『あなたがいたから』
※前回の『未来』と話が繋がっています。
セバスチャンの顔が徐々に近づき、
悪役令嬢の唇に触れようとしたその時───
「お取り込み中のところ悪いが
熊猫爺が呼んでるぞ」
声のした方を見ると、扉の前に
濃紺のチャンパオを着た男が立っていた。
悪役令嬢はその顔に見覚えがある。
以前、セバスチャンと九狼城を
訪れた際に出会った男だ。
「……わかった」
セバスチャンは名残惜しそうに
悪役令嬢を見つめた。
「すぐに戻ります。
どこにも行かないでください」
男はセバスチャンにニヤリとした
いやらしい笑みを向ける。
「お堅いお前が女を連れ込んでるとは、
明日は雪が降るかもしれんな」
「黙れ」
外側から鍵が掛かった部屋に
一人取り残される悪役令嬢。
ふと一輪の花が彼女の視界に留まる。
部屋の甘い香りはこの白い花からくるものだ。
景徳鎮の花瓶に飾られた
その花の名前は"月涙花"
医薬品、そして麻薬の原料となる植物。
ここへ来る途中で通った
歓楽街の情景が蘇る。
賭博場で賭け事に熱中する男たち、
店の前で客引きをする女たち、
キセルを片手に甘い煙を吹かす老人たち。
「ただいま戻りました」
「セバスチャン、あなたはこの花を
売っているのですか」
彼の表情が凍りつく。
「天狼幇とは、この街を牛耳るマフィアの
名前ですわね?つまりあなたは……」
言葉を紡ごうとした矢先、
セバスチャンは彼女の足元に膝をついた。
「……俺はあなたがいなくなってから、
自分の行いが正しい事なのかわからないんです」
「この世界の私は、死んだのですか」
「消えたんです。跡形もなく」
「消えた……?」
「原因はわかりません。オズワルドは、異世界へ
飛ばされたのではないかと話していました。
俺は、あなたを探すために金が必要だった」
「……」
「麻薬、賭博、売春……あらゆる悪事に手を染め、
がむしゃらに金を集めて、あなたを探し続けた。
けれどあなたは一向に見つからない」
彼の震える背中を見つめる悪役令嬢。
彼はずっと待ち続けていたのだ。
主が帰ってくるその日を───
悪役令嬢は項垂れたままのセバスチャンを
抱き締め、その背中を優しく撫でた。
「ありがとうございます、セバスチャン。
私の事を忘れずにいてくれて、
私の事を愛してくれて」
「主……」
「私も、あなたの事が……」
突如、部屋が眩い光に包まれ、
悪役令嬢の体が浮き上がり始める。
「主!?」
セバスチャンは彼女の手を必死に掴もうとしたが、
光の力は強くどんどん距離が離れていく。
「セバスチャン、私たちきっとまた会えます!
絶対にあなたの事見つけ出してみせますわ!」
やがて光に包まれ、
彼女の姿は徐々に透明になっていった。
瞼を開けると、そこは元いた屋敷の一室だった。
「おかえりなさい、お嬢様」
魔術師が声をかけてくる。
「未来はどうでしたか」
悪役令嬢は俯いたまま何も話さない。
「お嬢様?」
彼女の頬には涙が伝い、掌には白い花弁が一片、
萎れた姿のまま握られていた。
『未来』
魔術師の怪しい道具により、
未来に飛ばされた悪役令嬢。
辿り着いた先は、
九狼城と呼ばれるスラム街だった。
「よお、姉ちゃん。金目のもの全部置いていきな」
ついて早々、柄の悪い半グレ共に取り囲まれる。
「私、現金は持ち歩かない主義なんですの」
淡々と答えるキャッシュレス決済派の悪役令嬢。
この場をどうにかして切り抜けたい。
そう考えていた矢先────
「何をしている」
低い男の声が聞こえてきた。
そこに立っていたのは、金の刺繍が施された
漆黒の長袍を身に纏う背の高い男性。
半グレ共の顔がサッと青ざめる。
「あ、あなたは、天狼幇の……」
「俺のシマで恐喝とは随分と肝が据わっている」
「ひぃっ!」
冷たい眼差しを向けられた半グレ達は
蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
「助けていただきありがとうございます」
「いや、礼は無用」
二人は顔を見合わせ、そして互いに目を見張った。
「セバスチャン?」
「主?」
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セバスチャンに案内された場所は、
シノワズリ調の家具が取り揃えられた広い部屋。
揚げたての胡麻団子と温かい烏龍茶を
頂きながら悪役令嬢は彼に質問した。
「今の年号はいくつですの?」
「紫竜六年です」
悪役令嬢の住む世界は蒼竜六年。
つまり彼女は三十年後の世界に
迷い込んでいたというわけだ。
彼の容姿は少し髪が伸びただけで、
大きくは変わっていない。
それもそのはず、
魔物の血が入った者は人よりも長く生きる。
そのため歳の取り方も普通の人間とは違う。
だが顔立ちは以前よりも鋭さが増して、
凛とした貫禄を放っていた。
「どうしてあの様な場所に?」
「実は私、過去からやって来たんですの。
信じられない話だと思いますが」
格子窓の隙間から外の景色を眺めて、
悪役令嬢は安堵のため息を零す。
赤提灯が揺らめく幻想的な街。
妖しげな雰囲気を残しつつも、
街並みは一新され美しくなっていた。
「こちらの私は元気にやっていますか」
その言葉に彼の表情が陰りを見せる。
「セバスチャン?」
彼は今にも泣き出しそうに顔を歪ませた後、
悪役令嬢を強く抱きしめた。
首筋に顔を寄せ、彼女の匂いを嗅ぐ。
「主の匂いだ」
その姿はまるで、長い間離れ離れになっていた
飼い主と再開した時の愛犬を彷彿とさせた。
「く、くすぐったいですわ」
身じろぐ悪役令嬢だが、彼は腕の中に
閉じこめたまま一向に離してくれない。
やがて天蓋付きの寝台に押し倒され、
月のような双眸に見下ろされる。
「あっ」
「主……」
セバスチャンの顔がゆっくりと近づいてくる。
果たして彼女は元いた世界に戻れるだろうか。
『好きな本』
悪役令嬢の住むお屋敷には
広々とした図書室がある。
天井高い吹き抜けの空間には、
幾重にも重なる本棚が立ち並び、
迷路のように入り組んだ書架の小径を進むと、
柔らかな光が射し込む
落ち着いた窓際の席や、
居心地の良い書斎が広がっている。
暖炉の燃え盛る火が揺らめく書斎で、
悪役令嬢は赤いベルベットの椅子に
身を預け、茉莉花の香りが満ちる
空間で読書に耽っていた。
本日のお茶は九狼城から仕入れてきた茶葉で、
"花茶"と呼ばれるもの。
透明な急須の中で咲く花の姿は
何と可憐なことか。
時が止まったかのような
静謐な空間に聞こえてくるのは、
ページをめくる音と穏やかな息遣い。
「あなた方はどんな本がお好きなんですの?」
不意に悪役令嬢が、執事のセバスチャンと
メイドのベッキーにこんな質問をしてみた。
「わたしは恋愛要素のある作品が好きですね!
禁断の恋や運命の出会いみたいな話に
弱くて……」
頬を紅潮させながら語るベッキーに、
「わかります、わかりますわ」
と共感する悪役令嬢。
「セバスチャンはどうですか?」
「特にこだわりはありません。
小説、自叙伝、図鑑……自分にはない知識や
考え方が得られるものは、どれも興味深いです」
彼は沈着な声でそう答えた。
ふむふむと頷く悪役令嬢に
「お嬢様の好きな本は何ですか?」
とベッキーが尋ねる。
「私?私は悪女が転生して成り上がる物語や
復讐を企てる作品が大好物ですわね」
ほほほと笑う悪役令嬢の膝元には、
月刊連載中の『どすこい!ナスビくん』
の単行本が置かれていた。
かくして三人は、芳醇な古書の香りと
甘美な花茶の香りに包まれながら、
好きな本の世界に浸り、
穏やかな一時を過ごしたのであった。
『あいまいな空』
あたしの名前はモブ崎モブ子!
