いつもより風呂で念入りに体を洗い、少しの緊張を伴って自室に戻ったのがもう2時間前だろうか。今日の未明、事務所で「待っていろ」と言われたのがすごくうれしかった。やきもきしていたのが30分ほど前まで、そこからこっちは正直なところいらいらしながら待っている。普段いい加減で、俺がいなくなったら間違いなく困るであろうあのひともこの手の話だけは大体守ってくれるのだが、今回はその限りではなかったのかもしれない。それは、あのときはどちらも寝起きで、そのうえ酔っていた。だから本当に忘れてしまっている可能性もあるのだが、忘れられた(かもしれない)俺からすればやはり面白くない。いや、悲しい。それはもう。
呼びに行こうか、まだ大人しく待っているべきか、本当に忘れてしまっているのならむしろ怒られるだろう、いや、もしかしたら体調が悪くなっているのではないか。だとしたらここでうだうだしてなんかいられないだろう――そんないろんな考えの間をぐるぐる回っている。一度思考の袋小路に入ってしまうと色々な可能性に引っ張られて行動できなくなってしまう癖は、子供の頃から気にしているのだが直らない。もちろん諦めて寝てしまうなんて選択肢は論外だ。
だったら、怒られたとしてもはっきりさせなきゃいけないじゃないか。
そう自身に言い聞かせ、ようやっと自室のドアに手をかける。と――
ガンっ、
「んがっ⁈」
突然ドアが開き、反応できなかった俺の鼻を直撃する。
「おい、大丈夫か?」
驚きと痛みからうずくまってしまった俺の頭上からあのひとの声がした。
ノック、してくださいよ――と抗議して顔をあげると、待ち人は珍しく謝り、するりと入ってきてティッシュを渡してくれる。俺はそれを鼻に当ててみるが、幸いというべきか鼻血などは出ていなかった。
「いや、寝ようとしていたら変な違和感がしだしてな。よくよく考えてみたらお前を待たせていたことを思い出したんだ。――大丈夫か?」
「いえ、それについては僕もちゃんと言わなかったのも悪いんです。起き抜けで酔ってましたし」
こういうときに言いたいことを言えないのも俺の悪いところだ。大体の相手になら文句のひとつも出るのだが、どういうわけかこのひと相手には同じように振る舞えない。
差しだされた手を握って立ちあがり、間近でその顔を見て、抱きしめる。寝支度をしていたそのままの格好だから、色気も何もない。
「でも、あなたから言ってきたんですから、忘れないでくださいよ」
待ってたんですか――そう、ようやっと不満を口にすることができた。いつもはこの一歩が踏みだせず、逃げられてしまうのだ。
「悪かった。でも、今日は気分じゃなくてな。添い寝で勘弁してくれるか?」
「それでもいいです。あ、でも――」
「キスだけしてもいいですか、だろ?そのくらいならいくらでもしてやる」
そう言うが早いか、唇が重ねられる。いつもとは違う、せいぜいがついばむ程度の口づけ。
「――」
「――」
それでも。もう2時間以上待たされたというのにもかかわらず、不満がどこかへと流れ去ってゆく。
寄り添ったままベッドへと移動し、口づけをしたままベッドに倒れこむ。
「大好きです」
「ああ」
お互いに背中に回した腕を引きつける。
「僕――」
「いい。そういうのは。今日はここまでだ」
甘い気持ちに支配されてその先に進みたがってしまう俺を諫め、それでも離れずにいてくれる。
「今年も頑張ります。だから――」
「それもいい。今までどおりにしていれば、それで」
眠くなってきたのだろう、声が少し低くなっている。
「はい」
「私は私だからな。勝手にするさ」
そう言って、そのひとはそれ以上しゃべることをやめてしまった。
俺は手を伸ばし、リモコンで明かりを落とす。
「おやすみです」
「――」
返事はもうしない。よっぽど眠かったのか、やがて寝息らしいものが聞こえ始める。
俺はもう一度自身の気持ちをこれ以上ないシンプルな言葉で伝えると、額をそのひとにくっつけたままに眠りへと落ちていった。
1/1/2025, 2:52:09 PM