やるせない気持ちに肩を落とし、途方に暮れながら帰路につく。どうしてこうなったと言えば、今思えば自らの不注意以外の何ものでもないのだが、少しでも自分の気持ちの行き場を作るために誰かのせいにしたい思いが溢れていた。
通帳を失くした。事は数分前、ディーラーからの連絡で失くしたことに気づいた。車の保険のことで別のとこと保険をすることにしたため、既に払っていたお金の返金先の銀行についてを話している時だった。対面で決めていた振り込み先の銀行に振り込めないらしく、もう一度支店番号を教える際に通帳を探していたが見つからず、結局他に持っていた使ってない通帳のことを教えた。電話が終わった後も探したが見つからず、これはまずいと思い、即、銀行に電話して止めてもらった、というのが数分前の出来事である。
そもそも通帳を失くしたことに気づくことが出来たかというと、ここ数日、通帳を持ち歩いていたからだ。それはなぜかと言うと生命保険のことで保険の相談所で話し、いざ契約するとなると通帳が必要になるとのことで持ち歩いていたのだ。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。思うはずなんてなかった。
それから数日後、銀行から電話があり、特に誰かがお金を下ろそうとしたことはなかったと連絡があり、一安心した。新しく通帳を作りにその銀行に向かい、今度は失くすわけにはいかないと思いながら車を運転する。銀行に着き、本当に何もなかった聞くとなかったと面と向かって聞くことができたのである程度は安心した。
その日から数日間は多少のわだかまりを抱えながら過ごしていたが、次第にその気持ちも薄れ、特になんてことない日々を過ごしていた。
そして、月を跨いで数週間した頃にある電話があった。ディーラーから代車のダッシュボードに自分の通帳があった、という連絡だった。なぜ今頃になって見つかったのか、そこは調べたけど無かったんだよな、とちょっとディーラーを疑いながらその話を聞いていた。ディーラーの話ではダッシュボートの奥の方の隙間から出てきたらしい。それは確かに見つからないわけだ。
ディーラーを疑ったことに罪悪感を少し感じながらも見つかったことに感謝し、後日受け取りに向かった。
自転車に乗っていつもの帰り道を通る。特に変わり映えもしない。いや、この前、新しい家が建っていた気がする。うろ覚えだけど、そんな気がする。
自宅に帰るまでは1時間くらいかかる。ちょっと栄えた街中を通って、人の少ない田畑だらけの道を走って、寂れた町のさらに端っこまで続く。
スーパーもコンビニもない、もちろん自販機なんてもってのほかだ。どこに行くにも時間のかかるこの町、いや、集落が俺の生まれ育った場所だ。
これから先もずっと通るであろう帰り道に面倒を感じながらも足を止めることはせず、だらだらと自転車を漕ぐ。あー面倒くさい。
子供の頃、好きな色は何か聞かれてそれに答えることが難しかった。難しいと言っても、黄緑と答えてはいたがなんで黄緑が好きかはわからない。今はそんな好きな色でもないわけだが。
何気ない質問にどう答えるかの方が重要だったのだろう。素っ気なく、特に理由もなく、なんとなく黄緑が好きだということしか言葉にできず、相手の好きな色を聞いたり、そこから話を広げたりと会話を楽しむことができていなかったのだ。
子供ながらにこの人はこれからの付き合いにどう影響するのか考えていたのだろうか、と今は考える。敵が味方か、有益なのか有害なのか、何の影響も及ばさない空気なのか。答え方で決められていた。
今となっては遠い過去の話ではあるのだが、その頃から人付き合いがうまくいってなかった事実はこれからも会話の機微に反応することなく、ただ事実だけを述べる面白くもない人間がいることを示しているのだろう。
話は終わらない。そう感じずにはいられない出来事があった。一ヶ月前、ちょうど二本の時計の針が真上に重なった時だ。昼休憩で外に行く人やまだ仕事中の人もいる中、俺は買ってきていたパンを食べていた。
「あ、この前はごめんね」
「いえ、とんでもない。是非また行きましょう」
事業所内では比較的仲のいい二人が会話をしていた。先に言っておくとこの二人の会話が長いという訳ではない。彼らの話はこれで終わりだ。次に移る。
「あのやり方ありえなくないですか? 下の人たちの人のこと歯車かなんかだと思っているんですかね。上の人たちだけでやればいいじゃん。俺たちいるか?」
この人も愚痴話は多いが、仕事は早い。愚痴を聞いている同僚は頷くこともあれば宥めるような返しをしながら聞いている。まあ、彼らも話は長いが、彼らでもない。風通しがいい所でいつまで話せる内容でもないからね。次だ。
「これ見てくれ。やばくね?」
「ずるいっスよ、それは。反則です」
「まさかだと思ったね」
スマホを見ながらゲームの話をしている。仕事中でもゲームの話をしている時があるからそれはどうにかした方がいい、自分も混ざって話すことがあるからこれは反省ものではあるのだけど、これも違う。
「あの人、主任でもないのに仕切ってばっかりでなんなんって感じじゃない? この間も……」
そう、この人。正確にはこの人たちだが。女性陣の集まりは誰かがそこからいなくなるとその人の悪口を言いまくる。同調のみで否定はしない。きっと自分もいない所で悪口言われているんだろうなぁと感じられずにはいられない。鈍間で半人前の俺は言われても仕方ないのだろうけど、事実でも言われるのは悲しい。彼女らの話は仕事が終わるまで続くのだ。だが、この日だけは仕事が終わっても悪口は終わらず、ここでストレス発散していこうと頑張っていた。仕事が終わらずどうにかしようとしていた自分には耐え難いほどの苦痛だった。それは本当に一秒一秒が長く感じられたのだった。
気温が一桁を切っているのに半袖を着出すとんちんかんがそこにはいた。
「ちょっとそれ寒くない?」
「ん?」
なんなのかよくわからない。そう言わんばかりの顔をしている。いつものその様子に私は溜息をつく。
彼は私が気になっている人だ。恋愛的に放っておけないのではなく、このまま社会に放り出して生きていけるのか心配、という意味でだ。決して恋愛的なモノは持ち合わせてはいない。
ようやく言っている意味に気づいたのか、半袖を脱いで長袖を着出す。そして、悪態をつくのだろう。
「そう言うならお前もそうだろ。脚出してるし」
彼はそういうやつだ。自分の間違いを認めなくないために屁理屈をとなえる。
「へー。じゃあ。もうこの服着なくてもいいんだ」
あなたのお気に入りの服。男が好きそうな白のワンピース。この時期に着るのは無謀もいいところだ。
「そんなことは言ってねーし」
目を合わすことなく放つ言葉は震えていた。彼は頑なに認めたくないのだ、自分の負けを。