「外出中」の札を下げて鍵を閉め、俺は階段を降りる。何種類かの食材をうっかり切らしてしまったためだ。スーパーだけでなく、コンビニやドラッグストアなんかまでそれなりの種類の食材を置いているこの国は、それはそれで大変だと思う。最近ではコンビニの中で調理もしていると聞く。一体どれだけ多岐にわたる仕事を覚えさせられるんだ、あの時給で――そうも思う。要は――
「――」
思考が際限なく広がっていきそうになるのを感じ、俺は意識を脳内の買い物リストに移し、どこを回れば一番簡単なのかを考える。
「――っ、」
ビルの外に出た瞬間に俺はひどい眩しさを覚えて目を覆い、慌ててサングラスをかけた。
この地域では冬はとにかくよく晴れ、乾燥する。毎晩のように消防署かなにかの車が注意喚起の音声を流しながら走るので、初めて迎えた冬ではそれが聞こえてくるたびに身構えたものだが、今ではもうただのBGMになっていた。
現在8時40分。開いている店はまだないが、歩きだから着く頃にはちょうどいい時間になっているだろう。こんな時間にやってくる客などいないだろう、とあのひとは言っていたし、実際そうなのだろうが、やっているはずの時間に表示もなしに閉まっているのにいきあった客のことを考えろ、とあのひとの友人に言われて納得してから、いまのようにしている。これもまた比較的真面目と言われる日本人相手に商売するうえで必要なこと、なのかもしれないし、案外どうでもいいことなのかもしれない。いずれ悪いことではないだろう。そう考えている。
かつこつと靴音をたてて道を歩く。道には水たまりひとつない。肌がぴりぴりするほどに空気は乾燥し、日差しは嫌気がするほど眩しいが、それでも夏のそれと同じものとは思えないほど冷淡で、そしてどこまでも晴れ渡っている。
コートのポケットで携帯が震えだす。ディスプレイを見るとメッセージの主はあのひと。
『今日あいつが来ることになった。それらしい夕飯の用意も頼む』
突然の話だ。でも。
「――」
前々回――だったと思う――の饗宴を思い出し、俺は口もとを緩めた。
ふたりとも、驚いてくださいね。
長くなった買い物リストを脳内で書き終え、俺はちょうど開いたスーパーの自動扉をくぐった。
「ん――」
背中に張りついているのが男か女かほんの少しだけ考え、男のほうだったなと思い出す。どちらの部屋も同じくらいには片づいているが、染みついた匂いが違う。空気も違う。それは同じことなのかもしれないが、私にはどうでもいいことだ。視覚、嗅覚、触角、どれで判別しようと、出される答が同じであれば同じことだ。
こいつ、結局本当に手を出してこなかったな。
首より少し下のあたりに頭をつけているのだろう。背中に感じる寝息が少し鬱陶しい。
時計を探して首を曲げると遠くに光る数字が夜明けが近いことを示しており、よくよく注意を払うとカーテンの向こう側がほんの少しだけ明るくなっている。向こう側に立てばある程度のものは見えるだろう。
「――」
思い返してみればここには体ひとつで来たから、自分の携帯も手元にはない。こいつの携帯のロックはご丁寧なことに生体認証の登録はしていなかったはずだし、当然解除の番号なども知らない。他に時間を潰せるものもない。こいつの寝顔だって見ていて面白いものでもない。起こしてむくれさせたほうがよっぽど面白いのだ。
「ん、ヴィオラさん」
背中の男が頬ずりしてきているのが分かる。夢の中でも私に甘えているのだろう。私の考えることではないが幸せなやつだ。
どうしたものか。しがみついてくる男の体を受けながらそんなことを考える。と――
ぐぅ。
腹が鳴る。それを感じるが早いか、私は体を捻って男を振り払った。
「腹が減ったぞ」
名前も呼ばず、『起きろ』のひと言もなく空腹を訴えると、男が顔をしかめて起きあがる。
「ん、ぅ。――リクエストはありますか?」
こういう場合、起こされたことに不満をあらわにしたり、時間を訊いたりするのが普通の反応だと思う。そうでなくても用件を訊き返すことくらいするだろう。が、目の前の男は当たり前の顔をしてそんなことを口にする。本当に、便利なやつを拾ったのだろう、私は。
「そうだな、目玉焼きとベーコン。あとは任せる」
