入野 燕

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優劣感、劣等感

「ありがとう! 君って本当に優しいね!」
ああ、気持ちがいい。
「どうってことないよ。またなにかあればおいで、できる限りのことはするから」
そんな羨望の目で見るのはよしてくれよ。気持ちが高ぶりすぎてどうにかなりそうだ。
「僕もう帰らなくちゃいけないんだけど……」
ああ、その縋るような目。何かを求める目が自分に向けられていることがとても興奮するんだ。
「そうかい、良かったら一緒に帰ってもいいかな?」
「も、もちろんだよ! 嬉しいよ、君から誘ってくれるなんて」
君から、なんてよく言うよ。お前が望んで出させた言葉なのに。
「何を言ってるんだ、私達は”友達”だろ? 当然のことだ」
友達なんて馬鹿げたものになったつもりはないけれど。
「それじゃあ帰ろうか。話は帰り道でもできるからね」
そして私は彼の手をとって教室を出た。
君のその薄紅に染まった頬と耳で私に向けられている感情をたやすく感じることができた。
可哀想に。今まで誰とも関わってこなかったから、こんな経験もないのね。
それもそうよね。少し前までいじめられて、友達もいなくて、誰にも相手にされなくて、本当に可愛そうな人生よね。
だからこそ、こうやって私があなたに目をかけているのだけれど。
「でね、そうしたら今日谷屋くんがクラスで〜」
「ふふ、そうなのね」
こうやって適当に相槌を返すだけで勝手に喋って、勝手に好感度を上げてくれる。
こんな簡単に好かれるなんて、今まで本当に誰にも相手にされなかったのね。可哀想に。
「そういえばさ、君って兄弟は居るの? 君と友達になってからいろんな人とかいろんなことを聞いているけど家族の話だけは聞いたことがないと思うんだよね」
「なんの変哲もない普通の家庭さ。それ以上でもそれ以外でもない」
「そ、そっか」
”家族”そのワードを聞いて思わず強く言葉が出てきてしまった。あいつはそれに対して少し戸惑ったように返事をして、そのまま黙り込んでしまった。
……あいつらの話をする、お前が悪いんだ。あんなやつら家族なんかじゃない。
「私の家族よりもさ、君の家族の話を聞かせてくれよ」
この沈黙を破るために私は話題を振った。…まあ彼の家庭環境はあまり良くはないと聞いている。
いや、端から見たら良い家庭と言えるのだろうが彼に限ってはそうではない。
「僕の家族…? 僕の家族かぁ。僕の家族は自慢じゃないけどおじいさんの代から全員医者の一族なんだ。だからみんな優秀で、両親も医者で姉と兄も今は国立のトップの大学の医学部なんだ。
弟も良いところの私立中学校に入学したんだ」
聞いた通りのエリート一家だ。
「すごいんだね。君が成績が良いのも納得だ」
「そんなことないよ……、僕は落ちこぼれだから。家でいつも言われているんだ。家においてくれてるのが奇跡みたいなものだよ」
ヘラリと笑ってそう言い始めたが、言い終わる頃には顔から笑みが消え、うつむいて拳を握って居るのが見えた。
だから私は立ち止り、彼の手を取って
「そんなことないよ、君が落ちこぼれなんてことは絶対ない。だって君は今まで頑張ってきたのでしょう?」
そうやっていってやると、彼は顔を上げて少しうるんだ目を私に向けている。その目はさっきと同じ目をしている。
何かを望んでいる目。私に言ってほしい言葉があるんでしょう?
「そ、そうだけど、でも僕は」
「大丈夫だよ。君は落ちこぼれなんかじゃない。今まで頑張ってきた君が落ちこぼれなはずないじゃない」
まあ、成績が底辺の君に本当にできるとは思っていないけれど。
それでもほら、目の色に少し希望が走り始めている。本当に身の程知らずね。
まあそれでも、ほんとうに気持ちが良いわ。そうやって私に願いを込めて、私の存在をありがたがれば良いのよ。
「それに、今からでもどうにかなるわよ。……一緒に頑張って、みんなを見返してやりましょう? 大丈夫、君ならできる!」
今まで溜まっていた涙が瞳からこぼれ落ちていく。その涙は流れるほどに勢いをましていって頬を伝う。
私はすかさずポケットからハンカチを出して彼の涙を優しく拭った。
……可哀想に、こんなに心のこもってない嘘を信じて泣いて。

