら話す娘を宥めながら、作業を再開した。
ハラリ。
とあるアルバムを持ち上げようとしたと同時に、一枚の写真が落ちた。
『あらやだ、いけない。』
その写真を拾い上げ確認すると懐かしい写真で、思わず笑みがこぼれる。
『……ふふ。』
「何見てるの〜」
娘が横から顔を出し、覗き込んできた。
写真を見てにやけていたから気になったのだろう。
『懐かしい写真だなとおもってね。』
写真を見せると、娘は目を丸くする。
その写真には、人が一人写っているのだが、背景の夕日のせいで顔が全く写っていない。
逆光になってしまっていたのだ。
「これって失敗?」
キョトンとした顔で聞いてくる娘が少しおかしく、思わず吹き出してしまった。
『ふふ、これね、お父さんが初めて私を撮った写真なの。』
「お父さんが?」
『そうよ、私と付き合いたての頃はまだ撮るの上手くなくて。でも、私やこれからできるであろう家族との思い出を、こうして残していきたいって撮り続けたの。』
写真をそっと優しくなぞりながら、当時の会話や情景が頭の中に流れていく。
『おかげで、この量のアルバムができた訳だけど。』
ははは、とお互いに笑う。
一通り笑ってから、再び写真に目を落とす。
『これは、お母さんが持っておこうかな。』
「え、その逆光の写真を?他のにすればいいのに。」
『ううん、これがいいの。』
私は洋服のポッケに写真を優しくしまった。
『綺麗に撮ってもらった写真は、もちろんこれの他に沢山あるわ。でも……』
『あの人が初めて撮った写真はこれだけだもの。理由なんて、それで十分よ。』
そう言いながら微笑むと、娘もふふっと笑ってくれた。
「なんかいいね。そういうの。」
『あなたも、そんな人に出会えると良いわね。』
「……善処します。」
娘は耳を塞ぎながら、アルバムの山へと戻って行く。
『さぁ、私も続き頑張らなくちゃ。』
腕まくりをして私も作業に戻った。
#逆光