『今日も疲れたぁ。』
自宅マンションのエレベーターに乗り込むと、壁に寄りかかる。
先程まで残業をしていて、もうずっと立っていられるほど体力もメンタルも残っていなかったのだ。
ポーン、とエレベーターが目的階に着いたことを知らせ、ドアが開いたのでとぼとぼと歩き出した。
社会人四年目。
会社にも慣れつつあるが、上司や先輩、後輩との人間関係に悩みながら、荒波にもまれて社畜生活を送っている。
ガチャガチャ、キィッ……
鍵をまわし、扉を開けると、部屋の方が明るい。
玄関へ入ると見覚えのある靴がちんまりと揃えておいてあった。
『また来てる……』
ちなみに私は大学の頃から一人暮らし。
世話をしてくれるような御相手はいないので、そうともなればいるのは一人しかいない。
履いてたヒールを雑に脱ぎ捨て、ドダドダと音を立てて居間へ向かう。
「あっ、おかえり〜遅かったね。いつもこんな時間なの?」
キッチンには想像通り、母がいた。
振り返って私を確認したあと、すぐに手元に視線を戻した。
トントンと包丁の音と共に、鍋のコトコトと煮込む音も聞こえてくる。
『あのさぁ……』
「もうすぐできるから、待っててね。」
被せるように母に言われる。
憤りを感じながらも部屋を見渡す。
朝出た時は散らかっていたはずの部屋が片付いている。
きっと晩御飯作りも兼ねて、掃除もしてくれたのだろう。
すると母が準備していたサラダを持ってやってきた。
「明らかにゴミっていうのは、捨てておいたよ。あと洗濯もしたから後で取り込んでね。それから……」
『お母さん!!』
私の大声に母がビクリと反応する。
普段声を荒らげるタイプではないが故に、よほど驚いたのだと思う。
「な、何?」
『もうすぐ私二十六だよ?いい加減過保護なのやめてくれないかな。』
荒らげた勢いのまま母に詰め寄る。
「でも、なんだかんだ心配だし……」
『一人暮らし初心者ならまだしも、私もう一人暮らし始めて七、八年になるんだよ?仕送りだって貰ってるし、食べ物にも困ってないんだけど。』
娘に早口でまくし立てられたせいか、母はしどろもどろに答える。
「お金は確かに送ってるけど、ご飯とか……見たけどコンビニばっかりで済ませてるんじゃない?洗濯物だって溜まっていたし、たまにはお母さん頼ってくれても……」
『だから!!そういうのを、やめてって言ってるの!!』
さっきよりも大きな声で叫んだ。
自分でも驚くくらいの大声。
母の言葉は容易にかき消せてしまった。
『私もう社会人なの!!自立してんだよ!!平日は仕事があって自炊まで手は回ってないかもしれないけど、休日は作ってるし!!洗濯物だって、帰ってから回してる日もあるし、休日には絶対やってる!!ちゃんと自分で決めて生活してんだよ!!』
仕事のストレスも相まってか、つらつらと今までの不満が爆発し、早口で母にぶつける。
母は驚いたまま聞いていた。
『合鍵で入ったんだろうけど、余計なことしなくていいの!!一人でも生きていけるんだから!!心配しなくt…』
心配しなくていい、と言い切ろうとした瞬間、突然目の前がぐにゃりと歪んだ。
母の顔も見えなくなって、世界が回っているかのように見える。
『あ、れ……』
母が必死になにか声をかけているのはわかるが、なんて言ってるのか分からない。
そのまま声が遠くなっていき、
私は意識を手放した。
目が覚めると、病院だった。
規則的な電子音で目が覚めて、そばでは母親が座って寝落ちていた。
『おか、さん……』
声をかけると母がパチリと目を開けた。
「ん、あ……おき、たぁ……良かったぁ……」
起き上がると母にそっと優しく抱きしめられる。
「起きなかったらどうしようかと思った……」
声的にきっと泣いているのだろう、それほど心配をかけたのだ。
時計を見るともう午前五時。鳥の声まで聞こえてきてほのかに外も明るい。
家に帰ったのが確か夜の八時だったから、少なくとも九時間近く眠っていたのか。
あんなに酷い言葉をかけたのに……救急車を呼んで、今までずっと寄り添ってくれていたのだ。
母の温かさを改めて感じ込み上げてきた涙を拭い、抱きしめられた腕から少し離れて、母と向き合った。
『お母さん、ごめんね。』
母がキョトンと私を見ているが、そのまま続けた。
『最近残業も多くて、人付き合いもなかなか上手くいかないしで、余裕無くなってた。コンビニご飯も生活が雑になっていたのはその通りなのに、図星をつかれて逆ギレして……』
確かに過保護だった母。
でも、それは娘である私を想っていたからこそ。
学生の頃、運動部に入りたくて母に相談したら最初は反対されたものの、やりたい旨を伝えたら応援してくれた。
大学進学での一人暮らしも、心配だっただろうけど、社会人の今まで支えてくれている。
過保護からのぶつかり合いは何度もあったけど、いつだって母は私のやりたいことを応援してくれていたのだ。
不安だって沢山あったはず。それでも、娘を信じてくれていた。
それをきちんと、わかっていたのに……。
『ごめん、なさい……。』
申し訳ない気持ちや自分の情けなさで胸がいっぱいになる。堪えていたはずの涙が、ポロポロと溢れ出して、布団をギュッと掴んでいる拳に滴り落ちた。
泣いてる顔を見られたくなくて、下を俯く。
母はそれを察してか、頭の上にポンッと手を置いた。
「社会人が大変なのは、お母さんも知ってる。お父さんが亡くなった後、あなたを育てながら働く事がとっても大変だったのを覚えてるから。あなたを食べさせることに精一杯で自分を顧みれなくて、体を何度も壊したわ。」
そんな時期があったのかと驚き、涙が少し引っ込む。
母は懐かしむようにゆっくりと続ける。
「おばあちゃんにも怒られた。仕事も大事だけどもっと大事なもんもあるだろって。何度も助けて貰ったなぁ。だから、私も大事に育てたあなたが不自由なく過ごして欲しくて、ちょっと一方的だったかもしれないわね。」
申し訳なさそうに小さな声で…ごめんね、と母は謝った。
母は悪くないのに…と思うとまた涙が出て、そのままわんわんと泣き、母は私が泣き止むまで背中をさすってくれていた。
母の優しさやあたたかさを、再認識して改めてありがたみを感じたのだった。
結局、過労と睡眠不足で倒れたようだったので、しっかり栄養と睡眠を摂りなさいと、医者には注意を受けて帰された。
職場に話したら、一週間程休みを頂いた。
「しっかり休んで、仕事に復帰しなさい。」と上司からの伝言付き。
だいぶ仕事が忙しかっただろうから、と気を遣ってくれたみたいだ。
退院後は少しの間実家で過ごすので、病院からは母と帰宅を共にすることにした。
病院を出ると、ゆっくりと母の隣に並んで歩く。
『お母さん、』
「ん?」
『お母さんのご飯食べたい、から、お願いしてもいい?』
こんなお願いするのは、数年ぶりすぎて恥ずかしくなってしまい、たどたどしくなる。
言われた母は、花が舞ったかのように嬉しそうな顔をした。
「もちろん!あなたが好きなのを作るわね。」
ウキウキしながら献立を考える母はとても楽しそうで、私もなんだか心があたたかくなった。
少し、この優しさに甘えてみようと思いながら、母とゆっくり家までの道を歩いた。
#優しさ
1/28/2024, 10:06:52 AM