優劣感、劣等感
「ありがとう! 君って本当に優しいね!」
ああ、気持ちがいい。
「どうってことないよ。またなにかあればおいで、できる限りのことはするから」
そんな羨望の目で見るのはよしてくれよ。気持ちが高ぶりすぎてどうにかなりそうだ。
「僕もう帰らなくちゃいけないんだけど……」
ああ、その縋るような目。何かを求める目が自分に向けられていることがとても興奮するんだ。
「そうかい、良かったら一緒に帰ってもいいかな?」
「も、もちろんだよ! 嬉しいよ、君から誘ってくれるなんて」
君から、なんてよく言うよ。お前が望んで出させた言葉なのに。
「何を言ってるんだ、私達は”友達”だろ? 当然のことだ」
友達なんて馬鹿げたものになったつもりはないけれど。
「それじゃあ帰ろうか。話は帰り道でもできるからね」
そして私は彼の手をとって教室を出た。
君のその薄紅に染まった頬と耳で私に向けられている感情をたやすく感じることができた。
可哀想に。今まで誰とも関わってこなかったから、こんな経験もないのね。
それもそうよね。少し前までいじめられて、友達もいなくて、誰にも相手にされなくて、本当に可愛そうな人生よね。
だからこそ、こうやって私があなたに目をかけているのだけれど。
「でね、そうしたら今日谷屋くんがクラスで〜」
「ふふ、そうなのね」
こうやって適当に相槌を返すだけで勝手に喋って、勝手に好感度を上げてくれる。
こんな簡単に好かれるなんて、今まで本当に誰にも相手にされなかったのね。可哀想に。
「そういえばさ、君って兄弟は居るの? 君と友達になってからいろんな人とかいろんなことを聞いているけど家族の話だけは聞いたことがないと思うんだよね」
「なんの変哲もない普通の家庭さ。それ以上でもそれ以外でもない」
「そ、そっか」
”家族”そのワードを聞いて思わず強く言葉が出てきてしまった。あいつはそれに対して少し戸惑ったように返事をして、そのまま黙り込んでしまった。
……あいつらの話をする、お前が悪いんだ。あんなやつら家族なんかじゃない。
「私の家族よりもさ、君の家族の話を聞かせてくれよ」
この沈黙を破るために私は話題を振った。…まあ彼の家庭環境はあまり良くはないと聞いている。
いや、端から見たら良い家庭と言えるのだろうが彼に限ってはそうではない。
「僕の家族…? 僕の家族かぁ。僕の家族は自慢じゃないけどおじいさんの代から全員医者の一族なんだ。だからみんな優秀で、両親も医者で姉と兄も今は国立のトップの大学の医学部なんだ。
弟も良いところの私立中学校に入学したんだ」
聞いた通りのエリート一家だ。
「すごいんだね。君が成績が良いのも納得だ」
「そんなことないよ……、僕は落ちこぼれだから。家でいつも言われているんだ。家においてくれてるのが奇跡みたいなものだよ」
ヘラリと笑ってそう言い始めたが、言い終わる頃には顔から笑みが消え、うつむいて拳を握って居るのが見えた。
だから私は立ち止り、彼の手を取って
「そんなことないよ、君が落ちこぼれなんてことは絶対ない。だって君は今まで頑張ってきたのでしょう?」
そうやっていってやると、彼は顔を上げて少しうるんだ目を私に向けている。その目はさっきと同じ目をしている。
何かを望んでいる目。私に言ってほしい言葉があるんでしょう?
