ドルニエ

Open App

 サンシェイド手前でその話を聞いたとき、俺は冗談か、そうでなければ悪ふざけなのだと思った。そんな思いが眉間のひくつきとして出たのは、自分でも気づいていた。そのひとはそう身構えるな、ただ飯を食うだけだ――そう言って笑った。
 その日はそのひとと、そのほか数人で酒を回し飲んだのだが、気がつけばテントに寝かされていたのは少し格好悪かったと思う。そのひとにはお前はわかりやすく嫉妬深いのだな、と翌日二日酔いに苦しみ、馬車に用意された床で笑われるはめになったので、さらにばつが悪かった。
 あなたのせいですよ――そう、色々なシチュエーションでこれまで何度口にしたことだろうか。あのひとに***かけ、あのひとのせいで*を失い、故郷を捨て、身体と、そして心を奪われ――今ここで転がっているのだから、滑稽で、まぬけで。それでも悪い気がしない。そんな胸の内を知ってか知らずか、そのひとは自業自得だ、とさらに笑った。

 そうしてたどり着いたサンシェイド。すでに連絡は行っているとのことだったが、疲れを取ってからのほうがいいだろうからと、その日は翌日に指定されていた。そう、向こうからの使いガラスによって返事が来ていたらしい。
 正直な話、気が重かった。それが避けられないのなら、さっさとその時が来ればいいのにと、なかばすてばちに構えていただけに憂鬱だった。ほんの少しだが、相手の顔は見ている。少し影のある、平凡な、それでも心根の優しそうな人だったと記憶している。聞けば薬師で、あのひとが裏切られたときに助けられたという話だったから、ひどい人でないはずだ。ただ、だからこそ、それだけにあのひととの関係が気になっていた。あのひとにとって都合の悪いところがあるならむしろそのほうがいい。椅子を蹴って立ちあがり、罵り倒してあのひとの手を引いて強引にでも帰ってくればいいのだから。しかしそうではなく、その相手がいい人だったら、あのひとにとって俺よりも「いい人」だったら、俺はどうしたらいいのだろう。もしふたりの間に割って入れないほど親しかったら。そう考えると、どうしたらいいかさっぱり見当がつかなかった。
 間の悪いことに、今日は団員として役割が割り振られてもおらず、悶々とした時間が長くなるばかりで。
「――」
 まだ、昼か。それでも食事には少し時間があるみたいだな。
 そう、毒づくように息をつき、俺は少し投げやりにベッドに倒れこんだ。

 そうしてようやく、ようやく訪れたそのとき。あのひとの迎えが来たので、俺は居心地の悪い椅子から立ちあがったのだった。
 すこぶる気の進まない邂逅を迎えるにしては、俺の格好はいつもよりちゃんとしていたと思う。さすがにそのために服を買い直したりはしていない。しっかりと服をつけ、髪を直し、くどくないよう香水のつけかたを慎重にした程度だ。あのひとはたぶんそのことでわずかに表情を変えた、のだと思うが、それでもいつもどおりに少し早足に俺の手を引いて宿を出た。
「そうかしこまるな。知っているはずだが、高貴な身分じゃないし、そこまで口うるさい女じゃない。普通にしていればいい」
 手を掴んだままサンシェイドの街を、人の波を縫うように歩くそのひとは、言葉に違わずいつもどおりだ。思えば、初めてのときも、こんな態度だったように思う。場違いにそんなことを思い出した俺は、むずがゆさを抑えてその背中を追った。余計なこと、昨日からずっと考えていた、相手とかわす最初の挨拶や、とるべき態度、何を口にし、口にしないかといったシミュレーションが、すべて砂の城のように流れてゆく。
「お前はあいつの顔を一度見ていたな。見たとおりというか、悪いやつじゃないさ」
「俺、僕は――」
「ふふ、言葉を間違うほどか。大丈夫だ、私がついている」
 ぶつかりそうになった少年を睨めつけたのだろう。そうして作った隙間を、俺の手をとったまま無駄なくすり抜ける。
 そうしているうちに、あのひとはひとつの扉の前で止まる。この地方によくある、いくつもの家のくっついた、他の地方には見られない様式の家、いや、一室の前。
 このひとに懇意にしている人がいること自体、まだ信じられない。馴染みの商人、馴染みのバーテンダー、そういう人なら幾人も見ているが、それとこの扉のむこうにいる人とは、違う関わりかたなのだと、俺は勝手に思っている。確信している。
「ヴィオラさん」
 乾いた喉を絞るように声を、出す。
「その人とは――」 
 ――どんな関係なんですか。 
 ――どのくらい親しいんですか。
 ――どんなふうに。
 問いたいこととどれも微妙に違う言葉が反響しては消えてゆく。捨てられてゆく。
 仕方がないので目の前のひと背に腕を回し、肩口に顔を埋める。
「どうした、怖いか?」
「はい」
 そう応えると、そのひとも俺の肩に腕を置いてくれる。
「そうか」
 それが「外」のものか、埋めた赤に染みついたものか分からない砂の匂いなのかは分からない。それでもそうしていると、少しずつ気持ちが和らいでゆく。
「――」
 通行人が波が迷惑そうに俺たちを避けているのがわかる。それでも、俺はそのひとから離れることができずにいた。

「――いいか?」
 どのくらい経ったか。涙に濡れた赤の主がそっと口を開いた。
「はい。すみません」
 最後にすんと鼻を鳴らして彼女から離れると、珍しくくしゃ、とした顔を作り、そのひとは笑った。そして取っ手を掴むと、黙って扉を開いた。
「待たせたな、ユディト」 
 自分の家のような顔で、そのひとは中にむけて声を発した。
「ええ、待っていたわ」
 想像していたよりも、ずっと***な声が、そのひとと俺を迎えた。
「カル君ね。ユディトです。よろしく」
 そうして差し出された手を、俺は自分で考えていたよりもずっとしっかりした手つきで握ることができた。

1/21/2024, 3:07:59 PM