月かさが、青々とした芝と孤独に立つ巨木を照らしていた。
「約束したのに……」
その声は震えた涙声だった。
「裸足で、やっとの事で、ここまで来たのに」
彼女の黒髪は無造作に切られ、足と腕は真新しい痣と傷で覆い尽くされている。
頬は裂けほの温かい血が出ていたが、彼女はそれを涙だと勘違いしていた。
白い小花が咲く巨木にもたれ掛かり、そっと膝を落とす。
その僅かな体温が、彼女が今までどれだけ耐えてきたかを知らせる。
「あぁ……」
膝を抱えては、そっと目を閉じ静かに涙した。
このまま耐える日々の方が良かっただろうか。
過去も今も未来も全てが恐怖に満ちていた中、差し伸べられたその手がどれほどの希望に思えたか。
そしてそれを掴む勇気が、どれほどのものだったか。
家を出る前、彼女は生まれて初めて希望を知った。
今まで拒んできた感情を信じ、一度だけでいいから心から笑って安心してみたいと、そう思ったのだ。
ーーあぁやっと。
小石や小枝に傷けられた頬や足の痛みも気にせず、彼女は全力で走った。
痛みから解放される喜びに、生まれて初めて幸せを知った。
そして彼女は、約束をしていたこの巨木の前で、生まれて初めての絶望を知る。
彼女の瞼は少しずつ堕ちていく。
決して帰ることの出来ないところまで、あと少しだった。
せめてもの救いにならないだろうかと、私は白い花びらを彼女に降らせる。
ここは御伽の国ではない。子どもに説くような絵本の世界でもない。
彼女を痛めつけた人間が、この先彼女以上に傷つくことはないだろう。
彼女を愛する者が「遅くなってごめん」と現れる事はない。
彼女が「待ってた」と嬉し涙を流す場面を見ることなど一生叶わないだろう。
浅い呼吸音と共に空が澄み渡っていく。
僅かな足音が聞こえる気もするが、それが彼女にとっての恐怖であれ、救いであれ、もう終わりは近い。
「……あ」
彼女は安らかな寝顔を晒しているが、私だけは知っている。
彼女が数刻前に流した美しい涙を。
2/1/2024, 4:42:16 AM