「そ、そうだけど、でも僕は」
「大丈夫だよ。君は落ちこぼれなんかじゃない。今まで頑張ってきた君が落ちこぼれなはずないじゃない」
まあ、成績が底辺の君に本当にできるとは思っていないけれど。
それでもほら、目の色に少し希望が走り始めている。本当に身の程知らずね。
まあそれでも、ほんとうに気持ちが良いわ。そうやって私に願いを込めて、私の存在をありがたがれば良いのよ。
「それに、今からでもどうにかなるわよ。……一緒に頑張って、みんなを見返してやりましょう? 大丈夫、君ならできる!」
今まで溜まっていた涙が瞳からこぼれ落ちていく。その涙は流れるほどに勢いをましていって頬を伝う。
私はすかさずポケットからハンカチを出して彼の涙を優しく拭った。
……可哀想に、こんなに心のこもってない嘘を信じて泣いて。
「本当にごめん、君にこんな迷惑をかけてしまって。ハンカチもごめん。洗って返すよ」
ひとしきり泣き、少し落ち着いたあとも涙の余韻が残っているようなのでハンカチを渡し、彼の背中をさすりながら再び帰路についた。
そして彼の家の前で彼を見送ろうとしたとき、彼はそう言って一度私の手に帰ってきたハンカチを優しくとった。
「そんな、大丈夫だよ」
その時、何故か彼の目を見ることができなかった。見たくはなかった。
だから私は彼の手からハンカチを奪い返すことなく、一人で帰路についた。
私の中には先程まであったあの優越感なんてものはなく、ただただ形容し難い虚しさがあるだけだった。
「…ただいま」
「あら、おかえりなさい。今日は遅かったのね、何をしていたの? ……まさか」
「図書館で勉強していただけだよ。お母さんが心配するようなことするわけないじゃない」
気持ち悪い。
「そうよね……、安心したわ。あなたはあの子のようになってはいけませんからね」
「わかってるよ」
心配しなくても、あんなやつみたいにはならないさ。
「さ、ご飯を食べて。もうこんな時間ですからね」
「うん」
家に返る途端に重くなった足を一歩一歩進めてリビングへと足を進めた。
「いただきます」
無言で箸を進めていく。料理以外に何も見ないし、何も喋らない。見れば見るほど、喋れば喋るほど私が惨めになっていくから。
「ねえ、見てくれないかしら」
ああ、さいっあく。
「このトロフィー、すごいと思わない? またあの子が獲ってきたのよ!」
そのトロフィーは嫌味なほど眩しかった。その輝きはただの光の反射以外の光を放っているような気がしてとても嫌だった。
その光を見たくなくて目をそらした。反らした目の先に合ったのは、おびただしい数の賞状とメダルとトロフィー。
あれもこれも全て、弟のもの。
ああ、胸がざわつく。苦しい。気持ちが悪い。
「それに比べてあなた達は…、違うのよ? 別にあなたを見限っているわけではなくて」
そうやって表向きだけを良くするあなたが本当に嫌い。
もう話を聞きたくなくて、ご飯をかきこんで部屋に逃げた。
「本当にくだらないわ」
全部、全部。
今日はなかなか良かった。いつもい以上に私を満たしてくれた。クラスメイトは相変わらず私を羨望と憧れの目で私に接してきた。
彼だってそうだ。今日は特に私を特別にしてくれていた。
……だけれど、最後のあれだけが、どうしても気になった。気がかりだったんだ。
「君って空っぽだね」
「…どうしてそう思ったの?」
放課後、突然私にそういったのは一月ほど前に転校してきた男子だ。一ヶ月だ、たった一ヶ月。たった一ヶ月でこいつはクラスの中心人物になった。
そのお陰で私の立場が弱くなった。あいつも、最近こいつと話している。私はどうしてもこいつが嫌いだった。
「うーん、なんていうかさ楽しくなさそうじゃん。いっつも作り笑いで、他人に媚びてる? っていうんかな。なんか自分がないっていうか」
「そんなことないよ。いつも楽しいし、媚びているつもりもないしね。自分の好きなことをしているからね」
心のそこから出ている嫌悪感を抑え込んでなんとか返事をした。
「ふーん、そっか。まあ良いけどさ、でもそのまんまだと」
「おい、何してんだよ。今日ゲーセン行く約束だろ。早く来いよ」
「おーわりー。っておい引っ張んなって! それじゃあ行くから」
「ええ、さようなら」
またな! となんとも輝かしい笑顔を放って連れて行かれるアイツをなんとなく見ていた。
あの裏表のなさそうな性格、天性の輝き、類まれない才能のひとつだと思う。あいつがいると私が霞む。私という存在も、私の心も。
私の脆い心の支えが、ゆらいでいく。
「馬鹿みたい。あいつも、あいつに群がるやつらも。みんな私を崇めていればいいのに」
ボソリと言った私の言葉は、誰の耳に入ることなく空気に溶けていった。
最近私と一緒に帰ることがなくなったあいつの席を軽くにらみつけて、帰路へとついた。
しばらくして、テストの結果が帰ってきた。
結果は、学年二位。二位。そう、二位だ。私が二番目。
「ねえ、聞いてくれよ! ぼくついにやったんだ!」
「おお、いつにもまして元気だな。っておいお前すごいな! 学年一位って……、やばすぎだろ!」
聞こえたその会話に勢いよく顔をあげた。その声はあいつと、あの転校生の声だった。
学年一位? あいつが? 私があいつより、下?
「僕報告しなくちゃ!」
「報告って、誰に?」
「僕のことを応援してくれている子が居るんだ! 僕が自信をなくしていた時もずっとそばに居てくれたんだ!」
二人が近づいて来る。でも、今の私はそんなのが気にならないほど混乱していた。
「ねえ、聞いてくれよ!」
その言葉で意識が再び覚醒した。
「な、なに? なにかいいことでもあった?」
私がそう聞くと彼は嬉しそうに私に自慢を始めた。
「僕、ついに学年一位になれたんだ! これを見てよ!」
そういって私に今までのテストの結果と、今回のテストの結果が記載されている紙をこちらに見せてきた。
私がその紙を見ている時ですら、彼は自分の努力を語っていた。
320位、125位、32位、10位、3位、……1位。
その字を見た時、私の心の何かがこぼれ落ちた。
そしてそれと同時にこいつの声が耳障りでしょうがなくなった。
「……るさい」
「え?」
「うるさい!!」
気がついたときにはそう叫んでいた。
だって、だっておかしいじゃない。私が上でこいつが下。それが当然のことでしょう?
