ドルニエ

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2/4/2024, 2:24:01 PM

 フロストランドの寒村。どこの部屋でも暖炉ではかっかと薪が燃えている場所。その規模からか、そういう趣旨を掲げた宿はない。だからあのひとは道すがら数本の酒と、少しの肴を求めた。
 そうして訪れた宿の主とおぼしき五十くらいの痩せた女性は、俺たちの目的を即座に察したようだった。ベッド、壊さないでくれよ――そう、面倒くさそうに告げて壁に架けてある鍵を取ると、ごとりとカウンターに置いた。

 部屋は冷えきっている。あのひとは慣れた様子で、すでに暖炉の中で組まれていた薪に火をつける。
 さすがに冷えたな。少し飲もう――そのひとはそう言うと、俺の手からバスケットを取って酒瓶の栓を抜くと、必要以上に高い位置からコップに注ぎ――そのぞんざいな手つきの割には、酒は一滴もこぼれることはなかった――、それを少し口にして息をついた。
「あぁ」
 そう言って口を拭う。俺はそっともうひとつのグラスに酒を注ぐと、やはり慎重に口をつけた。
「美味いです」
「そうか」
 素っ気なくそう言うと、目の前のひとはさらに酒を注いでひと息に飲み干し、鼻で息をついた。その無頼なふるまいもどこか様になっているから、一体このひとはどこでこんな所作を身につけたんだろう――そんな疑問が湧く。
「ほら、来い」
 そう言ってそのひとは俺を呼ぶ。
 俺は黙ってそれに従う。鼓動はすでにはっきりと聞きとれるほどに高鳴っている。
 だって、これから俺はこのひとに――。
 彼女は俺の襟を掴むと酒瓶に口をつけ、そして俺の唇を塞ぐ。
 反り返るようにして、俺は彼女の口づけを受け入れ、注ぎこまれるわずかに温まった酒を嚥下する。とろん、とした顔をしていることは自覚している。
 そして、酒を注ぎこみ終わった彼女が顔を離すと、今度は俺のほうから唇を合わせる。ほぼ同時に互いの舌が差し出され、触れあい、絡みついては離れる。
「ん、ふぅ」
「っは」
 そう、息をつくと、すぐにまた口づけをする。何度も、何度も。そのたびに、あのひとの口から酒が送りこまれた。
「あ、ん。ヴィオラさん」
「苦しいか?」
 口もとを拭う俺に、このひとは問う。俺は首を振ってシャツのボタンをひとつ外した。
「なんだ、堪え性がないな」
 ぼふ、とベッドに腰を下ろした俺を、この人は見おろした。
「ええ。もう半月ですよ。早く――」
「わがままな奴め」
 そう言って、このひとはやはり酒瓶に直接口をつける。
 俺は両腕を伸ばし、あのひとの来てくれるのを待った。血の巡りがよくなっているのが分かる。胸が震え、目に映るものが極端に狭くなる。あのひとが俺の胸をつき、横たわらせる。そして顔が限りなく近づき――俺は目を閉じた。
 ああ、あなたが、あなたに俺を――。
 じんわりと涙が浮かんできているのを感じ、俺はそれを続けざまに注ぎ込まれた酒のせいにすることにした。
 今日も、俺は――