「分かりました。コーヒーは?」
あくびを噛み殺しながら訊ねる男に、私はいる、とだけ応えて胸板に触れてやると、男はにへらと笑ってうなずき、そのまま部屋を出て行ってしまった。
閉じたドアの向こうからガン、と何かがぶつかる音がする。おそらくだが何かにつまづいたのだろう。あれで少しは目が覚めただろうから、あとは放っておいても大丈夫だろう。ほんの少し明るさを増してきた部屋で私は寝転がり、広くなったベッドで四肢を伸ばした。
やがて男の戻ってくる気配がして、律儀にドアが叩かれる。
私が入れと言うと、ほんの少しだけ不本意そうな顔をした男が盆を片手に姿を現した。
「僕の部屋なんですけどね、一応」
「ノックしたのはお前だろう」
言いながら目の前に置かれた盆から自分のマグカップを取り、口をつける。ほどよくぬるくなったコーヒーの香気が鼻を抜けていった。
男はそれはそうなんですけどね、などと言いながらベッドのふちに腰かけてこちらを見て、彼の分のカップを手にした。
「20分したら降りてきてください。っ、」
音を立てずに頬に口づけをして男は立ちあがり、甘ったれたいつもの視線を向けると、コーヒーを飲みながら再び部屋を出て行ってしまった。
「――」
あいつは。
私の勝手に扱ったつもりだったのだが、今朝に限ってはやつに踊らされつつあるのかもしれない。胸の内に広がるわずかなさざめきを感じながら、私はコーヒーをすする。
生意気なやつだ。
昨日、わざとではなかったとはいえ、期待させておいて結局抱いてやらなかったというのに、今朝のあいつからはこれっぽっちもそういう欲が感じられなかった。それがなんだか面白くない。いや、あれも少しは本音を隠しておくことを学びつつあるということだろうか。
「まあいい」
私は空になったマグカップを手に自室に戻ると事務所に出られるような格好に着替えなおし、階段を降りる。
どのみち、私の好きにできる男だということに変わりはない。今日はまだ予定も入っていないと聞いている。
覚悟しておけよ?
階段を降りきって扉を開くと、ベーコンの匂いと何かを焼く音が聞こえてくる。当然、やつも私の降りてきたのには気づいているはずだ。そして不穏な気配も。
「――」
それでも足音を殺して台所へと近づいてゆく。戸のついていないそのスペースと男の背中が見えてくる。
「カル、」
「――⁈」
私の奇襲に失敗はない。なぜなら、
「もう、危ないですからむこうで待っていてくださいよ」
「ふん、気づいていたくせに」
それもこれも何もかも、この事務所のいつもの光景だからだ。
いつもより風呂で念入りに体を洗い、少しの緊張を伴って自室に戻ったのがもう2時間前だろうか。今日の未明、事務所で「待っていろ」と言われたのがすごくうれしかった。やきもきしていたのが30分ほど前まで、そこからこっちは正直なところいらいらしながら待っている。普段いい加減で、俺がいなくなったら間違いなく困るであろうあのひともこの手の話だけは大体守ってくれるのだが、今回はその限りではなかったのかもしれない。それは、あのときはどちらも寝起きで、そのうえ酔っていた。だから本当に忘れてしまっている可能性もあるのだが、忘れられた(かもしれない)俺からすればやはり面白くない。いや、悲しい。それはもう。
呼びに行こうか、まだ大人しく待っているべきか、本当に忘れてしまっているのならむしろ怒られるだろう、いや、もしかしたら体調が悪くなっているのではないか。だとしたらここでうだうだしてなんかいられないだろう――そんないろんな考えの間をぐるぐる回っている。一度思考の袋小路に入ってしまうと色々な可能性に引っ張られて行動できなくなってしまう癖は、子供の頃から気にしているのだが直らない。もちろん諦めて寝てしまうなんて選択肢は論外だ。
だったら、怒られたとしてもはっきりさせなきゃいけないじゃないか。
そう自身に言い聞かせ、ようやっと自室のドアに手をかける。と――
ガンっ、
「んがっ⁈」
突然ドアが開き、反応できなかった俺の鼻を直撃する。
「おい、大丈夫か?」
驚きと痛みからうずくまってしまった俺の頭上からあのひとの声がした。