「本当にごめん、君にこんな迷惑をかけてしまって。ハンカチもごめん。洗って返すよ」
ひとしきり泣き、少し落ち着いたあとも涙の余韻が残っているようなのでハンカチを渡し、彼の背中をさすりながら再び帰路についた。
そして彼の家の前で彼を見送ろうとしたとき、彼はそう言って一度私の手に帰ってきたハンカチを優しくとった。
「そんな、大丈夫だよ」
その時、何故か彼の目を見ることができなかった。見たくはなかった。
だから私は彼の手からハンカチを奪い返すことなく、一人で帰路についた。
私の中には先程まであったあの優越感なんてものはなく、ただただ形容し難い虚しさがあるだけだった。

「…ただいま」
「あら、おかえりなさい。今日は遅かったのね、何をしていたの? ……まさか」
「図書館で勉強していただけだよ。お母さんが心配するようなことするわけないじゃない」
気持ち悪い。
「そうよね……、安心したわ。あなたはあの子のようになってはいけませんからね」
「わかってるよ」
心配しなくても、あんなやつみたいにはならないさ。
「さ、ご飯を食べて。もうこんな時間ですからね」
「うん」
家に返る途端に重くなった足を一歩一歩進めてリビングへと足を進めた。
「いただきます」
無言で箸を進めていく。料理以外に何も見ないし、何も喋らない。見れば見るほど、喋れば喋るほど私が惨めになっていくから。
「ねえ、見てくれないかしら」
ああ、さいっあく。
「このトロフィー、すごいと思わない? またあの子が獲ってきたのよ!」
そのトロフィーは嫌味なほど眩しかった。その輝きはただの光の反射以外の光を放っているような気がしてとても嫌だった。
その光を見たくなくて目をそらした。反らした目の先に合ったのは、おびただしい数の賞状とメダルとトロフィー。
あれもこれも全て、弟のもの。
ああ、胸がざわつく。苦しい。気持ちが悪い。
「それに比べてあなた達は…、違うのよ? 別にあなたを見限っているわけではなくて」
そうやって表向きだけを良くするあなたが本当に嫌い。
もう話を聞きたくなくて、ご飯をかきこんで部屋に逃げた。
「本当にくだらないわ」
全部、全部。
今日はなかなか良かった。いつもい以上に私を満たしてくれた。クラスメイトは相変わらず私を羨望と憧れの目で私に接してきた。
彼だってそうだ。今日は特に私を特別にしてくれていた。
……だけれど、最後のあれだけが、どうしても気になった。気がかりだったんだ。

「君って空っぽだね」
「…どうしてそう思ったの?」
放課後、突然私にそういったのは一月ほど前に転校してきた男子だ。一ヶ月だ、たった一ヶ月。たった一ヶ月でこいつはクラスの中心人物になった。
そのお陰で私の立場が弱くなった。あいつも、最近こいつと話している。私はどうしてもこいつが嫌いだった。
「うーん、なんていうかさ楽しくなさそうじゃん。いっつも作り笑いで、他人に媚びてる? っていうんかな。なんか自分がないっていうか」
「そんなことないよ。いつも楽しいし、媚びているつもりもないしね。自分の好きなことをしているからね」
心のそこから出ている嫌悪感を抑え込んでなんとか返事をした。
「ふーん、そっか。まあ良いけどさ、でもそのまんまだと」
「おい、何してんだよ。今日ゲーセン行く約束だろ。早く来いよ」
「おーわりー。っておい引っ張んなって! それじゃあ行くから」
「ええ、さようなら」
またな! となんとも輝かしい笑顔を放って連れて行かれるアイツをなんとなく見ていた。
あの裏表のなさそうな性格、天性の輝き、類まれない才能のひとつだと思う。あいつがいると私が霞む。私という存在も、私の心も。
私の脆い心の支えが、ゆらいでいく。
「馬鹿みたい。あいつも、あいつに群がるやつらも。みんな私を崇めていればいいのに」
ボソリと言った私の言葉は、誰の耳に入ることなく空気に溶けていった。
最近私と一緒に帰ることがなくなったあいつの席を軽くにらみつけて、帰路へとついた。