なのになのになのになのに……。なんでこいつが一番なの?
「ねえ、大丈夫? どうかした?」
あいつはそういって私に手を伸ばしてきた。私にはその手がとてもおどろおどろしく見えて、とても恐ろしく見えて。
だから私はその手を振り払った。
クラスの連中の視線が私に突き刺さるのに気がついた。
「どうしたこうもないわよ……。なんで、なんであんたが上なのよ? どうしてあんたが上にいる!? そこにいるのは私だろ。どうしてお前がそこにいるんだ!」
気がついたときにはもう遅かった。
私の心に流れるこのどろどろしたなにかは私の脳みそを支配して、私の思考を鈍化させる。痛い、痛い、苦しい、怖い、痛い、つらい、かな、しい。
「お前の、せいだ」
「ど、どうしたの? なんか、変だよ」
変? 私が変? 違う私はおかしくなんてない。普通だ、いや違う。普通以上だ。私は特別なんだ。
私は人より上なんだ。だから、私はこんなやつに負けたらだめなんだ!
「お前が私を軽蔑するな!」
「君を軽蔑なんてしていないよ!」
「いいやしてるね。そうやって一位をひけらかして。私を下に見ているんだろう? なあ、どうしてお前が私の上に居る? お前は私の下にいる人間だろ。
家で見向きもさあれないグズが私の前に立つなよ!」
「……え?」
その時、私の頭がサーッと冷めた。
やってしまった。周りの目線が軽蔑の眼差しになったのを肌でジリジリと感じた。痛い。とても痛い。
その時ふと目に入って来たのは、あいつの悲しそうな顔だった。その瞬間何故か居た堪れない気分になって、私は教室から飛び出した。
あの教室に、私の居場所などなかった。
私は私の足の赴くまま逃げ続けた。いつの間には私は屋上の扉の前まで来ていた。
人が屋上に行きたがるのはなぜだろう? アニメや漫画に出てくるから? 憧れ? ……学校という空間で、一番空に近いから?
ガチャガチャッ
扉は開かなかった。それはそうか。屋上は元々立入禁止だし。
「大丈夫?」
後ろから、声をかけられた。
「可哀想に、こんなに乱れちゃって。君らしくないね」
君らしい、ね。ちょっと前に君は空っぽだといった人のセリフとは思えないね。
「なによ。なにか用事でも?」
「大したことではないさ。ただ僕は、やっと君らしい君を見ることができたなと思ってね」
「初めて見たときからずっと思っていたんだ。君みたいな人は初めてだってね。君みたいに、劣等感にまみれた人間はね」
劣等感? 私が、劣等感にまみれている?
「私が劣等感にまみれている?」
「そうさ。だからああやってアイツのことを見下して、情けをかけてやったんだろう。クラスのみんなにも同じように」
「まあ、それもたった今崩れちゃったんだけど」
「可哀想に。ずっと見下してたやつに抜かされて、自分の嫌いな人間がクラスの中心になって、もう君の中になにが残っていると言うんだ?」
こいつの言っていることが頭の中をぐちゃぐちゃと駆け回る。
胸がざわついて、苦しい。痛い、涙が出そうなほど今までに感じたことのない何か私の心をうごめいている。
「なあ、君は知っているか? これが、劣等感だ」
今までの優越感が幸せなほど、今の劣等感が刺激されるだろ?
