伝えたいことはなんだろう。
あのひととの思い出を指を折りながら、数えてみる。
夏の記憶。秋の記憶。冬の記憶。初めて会った春の記憶。
ぎこちない会話を繰り返していた頃はなんだか距離を感じていた。問いかけと答えがちぐはぐなような、会話に興味がないのかなと思う時もあった。
でも人気のない水族館の暗い水槽の前で、たまたまあなたと会った時、はじめて似てるのかもしれないと思った。
天井近くから揺らめいて届く照明の光、暗い波のなかを泳ぐ魚を見つめるあなたの横顔。足元の照明が細い足首を白く浮かび上がらせていた。
胸の奥に、透明な水滴が落ちた。
声をかけられなかった。目の前のひとは今自分だけの硬質な世界にいる。他者を寄せつけず、何かを問いかけている。その問いを、わたしは知らない。どれだけ親しくなっても教えてもらえない。
そう確信した。
わたしは結局あのひとに声をかけずに帰った。
親しくなってふたりででかけるようになっても、いっしょに水族館に行ったことはない。あの日見たよと伝えることもない。
ただ四季をなんどいっしょに巡っても、あの日の水槽の前で何も見ていなかったあなたに伝えたいことがあったと、思い出すことがある。
わたしがあの日に伝えたかったことはなんだろう。
「だいきらい。2度と会いにこないで」
幼かったわたしの一言を受けて、義姉は姿を消した。
兄の葬儀の2日後のことだった。
幼いわたしは兄が病死したのは、ずっと彼女のせいだと思っていた。大好きな兄を取った彼女をうらみ、それでも優しくしてくれるから嫌いになりきれなくて、もやもやしていたものが兄の死をきっかけに表面化してしまった。
私の言葉を聞いた彼女は老婆のようにうつむき、何も言わずに去っていった。そして行方をくらましてしまった。
後悔したけれど、もう遅い。やさしかつた義姉はどこかに行ってしまった。誕生日の夜にプレゼントのお礼を伝えた電話番号にかけても、誰にもつながらない。
あれから10年。わたしは彼女に電話をかける。つながらないとわかっているのに、それでも彼女に謝りたくてコールする。
分かってる。わたしがやっていることはただの自己満足で、なんとか綺麗な結末に取り繕いたくてあがいてるに過ぎないんだと。
それでも義姉の教えてくれた言葉が背中を押す。
わたしたちの体を作る構成分子は星屑なんだと。右腕と左腕は宇宙のどこかから訪れた違う星屑のカケラなんだと。
もしかしたら、そう、本当にもしかしたらわたしの左腕と義姉の右腕は同じ分子で出来ていて、それを伝って声が届くかもしれない。
私の祈りは星屑を通して時を越え、願い奇跡にたどり着くかもしれない。
長いコール音の後、誰かが優しい声で応答してくれた。あの時の義姉の声だった。
月が綺麗だね、なんてこと言われるとは思わなかった。
あなたが私のことを好きなんじゃないかって時々感じてたけど、きっと気のせいだと思っていた。
だって、わたしたちそんなに仲良くないし。たまにグループで遊ぶ時に話をするぐらいだし。だから、へんな勘違いしたら失礼だよねって思ってた。
なのに、たまたまいっしょになった帰り道で、急に立ち止まって空を見たかと思ったら、顔を赤くしてそんなことを言うなんて。
なんて答えればいいのか分からなかった。適当に流すには数秒が経っていたし、あなたはカバンを抱きしめて俯いてるし。
女の子同士だよって言えばよかったのかな。でも、そんなことも考えなかった。考えられなかった。
こんな夢を見た。
世界は一本の線で区切られていた。赤茶けた剥き出しの土と濃い青空。遠くに山々の稜線が見える。
右側は晴天。左は曇天。
世界を区切る線の上に、少女が立っていた。
くしゃくしゃの巻き毛の赤毛。頰に散らばる大きなそばかす。首元から指先まで白いレースに埋もれているようだった。
少女は笑う。
どっちがいい?
どっち、とは?
晴れと雨、どっちがいい?
では雨で。
雨がいいのね。じゃああっちに歩いて行きなさい。
少女は右を指差す。逆ではないのかと問いたかったが、わたしは何も言わずに晴れ空の下を歩き出した。
乾いた空気。砂のよう土を踏む感覚。足の下で踏み潰される土が軽い音を立てる。乾いた空気にいつのまにか水のような匂いが漂っていた。
空を見上げると曇天になっている。折よく雨粒が鼻先に落ちた。
ああ、雨が降るのか。
振り返ると、背後の曇天は晴れ渡っていた。その中で少女は両腕を伸ばして踊る。小さな歌声が聞こえた。明るい曲なのに何故か泣き声のようにも思えた。
雨粒が大きくなり、強く降り出す。ああ、歌が聞こえない。
先程まで微笑んでいたのに、少女は今泣いているのだろうか。
そこで目が覚めた。
タイムマシーンがあったら、どっちに行く? 過去と未来
んー、未来かな。
どうして未来? 過去の方がよくない?
未来に行って、これからどうなるか教えてもらうの。失敗したこととか後悔してることとか。で、そうならないようにする。
ふーん、そんなんでいいの?
なにその反応。もしかして宝くじ当てようとか考えてる?
考えてるよ。だってそしたらずっと遊んで暮らせるじゃん。そのほうがいいでしょ。
不純だなー。知ってる? タイムマシーンがいちばん最初に登場した小説、いや作ったって設定のひとはね、恋人が死ぬ運命を改変したくてタイムマシーンを作ったんだよ。
うん。で?
だからーそんな宝くじ当てたいみたいな欲望のために使っちゃいけませんって話。
なにそれ、どう違うのかよく分かんないんだけど。
西陽が教室に差し込んでいた。
スカートの厚い生地を通して伝わる机の冷たさ。椅子に座る友人を見つめながら、わたしたちは他愛もない会話をしていた。
ほんとうに何度も繰り返した日常。ありふれた記憶。でもこの日だけは思い出すたびに泣きそうになるの。
タイムマシーンがあるのなら、わたしはこの日に帰りたい。
そして同じ会話をして、笑いながら教室を出て、夜になる前の時間を駅までふたりで歩く。
この日に帰りたい。