「生き続けてみたい」
そう思うのには遅すぎたでしょうか。
私は記憶がある時からずっと、目を覆いたくなるような不幸を隠してきた。
そして不幸である事を受け止めず、自らを幸せだと思い込む事で自分を傷つけた気でいた。
傷ついていく自分を差し置き、他人を救ったのは、いずれ私は命を落とすだろうと感じていたからだった。
その感覚に感情は伴っていない。ただ文献を読み進めていくような、知識を蓄えていくのと同じように、この傷はいつか自分の命を蝕んでいくものだと知った。
それでも私はわざと笑い、救われる理由を消し去った。手を差し伸べるに値する人間であることを完璧なまでに隠し通した。
そんな中、他人も私も、私を傷つけるから、きっとそれは上手くいくだろうと、いつか私が正当な理由で亡くなることが出来ることを確信した。
正直自分の人生など、どうでも良かった。
心身共に傷つき、毎夜うなされ、涙を隠し、1秒たりとも安心など出来なかった空間に身を置きながら、幸せを演出した人生。
いつか自ら命を絶たずにこの世から去ることが出来る事への希望だけで、その情熱は生み出された。
そしてそれは訪れる。
短すぎずとも長すぎないであろう寿命を提示され、私は泣いて喜んだ。
この為に、私は私の心を傷つけ続け、そしてそれを隠し続けたのだ。
努力が報われたと思った。
しかし出会いは訪れる。
突然現れたその人によって、不覚にも生き続ける未来を想像してしまった。
1日後の未来も想像できなかった私が、40年後の未来を想像した。
その人は特別優しいわけではない。愛を囁いてくれるわけでもない。
ただ私が死んだあとのその人の悲しみを察するだけで苦しく思えた。
しかし遅いのだ。
今更穏やかに生きられたところで、過去の記憶が永遠に私を蝕み続ける。
そして、その人はきっと私を愛してはいるだろうが、私はその人に救われる事を望んでいない。
救うという事は、同じだけの痛みを背負うことになるからだ。
「しかし生き続けてみたい」
その思いが溢れるばかりの日々に、私は生まれて初めて、自分を傷つけ続けたことを後悔した。
月かさが、青々とした芝と孤独に立つ巨木を照らしていた。
「約束したのに……」
その声は震えた涙声だった。
「裸足で、やっとの事で、ここまで来たのに」
彼女の黒髪は無造作に切られ、足と腕は真新しい痣と傷で覆い尽くされている。
頬は裂けほの温かい血が出ていたが、彼女はそれを涙だと勘違いしていた。
白い小花が咲く巨木にもたれ掛かり、そっと膝を落とす。
その僅かな体温が、彼女が今までどれだけ耐えてきたかを知らせる。
「あぁ……」
膝を抱えては、そっと目を閉じ静かに涙した。
このまま耐える日々の方が良かっただろうか。
過去も今も未来も全てが恐怖に満ちていた中、差し伸べられたその手がどれほどの希望に思えたか。
そしてそれを掴む勇気が、どれほどのものだったか。
家を出る前、彼女は生まれて初めて希望を知った。
今まで拒んできた感情を信じ、一度だけでいいから心から笑って安心してみたいと、そう思ったのだ。
ーーあぁやっと。
小石や小枝に傷けられた頬や足の痛みも気にせず、彼女は全力で走った。
痛みから解放される喜びに、生まれて初めて幸せを知った。
そして彼女は、約束をしていたこの巨木の前で、生まれて初めての絶望を知る。
彼女の瞼は少しずつ堕ちていく。
決して帰ることの出来ないところまで、あと少しだった。
せめてもの救いにならないだろうかと、私は白い花びらを彼女に降らせる。
ここは御伽の国ではない。子どもに説くような絵本の世界でもない。
彼女を痛めつけた人間が、この先彼女以上に傷つくことはないだろう。
彼女を愛する者が「遅くなってごめん」と現れる事はない。
彼女が「待ってた」と嬉し涙を流す場面を見ることなど一生叶わないだろう。
浅い呼吸音と共に空が澄み渡っていく。
僅かな足音が聞こえる気もするが、それが彼女にとっての恐怖であれ、救いであれ、もう終わりは近い。
「……あ」
彼女は安らかな寝顔を晒しているが、私だけは知っている。
彼女が数刻前に流した美しい涙を。
あなたは何も知らない。
私があなたの前では薬を飲まないようにしている事も。
あなたの前でだけは笑って元気に振舞っている事も。
あなたの前ではどんなにお腹が痛くても「美味しいね」って食べた事も。
倒れ込みそうなほど辛い時も、泣き叫びたい時も、あなたを抱きしめて泣きたくても、そうしなかった。
あなたは私の弱い姿を見るといつも不安そうだったから。
あなたは元気なのにどうしてと言う。
あなたの前だから元気でいられただけで、目に見えるものが全てではないわ。
尽くされてるエピソードが思い付かないとあなたは言う。
そのまま何も知らないでいて。
寂しくないとあなたは言う。
私は寂しいのにね。
何故あなたは私を好きなのですか?
私はあなたが私を好きな理由が分かりません。
きっとあなたが気付く頃には、手遅れになっているでしょうか。
私がもし「辛い」と「助けて」とあなたに縋ったら、あなたは助けてくれますか?
手を掴んで離さないでいてくれますか?
背負わせたくない私と、背負いたいあなたがいるのだとしたら、きっとそれは私が勝ってしまう。
どうかあなたを好きなまま、この世を去ることが出来ますように。