海の底の夢を見る。
わたしは人間の形をしてなくて、きっと海中の魚か、泳いでいる爬虫類の形をしていて、水底から空を思い描いて、波の向こうを見ようと、差し込むこの光はなんなのか、どこからやってくるのか知りたくて、水面を見上げていた。
あの白く輝くものはなんだろう。気泡似た丸いかたち。あれを水を隔ててではなく、直に見てみたい。この短い手を伸ばせば、あの強烈な白が手に入るだろうか。
海が暗くなった時に垣間見える静かなひかりとも違う、あれ。しずかなしずかな眠りと産卵の時間には見えないもの。
それに焦がれていた。
どうにかして近づけないものか。いつしか見上げることをやめた。近づけばいいのだ。海を出ればいい。浅瀬へ移動する。足が砂に触れる。水の温度が上がる。肌に不愉快だ。それでもと途方もない夢、途方もない欲望が疼き、後押しする。海を出た。
陸にあがっても、それははるか頭上にあった。そのかわりにはじめて見る色を目にした。
海に戻れなくなった。遠くからみるそれは、海中にいる時と違う色をしていた。青い空と同じ青い色。
夢を見る。帰りたい、帰れなくなった海の底の夢。
美しいものが見たいと父は言った。
美しいものってなあに?
尋ねると、父は銀の雨だよと答えた。
銀の雨、雪でも雨でもない銀色の雫、それがお空から降ってくるのはね、どこかで誰かの大切なひとがしあわせになったことを教えてくれるんだよ。
この世界は不公平だ。
運のいいやつはやさしい両親兄弟のところに生まれ、愛情に恵まれてしあわせな人生を送ると、そう決まっている。悩み事ができたって、いやなことがあっても、必ず誰かが助けてくれる。
お綺麗な苦しみ、あっさり終わった悲しみを、私も辛いことあったよ、頑張ったんだだよと胸を張って話す。
殺してやりたい。
今すぐわたしの苦しみを突きつけて、ほら、頑張れ、辛くても頑張れるんでしょと焚きつけてやりたい。
そんなことをずっと考えていたからか。目の前に現れた異形は清らかな微笑みを口元に浮かべて、それはそれはやさしくあなたの願いを叶えてあげましょうと言った。
わたしの願い?
そんなの決まってる。わたしより幸福なやつを不幸にして欲しい。泣いたってどうにもならないことを、誰も助けてくれないことを、自分が原因じゃない不幸がどれほど重くて、もがきたくてももがけないことを知って欲しい。
あら、あなた、そんなことでいいの?
いいの。だってこう考えちゃうもん。わかってるよ、わたしだけが不幸じゃない。わたしより苦しいひとはいる。でも、ほんとうにそうなのかなって。みんな不幸で悲しくて苦しいと思うけど、どこか、ほんの一部分はわたしよりしあわせなんじゃない?
だから、この願いを叶えて欲しい。違ってたら、それはそれでいいよ。あってても、それはそれでいいよ。
だから、お願い。
異形は呆れた顔で指を振ると消えた。
目を閉じて、しばらく待ってみる。目を開ける。窓ガラスから見る世界は何もか変わって内容に見えた。
わたしは靴を履いて外に出た。友人に会って泣いていないか確認するために。
砂漠という土地があるとその男は言った。
昼日中は火傷するよう熱い日差しが降り注ぎ、夜には凍りつくような冷たい風が吹くその場所は、水が奥深くに隠されてなかなか見つからないらしい。夢のように美しいところだと。
そこには何があるのかと尋ねると、砂があるという。砂と風とほしと正反対の気温がある、と。
砂とはなんだと尋ねると答えるのが難しいと言われた。では凍りつくとはと聞くと、きみのはるか下にある厚いかたまりのことだと答えた。
氷と寒さは非常に近いらしい。ならば私は氷も寒さも知っている。氷は底にある触れないほうがいいもの。近づくと鱗が固く収縮する。それが寒さだろう。
男はそうだねと言った。そしてわたしが向いている方向を指差した。あちらは何がある?
私が答える番だった。あちらにはミカナキキバどものすみかがある。危険だ。行かない方がいい。奴らは獰猛だ。
ぼくと似た形を見たことはある?
見たことはない。だか、似たものがミカナキキバどもに連れていかれたと聞いた。喰われたんだろう。
きみはきみと同じ形、つまり同じ種族のものが連れていかれたらどうする?
どうもしない。奴らには勝てない。
男はしばらく黙り込んだ。
君たちはある程度の知能があるのに、生きるためだけにしか使わないんだね。それが正しい在り方かもしれないけれど。
生きるのは当たり前のことだ。獲物を喰らい、子を成す。それが以外に何がある。
男は行った。戻ってこなかった。喰われたんだろう。
それ以来、私は夢を見るようになった。
夢とは何か、それは視界を閉ざして獲物を食ったあとのような気分になること。そう教えてもらった。
夢の中、私は砂漠にいる。熱いと日差しも分からないが、氷と寒さは知っている。風も知らない。気温も空も夜も昼も朝も。男と名乗った奇妙な形のものがなんだったのかも。
男が戻ってきたらいい。もっと砂漠のことを教えてもらえる。しかし無理だ。
夢を見ることができるようになった。時々視界を開くのが嫌になるときがある。初めての感覚だ。できることなら、ずっと砂漠の夢を見ていたい。
男も同じように夢を見ていればよかったのに。
ずっとこのまま眠っていたい。
布団のなかで、体を丸めて胎児のように天国の夢を見ていたい。
天国は太陽の光が差し込む浅瀬の海。波はゆるやかで、海は白緑色をしてどこかあたたかい。砂地は乾いた黄色。
その中で、わたしはずっと微睡んでいる。どんな夢を見たのか、なにがあったのかなんて何もわからずに、ただしあわせの余韻だけを噛みしめている。
時々、何かが横を通り過ぎる。ぶつかることもなく、海が揺らめいて、すぐ近くを何かが通し過ぎたことを感じて、少しだけ目を開ける。
そこは遠くにべつの命がいて、時折すれ違うだけのわたしだけの海。静かで乱されることのないまどろみの場所。
いつか、きっとそこにたどり着く。
その確信だけを頼りに、わたしは今日も眠る。
ずっと眠っていられる場所に帰る日まで。