2/4/2024, 12:43:28 AM

 来月も、再来月も、半年後も、1年後も、十年後も、四半世紀後も。そしてできれば死んでもなお、ずっとずっと。そんなことを思うことはない。人の気持ちは変わる。変わるから終わる。プラスの気持ちばかりじゃない。軽蔑も嫌悪も憎しみも、どこかで絶える。許せる。終えられる。そんなことを歩きながら考える。
 目の前を歩く銀髪の剣士の後頭部を眺めながら、周囲に不穏な気配がないか耳をすます。
 あのひとは隊列のずっと後ろを歩いているはずだ。休憩の時には会えることが分かっているから、そんなに苦しくない。
「おい、どうだ?」
 そう、こちらを見ることなく剣士が問う。この場合、危険が近くに感じられないか、という意味だ。
「今のところは。ヨルンさんはどうです?」
「いや、俺も同じだ」
 俺は黙ってうなずく。この人が言うのだから、それは信用していいのだと思う。ひとりで盗餓人狩りの旅をしてきた彼の感覚の鋭さは並外れている。
「お前の感覚も相当なものだと思うが。どこでそれだけ鍛えてきたんだ?」
“仕事中”にこういった会話をするのは、この人には珍しいことだと思う。少し、余裕のあるのが分かったからなのだろうか。
「俺は襲う側の見張りでした。見てのとおりの体ですから、それくらいはやれと言われて」
「ふむ」
「他に食べていく手があったらどうか、とかを考えられるところじゃありませんでした。そういう意味では、俺もあなたの獲物なのかもしれません」
「――」
 前を向いたまま、ヨルンさんは黙った。
「どうです?怪しい気配はしますか?」
 話が終わったと思って“仕事”に戻ろうとする。
「お前は盗餓人じゃない。壊れていない。だから俺の領分じゃない。お前がいつまでここにいるつもりか分からないが、お前のその感覚はここで役立っている。違うか?」
 相変わらず前に注意を向けたまま、彼は抑揚なく言った。特に庇いだてをしないのが彼らしいと思う。
「俺は――」
 明日も、明後日も、来月も、再来月も、できるかぎりあのひとのそばにいたい。
 でも、気持ちは変わる。冷める。ポジティブな気持ちも、ネガティブな気持ちも。だから人は再び前を向ける。許せる。ただ。
 俺は、あのひとのそばにいたいのだ。
「喉、渇きませんか?」
 そう言って提げていた水筒を手にすると、ヨルンさんは貰う、冷やさなくていい、そう言って手だけこちらに伸ばした。
「どうぞ」
 そう言って水筒を渡すと、ヨルンさんは栓を抜いてひと口だけ飲んで、すぐに返してくれる。
「お前を裁くのはお前だ。それができなくなったら、もしかしたらそのときは俺の仕事になるかもしれないな」
「――」
「そうならないことを祈っている」
 少しだけこちらを向いてヨルンさんはそう言うと、再び前を向いた。
「が、心配はいらないか。あの女がいる分には」
「へへ」
 くすぐったくなって俺が笑うと、ヨルンさんは肩をすくめた。
「――と、いますね」
「ん、そうらしいな。支援を頼む」
 ヨルンさんはそう言って剣を抜いた。集団の前に緊張が走り、それは後方へと伝播していった。
 今日も、明日も、明後日も。俺はあのひとのそばにいるために。
 大きく息を吸うと、俺は思いきり指笛を吹いた。

1/24/2024, 12:56:28 PM

 過去も未来もない。あるのは今だけ――とは開き直りと欺瞞だ。過去がなければ今はなく、今を経て未来へ至れる。そんなことは多少の分別があれば誰もが知っている。それでもなお分からないふりをしているのは、目を覆い、耳をふさぎ、鼻をつまみ、思考を断ち――見栄と慣習に眠るうつけ者だ。しかし。分かっていながら愚かさに縛られることもまた、珍しくないことだった。
 力があれば、この共同体では認められる。ひとを動かす弁舌、そして「範囲」をわきまえた知恵とがあれば敬われる。重宝される。俺にはどちらもなかった。力とは対極の身体と、それに根ざす逸脱と、異端・邪道とされる技術。それらに搦めとられた俺の作法に共鳴するものはない。それだけだ。そしてあるとき、耳をそがれ、仲間を見捨てた俺の立ち位置はこれまで以上になくなった。負け犬の逃亡者――そう、正面きって非難する、たいこもちも少なくなかった。言い返さなければ、甲斐性なしとさらに笑われた。俺はさらに、冷めた。
 だから、だけではないが、あるとき俺は訴えた。誇りが傷ついたと。誉れ高き民としての責務を果たす機会がほしいと。そのための方策を。
老人たちは満足げだった。誇り高き民としての責務を果たせと。威勢よく。昂然と。陶然と。半年のうちに、彼らに近づくすべを身につけ、見事復讐を果たせと。そのためのあらゆる方策を許すと。

 そうして、暗い洞穴を抜けるようにして。
 洞穴の先、暗く、眩しい異郷の人々と、異教のひとのもとに投げこまれた。そして復讐の仕込みとしての酒と**とを。
 やつらが覗き見ているであろうそのことを。俺は享受していた。
「ああ、ああ――僕を、」
 俺を溺れさせてください。俺の、俺の。

