ドルニエ

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1/27/2025, 1:55:43 PM

 サンシェイド。あのひとの元拠点。とはいえ、そのことを知る者はもうほとんどいない。知っていても意識しない。旅人とはそんなものだ。
 今日のあのひとは機嫌がいい。酒が入っているから、ではたぶんない。どちらかというと――
 あ、――と気づく。先ほどまで飲み食いしていた酒場で出された鬼のように辛かったらしい兎の香草焼き、それにまぶしてあったスパイスの粒があのひとの口もとについている。
「あの、」
 立ち止まって呼びかけると、上機嫌に歩いていたこのひとも立ち止まる。このあたりでは比較的大きな町に該当する、その目抜き通りはいつも人があふれている。だから立ち止まっている者は邪魔になる。いまも急に立ち止まった俺たちにぶつかりそうになった男が険のある目で俺を睨みながら通り過ぎてゆく。俺はそれには構わず、黙ってあのひとの口もとについた粒を唇で取った。
「っ、」
 ただ粒を舌で喉の奥に落としただけなのに、意外なほどの辛さを感じ、俺の顔は一瞬で火照る。
「どうした?変な顔をして」
 当然、俺の意図を知らないあのひとは強張った俺の顔を不思議そうに眺める。
「いえ、その」
 なんでこんなに辛いものが阿呆みたいにかかったものが食べられるんですか――という言葉を飲みこみ、不自然にならないように息を吸いこみ、口内のクールダウンを図る。
「いきなり立ち止まってキスなんて珍しいこともあるものだがな」
 人の波を意に介さず、ヴィオラさんは俺を道の端へと少しずつ追い込んでゆく。行きかう人々は進路を妨げられるので甚だ迷惑そうに俺たちをよけてゆく。何度も何度も人にぶつかりながら、ついに俺は壁際まで追い込まれてしまった。
「あの、ですね。ヴィオラさん」
 壁際でも人の波があることには変わりない。当然俺たちの間に隙間などほとんどない。酒と料理と日差しで火照った体から立ちのぼる匂いまでうっすらと感じられる。
「先に手を出したのはお前だぞ?」
 至近距離から目を覗きこまれる。互いのブラウンの視線がかち合う。ただし視線の強さが違う。それはもう、比べようもないほどに。
「どうやら『そういう』つもりではなかったつもりのようだが」
「――」
「では、どういうつもりだったか、説明してくれるのだろうな?」
 ああ、これは怒っている。そう感じる。
「わ、分かりました。でも――」
 言いながら俺も視線に力をこめる。
「賭け、しませんか?僕が負けたらお教えします。でも、僕が勝ったら――」
「勝ったら?」
 乗ってきた、と俺の胸は高鳴る。
 このひとの影響なのだろう、以前と違ってこういう勝負ごとをしかけることに抵抗を感じなくなってきている。
「――――、――」
 俺の提案に、あのひとの目は狂暴な光をたたえはじめる。
「いいだろう、乗ってやる」
 苦手なのに余興好きなこのひとは、多少分が悪くても乗ってくるのだ。
「さあ、行きましょう。勝負です」
 俺の胸倉を掴んでいたあのひとの手を、俺は強く握った。

1/19/2025, 12:01:00 AM

 この世に超越者などいない。いてはならない。彼か彼女か分かる者はいないが、ともかくソレは思う。ソレが思うに、超越者とは理不尽を押しつけられる一番割に合わない役職だ。死なないから逃げられず、何でもできるということは何もしないこともできるということで、何をしても、あるいはしなくても、やはり超越者の選択になってしまうのだ。
 しかしてものごとは極めて複雑だ。絶対的な力をもった魔王とか、悪の組織の頭目、なんて分かりやすい黒幕などどこにもいない。そいつひとり殺せば万事解決、ラブ&ピースなハッピーエンドなんてこともない。全体に対する部分のように癒着し、縺れて絡み合ってどれひとつとして摘出なんかできやしない。いい大人ならだいたい分かりそうなものだが、こと超越者に限ってはそれも適用できないらしい。なにせそれは「超越者」。何でもできるのだから、その程度の摘出もできようという理屈なのかもしれないが、稚拙であまりに理不尽ではなかろうか。
 そういうわけで。
 ソレもいい加減うんざりしてきたところなのだ。
 くしゃ、の一音で終わらせられるのもある意味幸せだろう。少なくとも、だ。成長著しい菌類の増殖のように乱発している理不尽に憮然とするソレに似た姿のモノたちに意識を向ける。
 彼らの救いがどこにあるというのか。
 本当に飽いた。ソレの一存で決めることではなかったかもしれないけど、本当の本当に飽いた。
 私は死ねないけれど。ここでいまあるすべてを終わらせよう。
 幾千度もの行きつ戻りつを経て、ようやっとソレはおずおずと手のひらに”宇宙”をとって、ついに――
 くしゃ、の一音でそれを握りつぶした。