しばらくして、テストの結果が帰ってきた。
結果は、学年二位。二位。そう、二位だ。私が二番目。
「ねえ、聞いてくれよ! ぼくついにやったんだ!」
「おお、いつにもまして元気だな。っておいお前すごいな! 学年一位って……、やばすぎだろ!」
聞こえたその会話に勢いよく顔をあげた。その声はあいつと、あの転校生の声だった。
学年一位? あいつが? 私があいつより、下?
「僕報告しなくちゃ!」
「報告って、誰に?」
「僕のことを応援してくれている子が居るんだ! 僕が自信をなくしていた時もずっとそばに居てくれたんだ!」
二人が近づいて来る。でも、今の私はそんなのが気にならないほど混乱していた。
「ねえ、聞いてくれよ!」
その言葉で意識が再び覚醒した。
「な、なに? なにかいいことでもあった?」
私がそう聞くと彼は嬉しそうに私に自慢を始めた。
「僕、ついに学年一位になれたんだ! これを見てよ!」
そういって私に今までのテストの結果と、今回のテストの結果が記載されている紙をこちらに見せてきた。
私がその紙を見ている時ですら、彼は自分の努力を語っていた。
320位、125位、32位、10位、3位、……1位。
その字を見た時、私の心の何かがこぼれ落ちた。
そしてそれと同時にこいつの声が耳障りでしょうがなくなった。
「……るさい」
「え?」
「うるさい!!」
気がついたときにはそう叫んでいた。
だって、だっておかしいじゃない。私が上でこいつが下。それが当然のことでしょう?
なのになのになのになのに……。なんでこいつが一番なの?
「ねえ、大丈夫? どうかした?」
あいつはそういって私に手を伸ばしてきた。私にはその手がとてもおどろおどろしく見えて、とても恐ろしく見えて。
だから私はその手を振り払った。
クラスの連中の視線が私に突き刺さるのに気がついた。
「どうしたこうもないわよ……。なんで、なんであんたが上なのよ? どうしてあんたが上にいる!? そこにいるのは私だろ。どうしてお前がそこにいるんだ!」
気がついたときにはもう遅かった。
私の心に流れるこのどろどろしたなにかは私の脳みそを支配して、私の思考を鈍化させる。痛い、痛い、苦しい、怖い、痛い、つらい、かな、しい。
「お前の、せいだ」
「ど、どうしたの? なんか、変だよ」
変? 私が変? 違う私はおかしくなんてない。普通だ、いや違う。普通以上だ。私は特別なんだ。
私は人より上なんだ。だから、私はこんなやつに負けたらだめなんだ!
「お前が私を軽蔑するな!」
「君を軽蔑なんてしていないよ!」
「いいやしてるね。そうやって一位をひけらかして。私を下に見ているんだろう? なあ、どうしてお前が私の上に居る? お前は私の下にいる人間だろ。
家で見向きもさあれないグズが私の前に立つなよ!」
「……え?」
その時、私の頭がサーッと冷めた。
やってしまった。周りの目線が軽蔑の眼差しになったのを肌でジリジリと感じた。痛い。とても痛い。
その時ふと目に入って来たのは、あいつの悲しそうな顔だった。その瞬間何故か居た堪れない気分になって、私は教室から飛び出した。
あの教室に、私の居場所などなかった。


私は私の足の赴くまま逃げ続けた。いつの間には私は屋上の扉の前まで来ていた。
人が屋上に行きたがるのはなぜだろう? アニメや漫画に出てくるから? 憧れ? ……学校という空間で、一番空に近いから?
ガチャガチャッ
扉は開かなかった。それはそうか。屋上は元々立入禁止だし。
「大丈夫?」
後ろから、声をかけられた。
「可哀想に、こんなに乱れちゃって。君らしくないね」
君らしい、ね。ちょっと前に君は空っぽだといった人のセリフとは思えないね。
「なによ。なにか用事でも?」
「大したことではないさ。ただ僕は、やっと君らしい君を見ることができたなと思ってね」
「初めて見たときからずっと思っていたんだ。君みたいな人は初めてだってね。君みたいに、劣等感にまみれた人間はね」
劣等感? 私が、劣等感にまみれている?
「私が劣等感にまみれている?」
「そうさ。だからああやってアイツのことを見下して、情けをかけてやったんだろう。クラスのみんなにも同じように」
「まあ、それもたった今崩れちゃったんだけど」
「可哀想に。ずっと見下してたやつに抜かされて、自分の嫌いな人間がクラスの中心になって、もう君の中になにが残っていると言うんだ?」
こいつの言っていることが頭の中をぐちゃぐちゃと駆け回る。
胸がざわついて、苦しい。痛い、涙が出そうなほど今までに感じたことのない何か私の心をうごめいている。
「なあ、君は知っているか? これが、劣等感だ」

今までの優越感が幸せなほど、今の劣等感が刺激されるだろ?

7/14/2023, 4:50:12 AM