ドルニエ

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 サンシェイド。あのひとの元拠点。とはいえ、そのことを知る者はもうほとんどいない。知っていても意識しない。旅人とはそんなものだ。
 今日のあのひとは機嫌がいい。酒が入っているから、ではたぶんない。どちらかというと――
 あ、――と気づく。先ほどまで飲み食いしていた酒場で出された鬼のように辛かったらしい兎の香草焼き、それにまぶしてあったスパイスの粒があのひとの口もとについている。
「あの、」
 立ち止まって呼びかけると、上機嫌に歩いていたこのひとも立ち止まる。このあたりでは比較的大きな町に該当する、その目抜き通りはいつも人があふれている。だから立ち止まっている者は邪魔になる。いまも急に立ち止まった俺たちにぶつかりそうになった男が険のある目で俺を睨みながら通り過ぎてゆく。俺はそれには構わず、黙ってあのひとの口もとについた粒を唇で取った。
「っ、」
 ただ粒を舌で喉の奥に落としただけなのに、意外なほどの辛さを感じ、俺の顔は一瞬で火照る。
「どうした?変な顔をして」
 当然、俺の意図を知らないあのひとは強張った俺の顔を不思議そうに眺める。
「いえ、その」
 なんでこんなに辛いものが阿呆みたいにかかったものが食べられるんですか――という言葉を飲みこみ、不自然にならないように息を吸いこみ、口内のクールダウンを図る。
「いきなり立ち止まってキスなんて珍しいこともあるものだがな」
 人の波を意に介さず、ヴィオラさんは俺を道の端へと少しずつ追い込んでゆく。行きかう人々は進路を妨げられるので甚だ迷惑そうに俺たちをよけてゆく。何度も何度も人にぶつかりながら、ついに俺は壁際まで追い込まれてしまった。
「あの、ですね。ヴィオラさん」
 壁際でも人の波があることには変わりない。当然俺たちの間に隙間などほとんどない。酒と料理と日差しで火照った体から立ちのぼる匂いまでうっすらと感じられる。
「先に手を出したのはお前だぞ?」
 至近距離から目を覗きこまれる。互いのブラウンの視線がかち合う。ただし視線の強さが違う。それはもう、比べようもないほどに。
「どうやら『そういう』つもりではなかったつもりのようだが」
「――」
「では、どういうつもりだったか、説明してくれるのだろうな?」
 ああ、これは怒っている。そう感じる。
「わ、分かりました。でも――」
 言いながら俺も視線に力をこめる。
「賭け、しませんか?僕が負けたらお教えします。でも、僕が勝ったら――」
「勝ったら?」
 乗ってきた、と俺の胸は高鳴る。
 このひとの影響なのだろう、以前と違ってこういう勝負ごとをしかけることに抵抗を感じなくなってきている。
「――――、――」
 俺の提案に、あのひとの目は狂暴な光をたたえはじめる。
「いいだろう、乗ってやる」
 苦手なのに余興好きなこのひとは、多少分が悪くても乗ってくるのだ。
「さあ、行きましょう。勝負です」
 俺の胸倉を掴んでいたあのひとの手を、俺は強く握った。

1/27/2025, 1:55:43 PM