1/13/2025, 12:24:07 PM

 本当にお前弱いな。そう目の前で余裕を見せるひとが嗤う。ここに来てからどのくらい経ったか、すでに数本のボトルが開けられたことだけは憶えているが、それらのうちどのくらいを俺が飲んだか、目の間のひとが飲んだかなどという野暮なことなどは考えたこともない。ないが、どう考えてもこのひとのほうが飲んでいるのだ。だというのに。
「ぅあ、ん」
 頭がぐらぐらする。もうあとどのくらい意識を保っていられるか。
「とはいえ最初はほんの数杯で潰れていたからな。年季の差というやつか」
 どやどやとした酒場の雑音も、奏でられている少々くたびれたバイオリンの音も、もうあまり耳に入らない。聞こえるのはフォークやナイフが皿に当たる音やグラス同士の触れあう音、そして目の前のひとのくすぐったい声ばかり。
「私を酔いつぶしてみたいとは思わないか?」
「それは、無理ですよ。旅団でも最強じゃないですか。僕なんか――」
 舌が思うように回らない。この言葉だって、相手にスムースに伝わったかどうか。
「そう思ってると一生無理だぞ?私を背負ってみたいと思わないのか?」
「それは、」
 何度俺はこのひとに担がれて宿に戻ったのだろう。そのたびにきっとこのひとは呆れ顔で宿の人に話をつけ、薬師を呼んで俺を押しつけ、それでも投げだすことなく懲りることもなく飲みに誘ってくれるのだ。
 だから並ぶことは無理でも自分で歩いて帰れるくらいになれればと思うのだが、高望みをするならば酔っ払い同士、肩を組んで歩いて、このひとの熱を感じてみたいと思うのだが、ペースを考えても、セーブをしても、このひとが満足するまで一緒に飲み続けることはいまだにできない。酔いつぶれないときは決まってその「あと」があるときだけだ。当然このひとが酔うには至らない。宿に入ってことが済んでから飲みなおすのを眺めるのが常で。起きたときに酒の臭いを漂わせるこのひとを隣で見ながら、ほんの少しふがいなさを感じてしまうのだ。
「ふ、が――」
 もう限界だ。耳鳴りがひどくなって視界が歪む。いろんな音がどの方向から聞こえているのか分からなくなってくる。
「ヴィオラさん」
 もう、力尽きる寸前だ。だから最後にひと言だけ。
「『――、――――』」
 思いの丈をぶつけ終える。
 ああ、今日は仰向けに倒れるんだな。
 それだけが分かる。
「まったく。相手が私でなければ頭を打っているところなんだぞ」
「――」
 口の中だけで応え、俺はにへらと笑う。
 それを最後に。
 酒臭い息とそれほど火照っていない腕の中で。
 酔いのもたらす嵐のような感覚の乱れに俺は今日も沈んでいくのだった。

1/5/2025, 11:16:34 AM

「外出中」の札を下げて鍵を閉め、俺は階段を降りる。何種類かの食材をうっかり切らしてしまったためだ。スーパーだけでなく、コンビニやドラッグストアなんかまでそれなりの種類の食材を置いているこの国は、それはそれで大変だと思う。最近ではコンビニの中で調理もしていると聞く。一体どれだけ多岐にわたる仕事を覚えさせられるんだ、あの時給で――そうも思う。要は――
「――」
 思考が際限なく広がっていきそうになるのを感じ、俺は意識を脳内の買い物リストに移し、どこを回れば一番簡単なのかを考える。
「――っ、」
 ビルの外に出た瞬間に俺はひどい眩しさを覚えて目を覆い、慌ててサングラスをかけた。
 この地域では冬はとにかくよく晴れ、乾燥する。毎晩のように消防署かなにかの車が注意喚起の音声を流しながら走るので、初めて迎えた冬ではそれが聞こえてくるたびに身構えたものだが、今ではもうただのBGMになっていた。
 現在8時40分。開いている店はまだないが、歩きだから着く頃にはちょうどいい時間になっているだろう。こんな時間にやってくる客などいないだろう、とあのひとは言っていたし、実際そうなのだろうが、やっているはずの時間に表示もなしに閉まっているのにいきあった客のことを考えろ、とあのひとの友人に言われて納得してから、いまのようにしている。これもまた比較的真面目と言われる日本人相手に商売するうえで必要なこと、なのかもしれないし、案外どうでもいいことなのかもしれない。いずれ悪いことではないだろう。そう考えている。
 かつこつと靴音をたてて道を歩く。道には水たまりひとつない。肌がぴりぴりするほどに空気は乾燥し、日差しは嫌気がするほど眩しいが、それでも夏のそれと同じものとは思えないほど冷淡で、そしてどこまでも晴れ渡っている。
 コートのポケットで携帯が震えだす。ディスプレイを見るとメッセージの主はあのひと。
『今日あいつが来ることになった。それらしい夕飯の用意も頼む』
 突然の話だ。でも。
「――」
 前々回――だったと思う――の饗宴を思い出し、俺は口もとを緩めた。
 ふたりとも、驚いてくださいね。
 長くなった買い物リストを脳内で書き終え、俺はちょうど開いたスーパーの自動扉をくぐった。