やりたいこと
「ねえ、あなたのやりたいことはなあに?」
突然彼女にそう聞かれた。そんなことを僕に聞いてもしょうがないのに。
「……」
僕は言葉を発さなかった。いや、発せなかった。僕の声はとうに機能を休止している。僕自身は二度と自分が声を出せるときなんてものは来ないと思っているが、それを彼女に言ったらすごく悲しそうな顔をされたので『休止』と表現している。
それにしても、どうして彼女は僕に話を振るのだろうか。僕は声が出せないのに。それに僕は声が出ようが出まいが彼女の話を聞いているのが好きなのに。
「うーん、やっぱり話してくれないかぁ。え、意識はあるよね?」
何を言っているのだか、在るに決まっているだろうに。僕が自分の足であなたの場所まで来て、ここに座ってあなたの話を聞いているのは紛れもないぼくだというのに。
僕は浅くうなずく。
「あ、よかった生きてた。まあ、君が話せないのだから私が喋ろうではないか!」
最初からそのつもりだったろう白々しい。
「やっぱさ、私はもうすぐ高校三年生じゃんか。そろそろ進路本格的にしなきゃじゃん? だから結構調べたんだよね〜。でさ、やっぱ女子のあこがれといえばさ……」
ウエディングプランナーとかか? この人以外とセンスあるからな。意外と考えてんだなこの人。
「お嫁さんとか!?」
前言撤回、ただのアホだ。何が『結構調べた』だよ。お嫁さんって、いや別にお嫁さんはいいんだけど進路お嫁さんって馬鹿か。この人の将来が今から心配でしょうがない。
「ちょっと、何よその顔! あ! わかった、さては私のことバカにしてるね!」
どうやら顔にでていたらしい。まあ馬鹿にしていたのも呆れ顔をしていたのも事実である。
「なによもう、いいじゃない別に……。あ!」
彼女はいじけたまま壁にかけてある時計を見ると、今までむすくれていたことを忘れて焦りだした。
「もう塾の時間過ぎてる、行かないと! じゃあね、また明日!」
そう言って彼女は出口のドアを開ける。……いや、ココに来る暇があるなら勉強してくれ。
そのまま彼女が出ていくのを見守ろうとしたとき、
「あ、もし私が結婚できなかったら君が私をもらってよね!」
……は? ま、まぁ冗談だろ。うん、そうだそうに違いない。彼女にはそういうところが多々あるからな、うんそういうことにしよう。どうせ彼女も次来るときには今のことなんて忘れているに違いない。
そう思って僕はあの人の言葉を僕の中で完結させた。
でも帰り際に言われて混乱していたものだから、僕は彼女の服の隙間から見えた傷について言及するのを忘れてしまっていたんだ。
そこからしばらく、彼女がココに来ることはなかった。
声が、聞こえてくる。
「あんたって本当になんで生きてるの? 勉強もできなければ運動もできやしない。本当に我が家の穀潰しね。顔もあの女に似ていやらしい顔。ああ本当に嫌だわ、早くどこかに行ってくれないかしら」
うるさい。
「本当に何もできないのねあなた。はぁ、頼んだ私が馬鹿だったわ」
ごめんなさい。
「本当につまらないよね。ねえみんな、あっち行って遊ぼう! あんたはもうこっちこないでよ」
ごめんね。
「ねえ、あの子1組の早瀬くんに仕掛けてるらしいよ」
「え、ヤバすぎ。確か早瀬くんって彼女いたよね。うわ最悪。いくら顔がいいからってさ、人の男誘惑すんなよ」
そんなことしてないのに。
「ねえ、なんであんたなんかだ生きてるの? 本当に邪魔なんだけど。能無しの無能の役立たずがさ、ほんとに生きてる価値なんてお前にあるの」
うるさい。やめてよ。
「ほんとに、あの子とは大違いだよね」
うるさい、あいつと比べるな。
「アハハハ、ほんとにあんたなんて」「あなたなんて」「お前なんて」
「さっさといなくなればいいのに」
ねえ、私がなにかした?
「……あの子だけは私を否定しなかったのよね」
何も言わずに私だけを見るあの瞳、何も映していないように見えるあの瞳の中に確実に私は居た。
「ちょっと明るくしてみせただけなのに、すぐに騙されちゃうんだから」
どこにいっても聞こえるうっとおしい声を聞きたくなくて、なんとなく入った教室にあの子は居た。部外者をうっとおしがるあの顰めた顔を今でも覚えている。
でも、それよりも鮮明に覚えているのは瞳だ。光すら映さない真っ黒な瞳。とても美しいと思った、それと同時にそれを壊してしまいたいとも思った。
だから明るくてちょっと間抜けな、でもどこか惹かれる女の子を演じた。あの子みたいに、あの子がみんなに好かれているから。だから私はあの子を演じた。
「最後まで、私は独りか」
空は曇天だ。こんな時も空は私を照らしてはくれない。何もかもが私の味方をしてくれはしない。
「……来て、くれないかなぁ」
ボソリと、口から漏れた私の本音。久しぶりだった、自分の言葉を口に出すのは。もうずっとやめてしまっていたことだから。言っても無駄だったから。
「ま、来るわけ無いか。……そろそろいこうかな」