私立ヘンテコリン学園に通う高校一年生。
蒸し暑い雨季が訪れ、
湿った空気が肌に絡む今日この頃。
空を仰げば、灰色の厚い雲が空を覆い、
いつ雨が降り出してもおかしくない
重たい雰囲気が漂っていた。
「天気良くないね」
「だね~」
友だちのリディルちゃんと
口を揃えながら下校するモブ子。
(今日は傘持ってきてないから、
途中で雨が降らないといいけど)
「じゃあね!モブ子ちゃん」
「またねー」
河川敷を早足で歩いていると、
モブ子が想いを寄せている同級生の
セバスチャン・フェンリル君の姿を視界に捉えた。
彼は今日も捨てられた子犬の
お世話をしているみたい。
声を掛けようか迷っていると、
突如、荒々しい雨が地面を叩き付け始めた。
「うわ、最悪!」
雨に打たれまいと、
急いで橋の下に避難するモブ子。
突然の来訪者に彼が声をかけた。
「あんたは……」
「あ、どうも……」
川面を激しく打ち付ける
雨粒の音が響く中で黙り込む二人。
ザーザーと滝のように降る雨を
興味津々で眺める子犬。
雨は余計な雑音を振り払い、
まるでこの世界に二人きりで
取り残された気分に陥らせてしまう。
すると子犬がモブ子の足元に近寄ってきて、
遊びに誘うようにじゃれついてきた。
「きゃんきゃん!」
小さなしっぽをふりふりさせる子犬の
愛らしい仕草にモブ子の頬が緩む。
「かわいい……」
「こいつ、あんたに遊んで欲しいみたいだ」
すぐそばで聞こえてくる低い声音に、
胸がドキドキしてしまうモブ子。
「ねえ、この子……ずっとここにいるの?」
「ああ……早く飼い主を見つけてあげないとな」
「あの、だったらさ!うちでこの子飼うよ!」
モブ子の口走った言葉に
目を見開くフェンリル君。
「本当にいいのか?」
「うん。うちの家族みんな犬好きだし、
ね、うちにおいでよ!」
「きゃん!」
頭を撫でながら声をかけると、
子犬は嬉しそうに返事をした。
やがて雨は上がり、雲間から光が射し込む。
二人は金色に淡く光る曇天の空を見上げた。
「あんた、名前は?」
「も、モブ崎!モブ崎モブ子です!」
フェンリル君はモブ子を見つめ、
柔らかく微笑んだ。
「ありがとうモブ崎。また明日な」
彼はそう言い残し、
子犬の頭を優しく撫でて去っていった。
「……」
(名前、呼んでもらえた……)
腕の中の子犬をぎゅっと抱きしめながら、
嬉しさに浸るモブ子。
それから彼女は陽気な足取りで
帰路についたのであった。
『街』
「セバスチャン、私お出かけしてきますわ」
「どちらへ?」
「九狼城へ。会いたい方がおりますの」
街の名前を聞いた途端、
セバスチャンは眉をひそめた。
「あそこは治安が良くない、
一人で行くのは危険です。俺も同行します」
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九狼城。
蜂の巣のように建物が密集し、
歪な城塞都市を形作るスラム街。
ここは犯罪と違法薬物の巣窟であり、
不法移民や難民、犯罪者や魔物の血を引く
者たちの格好の隠れ家でもあった。
無数の屋台が軒を連ね、
地底の迷路のような狭い路地からは
ドブや麻薬特有の甘い臭いが立ち昇る。
壁には大量の落書きと
裸婦のポスターが貼られ、
街の灯りには蛾が群がり、
屋台の料理には蝿がたかる。
治安も衛生環境も劣悪だが、
同時に熱気と賑わいに満ちた
下町情緒が色濃く残る刺激的な場所だった。
屋台で買った肉まんを食べながら街を歩く二人。
「久しぶりだな、フェンリル」
突如、荒々しい目つきをした野犬のような
風貌の男が現れセバスチャンに声をかけた。
「ガルム」
「知り合いなのですか」
悪役令嬢が小声で問いかけると、
セバスチャンは僅かに頷く。
「しばらく見ない間に
随分と垢抜けたこった」
ガルムと呼ばれた男は不敵な笑みを
浮かべながら、悪役令嬢に視線を向ける。
「お前の連れからいい匂いがする。
ここの女とは違う上等な香りだ」
男の視線から遮るように
彼女を背後に隠すセバスチャン。
「この方に指一本でも触れれば、お前を殺す」
「ふん、ナイト気取りが」
男はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「なあフェンリル、また一緒に組まないか。
そしたらこの街を俺たちの物にできる」
「お前の話に付き合っている暇はない」
セバスチャンは彼女の手を取り、
すぐさまその場を後にした。
薄暗い路地裏を通り抜けながら、
悪役令嬢は執事に尋ねる。
「あなたはここに
暮らしたことがあるのですか」
「はい、少しの間ですが」
セバスチャンと出会ったのはこの九狼城。
彼はボロボロの姿で路地裏に倒れていたのだ。
揺らめく街の灯りを横目に、
悪役令嬢は控えめにセバスチャンの横顔を仰ぐ。
彼の過去や混沌としたこの街との繋がりを
もっと知りたい。
静かな好奇心が彼女の中で募り始めていた。