『心の健康』
夕陽が空を染める頃、窮屈なコルセットを
解き、柔らかな絹のシャツワンピースに着替えた
悪役令嬢は、お気に入りのテラスで
深い溜息をついておられました。
「ふぅ、疲れましたわ」
近頃は舞踏会やディナーパーティーと、
社交の場に身を置く日々が続いていたのです。
招待主は、重要な取引先である
ポテイトウ男爵とメイクイーン夫人。
ポテイトウ男爵の領地には大規模なお菓子
工場があり、その名高いスナック菓子は
国内外で人気を博しています。
我が領地の蜂蜜や羊毛との取引も欠かせません。
「お嬢様、お疲れ様でございます。疲労回復に
効くハーブティーをご用意いたしました」
愛らしいメイドのベッキーが、
優しく微笑みながらお茶を差し出します。
「まあ、ありがとうございます。ベッキー」
レモングラスの爽やかな香り、ローズヒップと
ハイビスカスの絶妙な酸味が広がる
ハーブティーを優雅に口に運ぶ悪役令嬢。
「はぁ……」
社交の場では、いつも仮面舞踏会が行われて
います。悲しみや苦痛を抱えていても、明るく
振る舞わねばならない。それは必ずしも悪い
ことではないのでしょう。けれど、自分を
偽り続ける行為は、心を蝕んでいくものです。
「今宵はゆっくりとお休みください、主」
セバスチャンとベッキーの気遣いに、
悪役令嬢は申し訳なさを感じました。
彼らもまた、パーティーに同行し、警護や
身支度の手伝いに奔走してくれたのですから。
「ありがとう、セバスチャン、ベッキー。
あなた方こそ、どうかゆっくりお休みになって」
その夜、心地よい疲れとともに
深い眠りに落ちた悪役令嬢。
翌朝、太陽が高く昇る前に、
彼女は庭園へと足を運びました。
野菜や花の生命力に満ち溢れた夏の庭。
タイムやディルは料理に香りを添え、
ラベンダーは乾燥させて、クローゼットに
入れておけば虫除けにもなります。
雑草を抜き、水やりに励む悪役令嬢のもとに、
「おはようございます、主。早起きですね」
「あら、おはようございます。セバスチャン」
セバスチャンも庭の様子を見に来たのでした。
「トマトやバジルがたくさん
実っていますわね」
「はい。収穫して冷製スープやジェノベーゼ
パスタにするのもいいかもしれません」
「まあ、なんて素敵なのかしら」
土の香りと小鳥たちの朝の歌に包まれながら、
悪役令嬢は執事の凛とした横顔を見つめます。
「主?どうしましたか?」
「いいえ、何でもありませんの」
華やかな舞踏会も、贅を尽くした晩餐会も、
確かに魅力的です。けれど、散歩や庭の手入れ、
森や山への探険、そしてセバスチャンや
ベッキーとの穏やかなティータイム。そんな
日常こそが、彼女の心に安らぎをもたらすのです。
そう気づいた悪役令嬢は、
静かな微笑みを浮かべるのでありました。
『終点』
「えっ……れ、連載終了……?」
両手に持った月刊リポンを見つめ、
凍りつく悪役令嬢。彼女の指先が、
震えるように紙面に触れる。
いつも楽しみにしていた漫画の最終ページには、
「ご愛読ありがとうございました!」という
短い文字が記されていた。
人生にも物語にも、いつかは『終点』という
名の終わりが訪れる。
しかし、それはあまりにも唐突にやって来た。
「どうして……掲載順位は決して悪くなかった
はず。主人公たちの愛の行方、迫り来る他国の
脅威……これからが佳境だったというのに!」
悪役令嬢はショックのあまり、
その日一日寝込んでいた。
「何かございましたか」
いつもなら喜んで口にする紅茶も、
クロテッドクリーム付きのスコーンも
召し上がらない悪役令嬢に、
セバスチャンが心配そうに声をかける。
「好きだった作者様のお話が
もう読めなくなってしまいましたの」
長期休載なら、またいつか再開してくれる
という希望が抱ける。だが、連載終了。
単行本化もしていない。写真にも
電子の海にも残っていないのだ。
「主、形あるものだけが全てではありません」
セバスチャンはこんな話を語り始めた。
「先日ご覧になった『タイタニック』
の映画を思い出してください」
「ええ、とても感動的なラストでしたわ」