ガチャッ
その時、不意に心臓が跳ね上がった。少しの不安と大きな期待。振り返りたいけれど、振り返りたくない。けれど振り返らなかれば物語は続開しない。
私は振り返った。あの子と接するときの女の子の顔で。いやしいあの女ではなく、あの可愛らしい女の子の顔で。
「……」
無言の君は初めて出会ったときと同じ、顰めた顔でこちらを見ていた。あのときと違っている点が在るのならば、その瞳に私が映っていて、その顰め面がうっとうしさからくるものではないことだろう。
「久しぶりだね。……元気だった?」
「……」
いつもどおり、一言も喋らない。
「なんでこんなとこ居るのかが気になる? 一人で屋上のフェンスの向こう側にいるんだよ? 察してよ」
更に顔を顰めた。
段々と風が激しくなってきた。大きな音を出して吹く風は私とあの子の間に吹いている。
「相変わらず、君は何も言わないんだね」
そんな、泣きそうな顔で見ないでよ。
ああ、そうか
「わたしのせいか」
ふふ、本当にバカみたい。自分であの子をそういうふうにしたのにね。
「ねえ、やりたいことは見つかった? っていっても、そんな簡単に見つかるわけないか」
あ、涙が落ちた。
「いつか見つかるといいね。やりたいこと」
願わくば君のやりたいことが
「そろそろお別れだね」
私を救うことになったらいいな。
「See you」
……なんてねっ。
月に願いを
「何を祈っているんだい? そんなに必死に」
「何を、祈っていると思う?」
一人の女性がこの荒廃とした世界の上でなにかに祈っている。
その横には一人の男性。
「それは…いささか無意味な問題ではないか? …まあ、僕の君の問いに対して考えを巡らす実に滑稽でゆにぃくな姿を見たいのならば話は別だがな」
男はふんぞり返ったように鼻で笑いながら女にそういった。
「そう卑屈になるな。……まあ、そんなお前のままなら、私のこの行動の意味は一生わかるまいな」
と、女は男を見上げてそういった。
「私は世界を救うぞ。皆のために」
男をみる女の目は、実に勇ましく、猛々しいまるで英雄の光り輝くあの希望に満ち満ちた強い瞳だった。
なにかに祈る必要なんてないような人間のように見えた。
「ふん、そんなバカみたいなことを言うようなやつがなにかに祈っていてどうする。……祈ることは弱者にのみ許された行為だ。今のお前がするべきことではない」
「私は祈っていたのではないよ。……これ以上話してもしかたがあるまい。そろそろ行くとするよ」
女は男に背を向けて歩き出した。
男も女も、もう二度と見ることはなかった。
「月に願いを込めていたって何にもならないだろう。どうしてそこまでしてただの物体に対して願いを込めるというのだ」
男の独り言は月明かりの照らす静寂に、木霊すること無く消えていった。
「そんなものに願うのなら……」
そんな男の願いもまた、その空気に木霊することはなく、或るかもわからないものには届かない。
My Heart
「本当に入れんのか? まあ、胸ならなかなか見えることはねえと思うが」
刺青師にそう聞かれた。
「はい、大丈夫です。早くお願いいします」
「そうか。…始めるぞ」
ああ、これでやっと僕の体にも心がある。僕にも心があることになるんだ。
「終わったぞ」
「ありがとうごさいました」
「本当に後悔はないのか」
「そんなもの、あるわけないじゃないですか」
胸から少しの痛みはあるものの今の僕の興奮からか、大した痛みは感じなかった。
僕はついにこれが僕の体に刻まれた満足感で満たせれ、今までの苦痛を思い出していた。今ではあの頃もどうでも良くなってくる。乗り越えた気がする。
僕は昔から感情の起伏が限りなくゼロだった。小さい頃から泣くことはほとんど無く、笑うことも、怒ることも、悲しむことも、苛立つことも、恋による感情の昂ぶりも、何もなかった。
そのせいで幼稚園・小中学校は気味が悪いと言われ、「すまし顔が腹立つ」と言われいじめを受けた。こいつは何も感じないから何をやってもいい。あいつらはいつもそう言っていた。あいつらもバカではなかったから、後が残るものは服で見えない部分だけにされた。それ以外のいじめは正直あからさまで普通に生きていた人間ならわかるはずだ。それなのに学校の先生は絶対に注意することはなかった。
それに、両親も僕に冷たかった。まあそれはそうか、小さい頃から全く泣かず、喜んではしゃぐことはない。かつ、それを不審に思って病院に行ってもどこの医者も「異常なし」だった。僕の家はお金だけはあったから、本当に色々な病院施設をまわった。それでも、結果は出なかった。
何かしら僕に異常があった方がまだ僕の人生はマシだったかもしれないと思っている。両親もそう思っていたことだろう。この僕の異常が病気である方が安心しただろうと思っている。人間は不確定なものを怖がるから。