 庇護者を失った十数年前、暗さを知った数年前、弄した詭弁で逃げだした数ケ月。それはきっと。俺が引き寄せた洞窟の出口。見たことのない光、その先を塞いでいた影。

「僕は、僕はあなたが、あなたに」
 そこに至るのはあといくらもなく、まだずっと遠かった。

1/21/2024, 3:07:59 PM

 サンシェイド手前でその話を聞いたとき、俺は冗談か、そうでなければ悪ふざけなのだと思った。そんな思いが眉間のひくつきとして出たのは、自分でも気づいていた。そのひとはそう身構えるな、ただ飯を食うだけだ――そう言って笑った。
 その日はそのひとと、そのほか数人で酒を回し飲んだのだが、気がつけばテントに寝かされていたのは少し格好悪かったと思う。そのひとにはお前はわかりやすく嫉妬深いのだな、と翌日二日酔いに苦しみ、馬車に用意された床で笑われるはめになったので、さらにばつが悪かった。
 あなたのせいですよ――そう、色々なシチュエーションでこれまで何度口にしたことだろうか。あのひとに***かけ、あのひとのせいで*を失い、故郷を捨て、身体と、そして心を奪われ――今ここで転がっているのだから、滑稽で、まぬけで。それでも悪い気がしない。そんな胸の内を知ってか知らずか、そのひとは自業自得だ、とさらに笑った。

 そうしてたどり着いたサンシェイド。すでに連絡は行っているとのことだったが、疲れを取ってからのほうがいいだろうからと、その日は翌日に指定されていた。そう、向こうからの使いガラスによって返事が来ていたらしい。
 正直な話、気が重かった。それが避けられないのなら、さっさとその時が来ればいいのにと、なかばすてばちに構えていただけに憂鬱だった。ほんの少しだが、相手の顔は見ている。少し影のある、平凡な、それでも心根の優しそうな人だったと記憶している。聞けば薬師で、あのひとが裏切られたときに助けられたという話だったから、ひどい人でないはずだ。ただ、だからこそ、それだけにあのひととの関係が気になっていた。あのひとにとって都合の悪いところがあるならむしろそのほうがいい。椅子を蹴って立ちあがり、罵り倒してあのひとの手を引いて強引にでも帰ってくればいいのだから。しかしそうではなく、その相手がいい人だったら、あのひとにとって俺よりも「いい人」だったら、俺はどうしたらいいのだろう。もしふたりの間に割って入れないほど親しかったら。そう考えると、どうしたらいいかさっぱり見当がつかなかった。
 間の悪いことに、今日は団員として役割が割り振られてもおらず、悶々とした時間が長くなるばかりで。
「――」
 まだ、昼か。それでも食事には少し時間があるみたいだな。
 そう、毒づくように息をつき、俺は少し投げやりにベッドに倒れこんだ。

 そうしてようやく、ようやく訪れたそのとき。あのひとの迎えが来たので、俺は居心地の悪い椅子から立ちあがったのだった。
 すこぶる気の進まない邂逅を迎えるにしては、俺の格好はいつもよりちゃんとしていたと思う。さすがにそのために服を買い直したりはしていない。しっかりと服をつけ、髪を直し、くどくないよう香水のつけかたを慎重にした程度だ。あのひとはたぶんそのことでわずかに表情を変えた、のだと思うが、それでもいつもどおりに少し早足に俺の手を引いて宿を出た。
「そうかしこまるな。知っているはずだが、高貴な身分じゃないし、そこまで口うるさい女じゃない。普通にしていればいい」
 手を掴んだままサンシェイドの街を、人の波を縫うように歩くそのひとは、言葉に違わずいつもどおりだ。思えば、初めてのときも、こんな態度だったように思う。場違いにそんなことを思い出した俺は、むずがゆさを抑えてその背中を追った。余計なこと、昨日からずっと考えていた、相手とかわす最初の挨拶や、とるべき態度、何を口にし、口にしないかといったシミュレーションが、すべて砂の城のように流れてゆく。
「お前はあいつの顔を一度見ていたな。見たとおりというか、悪いやつじゃないさ」
「俺、僕は――」
「ふふ、言葉を間違うほどか。大丈夫だ、私がついている」
 ぶつかりそうになった少年を睨めつけたのだろう。そうして作った隙間を、俺の手をとったまま無駄なくすり抜ける。
 そうしているうちに、あのひとはひとつの扉の前で止まる。この地方によくある、いくつもの家のくっついた、他の地方には見られない様式の家、いや、一室の前。
 このひとに懇意にしている人がいること自体、まだ信じられない。馴染みの商人、馴染みのバーテンダー、そういう人なら幾人も見ているが、それとこの扉のむこうにいる人とは、違う関わりかたなのだと、俺は勝手に思っている。確信している。
「ヴィオラさん」
 乾いた喉を絞るように声を、出す。
「その人とは――」 
 ――どんな関係なんですか。 
 ――どのくらい親しいんですか。
 ――どんなふうに。
 問いたいこととどれも微妙に違う言葉が反響しては消えてゆく。捨てられてゆく。
 仕方がないので目の前のひと背に腕を回し、肩口に顔を埋める。
「どうした、怖いか?」
「はい」
 そう応えると、そのひとも俺の肩に腕を置いてくれる。
「そうか」
 それが「外」のものか、埋めた赤に染みついたものか分からない砂の匂いなのかは分からない。それでもそうしていると、少しずつ気持ちが和らいでゆく。
「――」
 通行人が波が迷惑そうに俺たちを避けているのがわかる。それでも、俺はそのひとから離れることができずにいた。