「ジャックはタイタニック号と共に海底に沈み、
名前さえ記録に残りませんでした。しかし、
ローズの心の中で彼は永遠に生き続けたのです」
「……」
「主の心に刻まれた物語は、決して消えることは
ありません。あなたがその作品を愛し続ける
限り、その世界はあなたの中で生き続けます」
執事の言葉に、悪役令嬢は瞳を揺らしながら
静かに目を閉じた。
終点とは即ち新たな始まり。
彼女の想像の中で、愛しい登場人物たちが
再び息づき始めたのであった。
『蝶よ花よ』
「これは何ですの?」
魔術師から手のひらサイズの機械を
渡された悪役令嬢が尋ねる。
「お嬢様、これはたまごっちです」
「たまごっち」とは
はるか彼方の星に棲む生き物たちのこと。
機械を通して食事をあげたり、
遊んであげたりしてお世話をするのだという。
魔術師は執事のセバスチャンとメイドの
ベッキーにも一つずつ渡した。
三人は物珍しそうにたまごっちを覗き込む。
「丹精込めて育てれば、驚くほどの成長を
遂げますよ。さあ、あなたも今日から
たまごっちマスター!」
こうして彼らは急遽たまごっちの
お世話をする事となった。
「あっ、足が生えてますわ!」
「この右上のドクロマークは何でしょうか?」
「おそらく病気にかかっているんだ。注射を打っ
て治さねばならないと攻略本に書いてあった」
次第に熱中していく三人。
おやつをあげたり、オソマの掃除をしたり、
スキマ時間を見つけては様子を窺う。
悪役令嬢は自分のたまごっちにジョセフィーヌ
と名付け、おなか・ごきげんメーターを常に
満タンにし、蝶よ花よと大切に育てた。
「私が手塩にかけて育てたんですもの。
きっと優雅でエレガントな姿に成長しますわ」
そして、遂に最終進化の瞬間が訪れた。
ピロリン♪
軽快な電子音と共に、
頭から毛が一本生えたおじさんが誕生。
(えっ、なんか……全然可愛くありませんわ)
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「さてさて、皆さんのたまごっちは
うまく育ちましたか?」
魔術師が現れ、たまごっち品評会が始まった。
セバスチャンのたまごっちは、黒い耳が生えた
うさぎ?猫のような姿をしたキャラクターだ。
「これはまめっちですね。このゲームの看板的
存在であり育成難易度が高いキャラですよ。
やりますねぇ!セバスチャン」
「そうなのか」
お次はベッキー。彼女のたまごっちは
愛嬌溢れるアヒルの姿をしていた。
「これはくちぱっちですね。
のんびり癒し系の人気キャラです」
「なるほど!ぽてっとしていて可愛いですね」
「さあ、お嬢様のたまごっちはどんな姿に
成長しましたか?」
「うっ」
おずおずと自分のたまごっちを
皆の前に晒す悪役令嬢。
「む、むむむ!これはおやじっちです。
特殊な育て方で出現するレアキャラですよ」
「お嬢様、すごいです!」
「おめでとうございます。主」
「……」
称賛の声を浴びる悪役令嬢は、
掌の上で佇む親父ジョセフィーヌを見つめた。
「……一生懸命育てましたもの」
最後まで責任を持ってお世話しようと
密かに誓う悪役令嬢であった。
『太陽』
「水、虫除け道具、地図、コンパス、タオル、
菓子……よし、準備万端です。主」
「完璧ですわ、セバスチャン。日焼け止めも
塗りましたし、いつでも行けますわよ」
魔術師から還らずの森の奥地にある
『神秘の泉』へ冒険に行かないかと誘われた
悪役令嬢と執事のセバスチャン。
『蚊やダニやヒルにご用心を。
動きやすい服装で来てください』
機敏性と優雅さを兼ね備えた特注の冒険用
ドレスに身を包む悪役令嬢と、通気性に優れた
スーツで身を固めたセバスチャン。
待ち合わせ場所でご対面した魔術師は、
いつも通りの黒い陰気なローブ姿です。
「その格好で大丈夫なのか」
「見るからに暑苦しいですわ!」
「全身に冷却魔法の薄い膜を張っているので、
何のそのです。さあ、行きましょうか」
森に足を踏み入れる三人。
悪役令嬢たちの暮らすヘザーフィールドと
魔術師の暮らすリルガミンの狭間に広がる
還らずの森は、夏でもどこか鬱蒼としています。