僕が病気でも何でもないとわかった頃、両親の仲がさらに悪くなった。原因は十中八九僕だった。「お前の教育が悪い」だの、「貴方が私達をほったらかしにするのが悪い」だの、
そんな喧嘩をご丁寧に僕の前に毎日のようにやっていた。そんな最悪な状況の中、妹が生まれた。
そこから家族の状況は一気に良くなった。僕を除いた僕の家族が、だ。
僕の妹はよく泣き、よく笑い、よく悲しみ、よく喜ぶ、そんな子だった。まるで僕の分の感情を持って生まれた、僕の落とした感情を全て拾って生まれてきたといってもおかしくない程、感情が大きく動く子だった。
そんな妹は両親にすごくすごく、それはそれは可愛がられた。僕の分の愛を注げられているようにも見えた。
そして、僕の両親からの愛と関心が完全になくなった。愛はもはや最初からなかったかもしれない。
だから、僕がいじめられて傷だらけになっても気が付かなかったんだろうね。
「あはは、本当に悲惨な人生。うけんね」
誰も居ない部屋で一人何もせず、ただただ惰性を謳歌する。僕は高校進学と同時に家を追い出された。追い出されたと言っても、お金は毎日振り込まれるし、家賃も払ってもらっている。きっと、あの家族の中で僕は邪魔者だったんだろう。
自分の胸に手をあてる。…うん、僕の心は動いている。
あの刺青師の顔、あの顔はなんだったのだろう。今まで僕はあんな顔見たことはなかった。
これまで僕に向けられた顔にあんな表情を向けられたことはなかった。いつも僕に向けられる表情は、侮蔑や軽蔑、同情、苛立ち、恐怖、嫌悪、罪悪感、…悲しみ。
そうだ、彼の表情は悲しみの顔に似ていた。あの時の母親と、同じ顔。そうか、悲しかったのか。彼は悲しかったのか。でもどうして? …わからない。それに彼の顔には悲しさ以外の何かがあった、気がした。まあどういいか、別に。僕には関係ないし。
「はあ、明日学校に行かなくちゃ…。嫌だなぁ」
高校は今までとは違って僕をいじめる人間は居なかった。だれも僕を見てはいなかった。
僕のもともとない心が凍った感じがした。
そんな僕のターニングポイントになったのは一人の女の子だった。運命だと思った。
彼女を見た瞬間、僕の心が、その時をもって誕生したんだ。その瞬間から僕の人生は始まるんだ、そんな気分にすらなった。
このときから僕の心はここに存在したんだ。この、入れ墨をいれたここに。確かに存在しているんだ。
彼女に振られるまでは。
僕は彼女にすぐにコンタクトを取りに行った。僕は人と話した経験がまともになかったから、本当にひどい有様だったと思う。普段話さないから声もガサガサ、目をまともにあわすことは出来ない、すぐにどもってモジモジしてしまったり、見た目に気を使うなんてことはしたことはなかったから髪はボサボサで、本当に酷かったと思う。
実際に、彼女のすぐ横に居た女の子は僕を見てギョッとしていた。
でも、彼女は違った。彼女はこんな僕に対して優しく接してくれた。しかも名前も覚えていてくれたんだ。そして彼女は「ずっと話してみたかった」って僕に言ったんだ。
僕はとても嬉しかった。こんな僕にこんな風に接してくれる人間は初めてだったんだ。
そこから僕は変わった。まずは髪を切りに行ったんだ。本当は人に髪を切ってもらうなんてことは怖かったけど、彼女のために勇気を出して行ったんだ。
でも思っていたより怖くはなくて、僕は少し自信がついたんだ。そして会話をもっとちゃんと出来るようにするために会話の練習を始めたんだ。一人で会話をすることが出来ないから、ぬいぐるみを買って。彼女の名前をつけて毎日会話をしたんだ。おかげでそれなりに会話が出来るようになった気がした。
その他にの色々、自分磨き?をした。僕がそうやって色々やっている間も、彼女は僕とお話をしてくれたんだ。髪を切った後に会いに行けば、かっこいいと褒めてくれた。
僕が新しいことに挑戦すれば応援し、出来るようになれば褒めてくれた。それだけでも嬉しかったのに、彼女は僕に色々なことを教えてくれたんだ。
勉強や言葉使いや、寄り道なんかも教えてくれた。僕は今まで学校と病院以外に外に出ることはなかったから、毎日が新しいの連続だった。周りの目が少し鋭くなった気がしたけれど、そんなことが気にならないくらいには毎日充実していたんだ。それに、周りの目が鋭い気がするといっても、彼女のクラスの人達は僕に優しくするようになったんだ。
でも、そんな日々は長くは続かなかった。
僕はしばらく経った後、彼女に告白をしようとしたんだ。彼女が教えてくれた本を読んだんだ。彼女の教えてくれた本は、好きになった相手に告白をして付き合うというという本だった。恋愛小説? というジャンルの本らしい。
好きという感情はよくわからなかった。だけど僕はきっと彼女が好きなんだと思った。だから、告白しようと思った。
だから彼女との約束を破って、彼女に会いに行ったんだ。
「私から君に会いにいくから、君は私を待ってて。君は私を呼びに来ないでね」