「――いいか?」
 どのくらい経ったか。涙に濡れた赤の主がそっと口を開いた。
「はい。すみません」
 最後にすんと鼻を鳴らして彼女から離れると、珍しくくしゃ、とした顔を作り、そのひとは笑った。そして取っ手を掴むと、黙って扉を開いた。
「待たせたな、ユディト」 
 自分の家のような顔で、そのひとは中にむけて声を発した。
「ええ、待っていたわ」
 想像していたよりも、ずっと***な声が、そのひとと俺を迎えた。
「カル君ね。ユディトです。よろしく」
 そうして差し出された手を、俺は自分で考えていたよりもずっとしっかりした手つきで握ることができた。

11/18/2023, 2:21:19 PM

 それは最後の選択だ。
 選んだんじゃない、でも、選ばされたのでもない。どっちでもない、境界の間の、無限にあるあいだのひとつだ。でも、それは必要だった。それだけだ。
 大勢の人たちが死闘を繰り広げるなか、目立たぬ場所で座る。誰も気づかないが、それがいい。ぽろん、と背負っていた得物を鳴らす。調整は完全にできているが、そんなことはどうだっていい。それはハートだと言う人もいるが、どうだっていい。*****を追う前に覚えたモノを得物にのせると、はるか前方で暴れるソレが奇声をあげるが、その意味に気づく者はいない。ぼん、と肉の爆ぜる音がするが、誰も気づかない。誰かが放った火炎魔法の効果だ。構わず指を動かすと、さらに大きな爆音が響く。
「何をしてるんです?!」
 いち早く異変に気づいたボスが声をあげると、数人がこちらを向いた。人一倍繊細で気の回るあの人らしいが、この場合余計なことを、といったところだ。ソレと同じように、ぼん、という破裂音とともに右足首の肉が爆ぜる音がする。激痛が走ったはずだが、前もって備えていた俺には何のことはない。ただただ目の前の怪物に憎しみをのせて弦を撫ぜると、さらに相手の首のひとつが爆ぜ、体液が飛び散る。
 死ね。滅べ。あのひとたちから離れろ――そう思いながら吟じる。
「お前!」
 遠くからあのひとの声が届く。お願いです、あなたは、あなたの望んだ先を進んでください。
 ぱん、とこめかみから上の皮膚がひしゃげる。でも止めない。ぎり、と歯を食いしばり、指に力をこめて弦を弾く。
 陸に貴様らの及ぶところなどない。貴様らにあやつられてなどなるものか。貴様らなどに、貴様らなどに。
「――」
 後ろから抑えこまれる。相当な力がこもっているはずだが、構わず弾き続ける。滅べ。爆ぜろ。死ね。死ね。――。恨みと憎しみと愛着と、悔しさと、形容しがたい気持ちと。
 あのひとと、あのひとたちと。
 腹の肉が彈け、どろりとしたものが下半身を濡らす。あのひとの手が血にまみれる。
「お願いです。あなたは、あなたの好きなことを」
 あなたの求めるものを追い求めてください。僕は、行き交う無数の旅人のなかのひとり。僕の勝手な一人芝居の相方。でも、もしかなったのなら、ずっとあなたのそばにお いて――
「  」
                   route N.

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