「神秘の泉には妖精や森の動物たち、
運がよければケルピーなども現れますよ」
「この森には珍しい魔物も暮らしているんだな」
セバスチャンと魔術師が話していると突然、
悪役令嬢が森の中を指差しました。
「見てください、ユニコーンがいますわ!」
人前には滅多に姿を見せない幻獣ユニコーン。
太陽を浴びて輝く銀色の身体は、
神々しく幻想的です。
「ユニコーン……初めて見ました」
「くっ、素材が欲しいですが、
今回は我慢しましょう」
道中歩いていると、葉っぱの影から小人たちが
顔を覗かせ、『どこ行くのー?』と三人に
声をかけてきました。
「泉へ行くのですよ」
『案内しようか?』
「遠慮しておく」
丁重にお断りするセバスチャン。
森の住人である小人や妖精は大変いたずら
好きで、安易について行ってはいけません。
長い道のりを経て、一行はようやく泉に到着。
エメラルドグリーンの透き通った泉が太陽の光を
受けて煌めく姿はまさに神秘そのもの。
涼しげな空気が旅の疲れを癒してくれます。
「ここで休憩しましょう」
柔らかな敷物の上に、たまごサンドイッチや
クリームチーズ、オリーブ、生ハムをのせた
カナッペやローストチキンが並べられます。
魔術師はその辺に生えた草を乾燥させ、
沸かした水で即席のお茶を淹れます。
「……毒は入っていないだろうか」
「安心してください。ちゃんと
厳選したものを使っていますから」
「あらこのお茶意外とおいしいですわ」
食事を味わいながら、泉にやってきた鹿や
うさぎ、ピクシーやホビットを観察する三人。
太陽の優しい光と清らかな水の音、
素晴らしい自然の恵みのもと、三人は
冒険を楽しんだのでありましたとさ。
『鐘の音』
降り積もる雪が古城の窓辺を白く染める季節。
冷たい窓ガラス越しに雪に覆われた庭園を
眺めながら、メアは悲しみに沈んでいた。
実の母は彼女を産んですぐに亡くなり、
乳母に育てられたメア。城での生活は
メアにとって優しいものではなかった。
父の正妻であるサラの存在がその理由だ。
妾の子として生まれたメアを、
サラは快く思っていなかった。
城の人々の関心は、後継者であるメアの兄
ウィルムに注がれ、かつては共に遊んでくれた
兄の態度も最近は何処かよそよそしい。
この広大な城でメアに心を寄せる者は、
父ドレイク、メイド長メルセデス、
乳母マリアンヌ、執事長クロードのみ。
「書き取りが終わるまで食事は抜きよ」
継母の言葉に従い、筆を走らせるメア。
「終わりましたわ」
やっと書きあげたものを継母に差し出すと、
鼻でフッと笑うだけ。
メイドから渡されたトレイを
受け取る間もなく、
「あっ」
手を滑らせスープが床に零れ落ちた。
サラは忌々しげな溜め息を吐く。
「全く、鈍臭さは母親譲りね」
継母の言葉に、背後で控えるメイドの
エレノアが口元に手を当て笑う。
彼女はいつも皮肉めいた笑みや
馬鹿にしたような態度をメアに向けるのだ。
たまらなくなったメアは、
粉雪の舞う日、城を抜け出した。
白い大地に足跡を残す度、
サクッサクッと音が響く。
氷柱をまとった黒い枝先が、
鼠色の空に伸びている。
(あの者たち、今に見てなさい。
わたくしが最強の悪役令嬢となった暁には、
たっぷりいじめ抜いてさしあげますわ)
民家の軒先に飾られたヤドリギの
乳白色の実を見つめるメア。
もうすぐ聖夜祭。家々では、家族が飾り付け
を楽しみ、街へ買い出しに向かい、
和気あいあいと過ごしているのだろう。
お父さまは、わたくしがいなくなったら
悲しんでくださる?
……いいえ、きっと跡取りである
お兄さまのほうが大切なはず。
わたくしがいなくなっても誰も困らない、
むしろあの人が喜ぶだけ。
遠くから教会の鐘の音が聞こえてくる。
メアの心にぽっかりと空いた穴を、
鐘の音が通り抜けていく。
冷たい石の階段に腰を下ろし、
メアは白い息と共に小さく呟いた。
「お父さま、わたくしを迎えに来て。
わたくしが必要だと言ってください 」
しかし、父は出張で遠い国へ旅立っている。
叶わぬ願いだと知りながら、
メアは鐘の音に耳を傾けていた。