これが僕と彼女の約束だった。この彼女の会いに行く時間とは放課後のことだった。でも、僕はお昼休みに彼女に会いに行ったんだ。
僕は彼女と「放課後デート」をしてみたかったんだ。告白は大事な、一大事なことだって学んだから、髪の毛もセットした。
彼女のいる教室に近づくにつれ、彼女と彼女の友達のよく通る声が少しづつ聞こえてきた。
僕の心は抑えきれないくらい、飛び出しそうなくらい動いていた。
彼女たちが何を話しているか聞こえるくらいの距離になった。
そこで聞こえてきたのは信じれられない言葉たちだった。
「てかさ、あんたまだあいつのこと連れ回してんの?」
「当たり前じゃーん。てか、本番はこれからだしぃ。みんなもありがとねー、うちの遊びに付き合ってくれてぇ」
あいつ? 遊び? なんだろうか。
僕は彼女の教室のちょっと前で立ち止まった。
「別に良いってことよ。だけど、なんか面白いことあったら共有してよね〜?」
「それな!」
クラスの誰かがそういった。
「実際まじであいつちょろいんだよねぇ。最初話しかけられたときはびっくりしたんだけどさ、あいつん家金持ちなこと咄嗟に思い出してさぁ」
「あー確かそうだったよな」
「そうそう。だから仲良くしておこーって思ってさ。そしたらもうびっくりよ。あいつ、私になんでも奢ってくれんの。あいつあたしにほれてるかもねー」
「まじかよ、うらやま」
「あんたには無理よ。だっけあんた中学の頃のいじめの主犯格じゃん。ばれるって」
いじめ、中学、その言葉が僕の頭を通過した。
「まじかー。てかあんたなんでバレてないわけ?」
「あたし親のあれで苗字変わってからさ。あいつの前で喋ったこととかほぼないしー。いっつも下向いてたから顔もロクに見らられてなかったかんねー」
僕は気がついたら、彼女のクラスのドアに手をかけていた。
「それでさー…」
「ねえ、どういうことなの? 今の話」
「は? 今の話ってそりゃあ、あの大まぬけの…ってあれ。なんでここにいんの?」
「なんでって、今はそんなことどうでもいいでしょ…? ねえ、どうして? 僕のことを…騙してたの?」
僕がそういった瞬間、彼女のクラスの人が僕を嘲笑った。
「ウケる、逆に今まで気がついてなかったんだぁ。そうだよあんたが金持ちだって知ってたからさ、だからわざわざお前みたいな気味が悪い怪物に対してあんなに優しくしてやってたの」
僕の心が、さめていく気がした。
「やばっ、全部いっちゃってんじゃーん」
「いいのいいの。そろそろめんどくなってきてたし。次のカモに変えよかなって思ってたとこだしねー」
「ねえ、…ねえ!」
僕が大声を出して話しかけると彼女は僕をうざそうに見た。
「え、まだ居たの? 何? 何の用? てかその髪型ウケるんだけど。何? そんな決めちゃってさ。あ、まさか告白!? 私に? …ウケる、まさかとは思ったけどほんとにあたしに惚れてたんだねー。かわいそ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は彼女のクラスを飛び出した。
そしてそのまま衝動のまま、入れ墨を入れにいった。
彼女によって誕生した僕の心が、死んでしまうような気がして。
だから、死ぬ前に、僕の心を僕に留めて置きたくて。
だから僕は、胸に僕の心、「My Heart」を刻んだんだ。
はあ、学校のために早く寝なきゃ。
好きじゃないのに
ねえ、私のこと好きじゃないのにどうして貴方は私を抱きしめるの?
どうしてなの? 貴方のその瞳が手つきが話す言葉が、私のためのものだなんて。
やめてよ。お願い、やめて。だって私は貴方のことを…
コーヒーの匂いと、物音で目が覚めた。
「起きたのか、おはよう。調子はどうだい?」
ああ、そうか。昨日は彼との日だったか。
「…最悪よ。起きてすぐに見るのが貴方だなんて」
「そう言うなって。僕達は昨日熱い夜を共にした仲だろ?」
「やめて、気持ちが悪い」
始まりは三ヶ月だか四ヶ月だったか、そのくらい。本当に偶然だった、たまたま一人で行った居酒屋に会社の同僚である彼が居て、飲みすぎて、そのまま。
だけれど、こんな関係だこんなにも長く続くなんて誰が考えただろうか。本当に彼が独身で彼女もいないことに感謝している。浮気相手なんてものになるのは死んでもごめんだ。
「はぁ…」
彼に聞こえない程度の大きさでため息をついた。
「君もコーヒー、飲む?」
「お願い」
彼はキッチンへと向かった。
今日も仕事がある、早く準備をにしければ。ひとまず顔を洗うために洗面所に向かう。
もう言わずとも家の構造がわかって、いちいち借りると言わなくていいほど、何度もこの家に来ている。
最初は、少しだけ嬉しかった。私は彼が好きだったからだ。好きな彼と長い夜を共にすることが出来て、彼と共に眠りにつくことが出来て、彼の顔を朝一番で見ることが出来て、
彼との二人だけの秘密が出来た気がして。
…でもそんな気持ちも最初だけだった。