ノック、してくださいよ――と抗議して顔をあげると、待ち人は珍しく謝り、するりと入ってきてティッシュを渡してくれる。俺はそれを鼻に当ててみるが、幸いというべきか鼻血などは出ていなかった。
「いや、寝ようとしていたら変な違和感がしだしてな。よくよく考えてみたらお前を待たせていたことを思い出したんだ。――大丈夫か?」
「いえ、それについては僕もちゃんと言わなかったのも悪いんです。起き抜けで酔ってましたし」
こういうときに言いたいことを言えないのも俺の悪いところだ。大体の相手になら文句のひとつも出るのだが、どういうわけかこのひと相手には同じように振る舞えない。
差しだされた手を握って立ちあがり、間近でその顔を見て、抱きしめる。寝支度をしていたそのままの格好だから、色気も何もない。
「でも、あなたから言ってきたんですから、忘れないでくださいよ」
待ってたんですか――そう、ようやっと不満を口にすることができた。いつもはこの一歩が踏みだせず、逃げられてしまうのだ。
「悪かった。でも、今日は気分じゃなくてな。添い寝で勘弁してくれるか?」
「それでもいいです。あ、でも――」
「キスだけしてもいいですか、だろ?そのくらいならいくらでもしてやる」
そう言うが早いか、唇が重ねられる。いつもとは違う、せいぜいがついばむ程度の口づけ。
「――」
「――」
それでも。もう2時間以上待たされたというのにもかかわらず、不満がどこかへと流れ去ってゆく。
寄り添ったままベッドへと移動し、口づけをしたままベッドに倒れこむ。
「大好きです」
「ああ」
お互いに背中に回した腕を引きつける。
「僕――」
「いい。そういうのは。今日はここまでだ」
甘い気持ちに支配されてその先に進みたがってしまう俺を諫め、それでも離れずにいてくれる。
「今年も頑張ります。だから――」
「それもいい。今までどおりにしていれば、それで」
眠くなってきたのだろう、声が少し低くなっている。
「はい」
「私は私だからな。勝手にするさ」
そう言って、そのひとはそれ以上しゃべることをやめてしまった。
俺は手を伸ばし、リモコンで明かりを落とす。
「おやすみです」
「――」
返事はもうしない。よっぽど眠かったのか、やがて寝息らしいものが聞こえ始める。
俺はもう一度自身の気持ちをこれ以上ないシンプルな言葉で伝えると、額をそのひとにくっつけたままに眠りへと落ちていった。
自分からにじみ出ているものの雰囲気で、それは自分が恋ではなくなっていたことに気づいた。それが恋でいることで心は甘く苦しみ、思考に命令をして考えさせ、思考は渋々それに従う。
「いくら時間をかけて考えてもよ、心のやつのひと言で全部ご破算になるんだからやってられないよ。裁判所に話をもっていってやりたいくらいさ」
思考がこっそりこぼしていく愚痴は、それにはよく分からない。気持ちである恋、だったものには複雑だったり抽象的な言葉はないからだ。思考はそれを承知でしばしば愚痴をこぼし、そして心から大目玉を食らう。よせばいいのに、と気持ちは思うのだが、それでも何度も来るということは、思考も吐き出さないとやっていられないのだろう。
恋だった気持ちは、では今の自分は何なのだろう、と思う。喜び?悲しみ?失望?憤怒?他の気持ちたちもどんどん変わり続けるから、すれ違う相手がなんなのか、気にしないようになっていた。ただ、この宿主の気持ちはずいぶん減っているように思う。以前――どのくらい前かは分からないが、気持ちはもっと多かった。今はもう、半分くらいの気持ちはどこかで休んでいるようだ。人間であれば羨ましいとか、妬ましいとか考えるのだろうが、元恋のそれには休むという発想はない。ただただ自分であり、その時々の気持ちの役割を果たすだけなのだ。
心のなかをふわふわ漂っていると、心が虚しさを訴えはじめるので、自分の今の姿は虚しさなのではないかと思った。気がつけば、まわりの気持ちたちも自分と同じようなものをにじませている。
そうか、虚しいのか。気持ちはまた思考が愚痴を言いにくる気配を感じ、ほんの少し眠たさを覚えた。