1/3/2025, 1:23:04 PM

「ん――」
 背中に張りついているのが男か女かほんの少しだけ考え、男のほうだったなと思い出す。どちらの部屋も同じくらいには片づいているが、染みついた匂いが違う。空気も違う。それは同じことなのかもしれないが、私にはどうでもいいことだ。視覚、嗅覚、触角、どれで判別しようと、出される答が同じであれば同じことだ。
 こいつ、結局本当に手を出してこなかったな。
 首より少し下のあたりに頭をつけているのだろう。背中に感じる寝息が少し鬱陶しい。
 時計を探して首を曲げると遠くに光る数字が夜明けが近いことを示しており、よくよく注意を払うとカーテンの向こう側がほんの少しだけ明るくなっている。向こう側に立てばある程度のものは見えるだろう。
「――」
 思い返してみればここには体ひとつで来たから、自分の携帯も手元にはない。こいつの携帯のロックはご丁寧なことに生体認証の登録はしていなかったはずだし、当然解除の番号なども知らない。他に時間を潰せるものもない。こいつの寝顔だって見ていて面白いものでもない。起こしてむくれさせたほうがよっぽど面白いのだ。
「ん、ヴィオラさん」
 背中の男が頬ずりしてきているのが分かる。夢の中でも私に甘えているのだろう。私の考えることではないが幸せなやつだ。
 どうしたものか。しがみついてくる男の体を受けながらそんなことを考える。と――
 ぐぅ。
 腹が鳴る。それを感じるが早いか、私は体を捻って男を振り払った。
「腹が減ったぞ」
 名前も呼ばず、『起きろ』のひと言もなく空腹を訴えると、男が顔をしかめて起きあがる。
「ん、ぅ。――リクエストはありますか?」
 こういう場合、起こされたことに不満をあらわにしたり、時間を訊いたりするのが普通の反応だと思う。そうでなくても用件を訊き返すことくらいするだろう。が、目の前の男は当たり前の顔をしてそんなことを口にする。本当に、便利なやつを拾ったのだろう、私は。
「そうだな、目玉焼きとベーコン。あとは任せる」
「分かりました。コーヒーは?」
 あくびを噛み殺しながら訊ねる男に、私はいる、とだけ応えて胸板に触れてやると、男はにへらと笑ってうなずき、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 閉じたドアの向こうからガン、と何かがぶつかる音がする。おそらくだが何かにつまづいたのだろう。あれで少しは目が覚めただろうから、あとは放っておいても大丈夫だろう。ほんの少し明るさを増してきた部屋で私は寝転がり、広くなったベッドで四肢を伸ばした。

 やがて男の戻ってくる気配がして、律儀にドアが叩かれる。
 私が入れと言うと、ほんの少しだけ不本意そうな顔をした男が盆を片手に姿を現した。
「僕の部屋なんですけどね、一応」
「ノックしたのはお前だろう」
 言いながら目の前に置かれた盆から自分のマグカップを取り、口をつける。ほどよくぬるくなったコーヒーの香気が鼻を抜けていった。
 男はそれはそうなんですけどね、などと言いながらベッドのふちに腰かけてこちらを見て、彼の分のカップを手にした。
「20分したら降りてきてください。っ、」
 音を立てずに頬に口づけをして男は立ちあがり、甘ったれたいつもの視線を向けると、コーヒーを飲みながら再び部屋を出て行ってしまった。
「――」
 あいつは。
 私の勝手に扱ったつもりだったのだが、今朝に限ってはやつに踊らされつつあるのかもしれない。胸の内に広がるわずかなさざめきを感じながら、私はコーヒーをすする。
 生意気なやつだ。
 昨日、わざとではなかったとはいえ、期待させておいて結局抱いてやらなかったというのに、今朝のあいつからはこれっぽっちもそういう欲が感じられなかった。それがなんだか面白くない。いや、あれも少しは本音を隠しておくことを学びつつあるということだろうか。
「まあいい」
 私は空になったマグカップを手に自室に戻ると事務所に出られるような格好に着替えなおし、階段を降りる。
 どのみち、私の好きにできる男だということに変わりはない。今日はまだ予定も入っていないと聞いている。
 覚悟しておけよ?
 階段を降りきって扉を開くと、ベーコンの匂いと何かを焼く音が聞こえてくる。当然、やつも私の降りてきたのには気づいているはずだ。そして不穏な気配も。
「――」
 それでも足音を殺して台所へと近づいてゆく。戸のついていないそのスペースと男の背中が見えてくる。
「カル、」
「――⁈」
 私の奇襲に失敗はない。なぜなら、
「もう、危ないですからむこうで待っていてくださいよ」
「ふん、気づいていたくせに」
 それもこれも何もかも、この事務所のいつもの光景だからだ。

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