彼にとって私はただの『都合の良い女』であって、そこに情なんてものは存在しないのだから。
私はそれに気がついた時、一人で長い間泣いていた。横で寝ている彼にバレないように、ひっそりと。
その後、しばらくは思ったように元気が出なくて上司が私に休日をくれた。それほど私は酷かったらしい。
それだけ、彼に対する私の気持ちは大きくて重かった。
顔を洗うだけにしようと思ったが、ついでに軽くメイクをした。彼が淹れたコーヒーを飲みにリビングへと行く。
「ああ、来たね。メイクをしていると思って丁度コーヒーを淹れ直したところだよ」
「そう、ありがとう」
ソファに座っている彼の隣に距離を空けて座る。
その間が埋まることはない。私が彼の気持ちに気づいたときから、私は彼のそばにいるのをやめた。私が空けた距離を彼は縮めようとはしない、それが彼の気持ちをありありと表しているだろう。
「そういえば、今日はふたりとも午前休だろ? 今メイクをする必要があったか?」
彼は離れた位置から私の頬を撫でる。彼はいつもそうだ。お互いの体が触れ合わない位置で、こういうスキンシップを行う。本当に狡い人だと思う。こうやって絶妙な距離感を保って私を自分から離れていかないようにしている。私は彼に見えない鎖で繋がれているようだった。
「別に、すぐにここを出るから。貴方と長い間一緒にいるなんて無理」
彼に溺れないように、これ以上私が虚しくならないように、また好きになってしまわないように、そのために私は彼に冷たく当たる。
彼が私のことを好いていないと気がついた瞬間から私はそうしていた。急に冷たくなった私に対して、彼が私に指摘をすることはなかった。
「はは、そうかい。で、もうすぐに出るのかい? せめて朝食ぐらいは食べていきなよ」
「気持ちだけ頂戴するわ」
「いいじゃないか、食べていきな。簡単なものだけどさ。…というか、もう用意してあるんだよね。だから食べて」
「…そうね、いただくわ」
こうやって私はいつも彼から離れられない。
「ごちそうさま」
彼の作った朝食は相変わらず美味しかった。
「皿、こっちに下げてくれ。…なあ、次は一週間後の今日と同じ時間でいいか?」
ああ、断らなければ…、本当は断るべきなのに。
「ええ、大丈夫よ。それじゃあ、そろそろ行くわ」
「ああ。また会社で」
それだけの会話をして、玄関で靴を履いて扉を開ける。
「ねえ、」
「何? なにかあった?」
「…いいえ、何も。それじゃあ」
ガチャン
彼の『いってらっしゃい』の代わりに、私の耳には無機質な扉の閉じる音だけが響いた。
ああ、本当にここには居たくない。
…もう、やめにしようこんな関係。来週彼に言おう。
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「お疲れ。先に上がるわね」
「お疲れさまです、先輩!」
今日の仕事が終わり、無事定時で退社が出来た。
午前休みで定時帰りは少し罪悪感があるけど。いいわよね、別に。
ああ、でも少し気分があがるわね。最近は残業続きだったしね。
「よかったら、駅まで一緒に行かないか?」
上がった気分が一気に下がった。
ああ、この人はどこまで人の心を揺さぶるのか。
「はぁ…」
小さくため息をつく。
でも、ここはまだ会社の中。ここで断るのは少しためらわれるわね…。しょうがない、か。
「良いわよ。さっさと帰りましょう」
二人で駅までの帰り道を歩く。そこに会話はない。
…本当は来週言うつもりだったのだけれど、今言ってしまおうかしら。
「ねぇ、話があるわ」
歩いていたところを立ち止まり、私は彼にそう言った。
「話?」
彼も立ち止まる。
「ええ。…もうやめにしない? こんな関係」
「…どうして?」
彼の顔が見れない。
「もう限界なの。ねえ、貴方私の気持ちに気づいていた? ねぇ、私がどうして何度も貴方と共に夜を過ごしたかわかる?」
「…さあね。この話は本当に必要なことなのか?」
彼はこの関係を変えることを望んではいないようだ。でも、もうそんなことは関係ない。
「必要なことなのよ。ねえ、貴方は知ってた?私貴方のことが、ずっと好きだったのよ」
「そうだったの、か?」
「ええ、そうよ。貴方は気がついてなかったでしょうね。もし気がついていたら、あんな風な思わせぶりな態度をとるわけないものね」
「すまない」
…謝らないでよ。
「謝る必要はないわ。貴方は私のことが好きじゃない、そうでしょ?」
「…すまない。だが、」
「悪いけれど、もうなのよ。このまま貴方の相手をするにはもう…」
この先の言葉を、私は言うことが出来なかった。
「今まで、ありがとう」
それだけ言って、私は彼を置いて歩き出す。
「待って、待ってくれ」
思わず体がこわばる。だけれど、足は止めず、後ろを振り向きはしない。
ああ、もう私を突き放してよ。お願い、もう無理なのよ。
だって、だってもう、私は貴方のことが好きじゃないのに、
私は彼をずっと前から愛してしまっているのに。