ハンドガンを一丁、それが撃てる弾を一発。それがやくざが要求された礼の品だった。青年の拙い手出しで迫ってきていた刑事たちから逃れられた彼にとって、それはあまりに簡単で、少し面倒なしろものだった。決して犯罪に利用するつもりはない。指定した場所、指定した時間以降に来てくれれば、銃は回収できる――そんな冗談のようなことを青年は言っていた。チェーンのカフェで脅すような、すがるような目でそれを口にしたその理由を、やくざは即座に理解した。理解できてしまった。
だったら俺が「それ」をしてやってもいいんだぞ――そう凄んでみせるも、余計な罪状を背負わせるのも嫌だ、と青年は固辞した。やくざにとってみればどっちでもいいことではあったが、ことをスムースに済ませるには自分が出を下したほうがずっといい。このひょろひょろした青年が土壇場で逃げ出すことだって充分ありうる話だ。だから、やくざはそう提案したにすぎなかった。が、青年は自分で始末をつける、そう言って譲らなかった。彼が何を思ってそれらを要求したのか、そんなことにやくざは興味を惹かれなかった。どこにでもある現実逃避だ。おおかた、働くのが嫌だの、親兄弟とのいさかいが面倒だだの、女といい関係になれなかっただの、そんなところだろう。くだらない。やくざは深煎りのブレンドの、わずかに残っていたのをあおり、分かった分かった、分かったからさっさと帰れ。モノは明日お前の家のポストに入れておいてやるから住所を教えろ、と紙ナプキンを青年の前に滑らせた。青年は胸ポケットに収めていたメモ帳からペンを抜き、几帳面そうな手つきで下手な字を書いて返してよこす。やくざは眉間にしわを寄せてそれを読み、立ちあがった。
やくざは別のカフェで、青年の要求どおりのものを青年のアパートに届けるよう要請する内容のメモを書いて封筒におさめ、郵便局で手続きを踏んだ。この時間であれば今日中に支部に話が届き、明日午前には青年の要求したものが届けられるはずだ。郵便局から出たやくざは、信号を待ちながら何をやっているんだろうと自分に問うた。青年の要求など放っておけばよいのだ。彼にやくざを追いかける力などない。当然、組織の名も自身の本当の名前も教えていない。彼のことなどさっさと忘れ、ほとぼりが冷めるまで適当な支部で大人しくしていればいいのだ。警察など「上」に金と利権さえ与えておけばどうにでもなる。むしろ青年の要求を素直に聞くほうがリスキーなのだ。
とはいえ、すでにメモは預けてしまっている。下手にキャンセルして印象に残られるほうが面倒、ともいえる。だから――
なりゆきに任せる、か。
やくざは人の流れに乗り、そして街に消えた。
当初の予定通り、やくざはいくつかの県境を越え、とある地方都市のとあるアパートでつまらない日々を送っていた。警察の追及などもちろんない。最低賃金のつまらない仕事をちまちまとこなし、しみったれた給料と組織からの送金で、倹しくしていれば特段不自由のない日々を送っていた。青年の指定した場所から銃も回収できたと聞いている。
報告の翌々日、やくざのもとに大きめの封筒に入った青年からの手紙が届けられた。銃を回収した際、そのそばに置かれていた――落ちていたのとは違うらしい。なんとかというゲームのロゴの彫りこまれた、使われた形跡のないジッポーの下に置かれていたという話だ――封筒が、ご丁寧にもやくざのもとに回って来た、というだけのことだ。
封筒の中にはさらに封筒が入っており、ひとつはやくざに向けられたもの、そしてもうひとつは青年の知人に宛てられたものだった。やくざへの手紙にはそれがどんな相手なのかは書かれていなかった。ただ、どんな内容が記されていたのかは想像がつく。だからやくざは黙ってそれをポストに投函してやった。それでこの問題は時間がすべてを覆い隠すだろう。やくざが法廷に立つこともない。青年の――が見つかるかどうかは分からない。青年の知人はしばらくは重いものを抱えるだろうが、それこそ時間の問題だ。いずれ、その知人も元の生活に戻るだろう。だから、何も気にすることはない。
それだけのことを思い、やくざは帰宅後のシャワーを浴び、夕食にと買ってきた弁当のふたを外し、冷蔵庫で充分に冷やされたチューハイのプルトップを引いた。なんでもない、ごく普通の日のごく普通の夕焼けが鮮やかな夕のひと幕のことだった。