今日ですか?と訊き返した俺に、旅団長は急で申し訳ありませんが、と表情を曇らせた。
「たまたま道でオーナーの方と会って。本来来るはずだった奏者の方が来なくて困っているそうなんです。着いて早々お疲れでしょうが、行ってはもらえませんか?」
「――分かりました」
渋々頷いたのはたぶん伝わってしまっただろう。旅団長は重ねて頭を下げた。そして、夕方迎えに行くので一緒に行きましょう、と結んだ。
素人ながら、奏者として評価してもらえるのはありがたいと最近思う。非力なため、戦うことの難しい俺がここにいるのはたまに申し訳なく思うし、倒した魔物の素材が大きな収入源になることを聞かされてからはあの技術もあまり意味をもたなくなってしまったので、いよいよ団で埋没するような感覚をもつようになってしまっていた。だから、こうしたかたちで団に役立てるのはありがたい、と思うこともある。ただ、今日はできれば予定を空けておきたかったのだ。
「仕方がないか。今日合流できるかどうか分からないって、言ってたしな」
そう自分に言い聞かせるようにして椅子から立ちあがると、俺は預けられていたギターの調律だけでもしようと、先日買ってもらったばかりの赤い革張りのケースを手にした。
小雨の降るなか旅団長に連れられて酒場を訪れた俺を酒場のオーナーはやや大げさな態度で迎え、奏でてほしい種類の曲をいくつか挙げた。俺はケースからギターを取り出して短くつまびきながらオーナーと演目を詰めてゆく。オルステラの曲はそれほど多くは知らなかったのだが、案外なんとかなるということを、俺は学びつつあった。
酒場の雰囲気が俺は好きだ。
辛気臭く貧しい故郷にはそんなものはなかったし、陽気であり、悲しくもあり、猥雑であり、さまざまな物語の生まれる酒場という場所がとても刺激になった。半端に禁欲的な故郷では、音楽は人によっては不道徳なものと考えていたから、この特技をもっていることで嫌な思いをすることもあった。だからオルステラに来て、音楽も相性のよいこの技術も、ここで求められるものだと気づいたときはなにか暗示めいたものを感じたのを憶えている。
そんな喜びをこめて俺はギターを奏でる。旅団長とオーナーが同じテーブルで頷きあっているのが見え、俺は少し大胆に感情をギターのせる。音楽は心だと言う人が結構いる。それは半分あたりだし、外れだ。どこまで気持ちをのせても補えない拙さはあるし、渋々弾かれる曲は美しくても鮮烈さはない。それに――
酒場の扉が開き、新しい客が入ってくる。長旅を超えてきた旅人か、少し足音に疲れが感じられる。そんな彼に、俺は歓迎の気持ちを向けた。
演奏を終えた俺は旅団長のいるテーブルに向かう。オーナーは途中で満足したのか、すでに席を離れていたようだ。もうひとり、あの疲れた旅人が同席していることに俺は意外に思い、挨拶をして座る。
「なんだ、気づいていなかったのか」
「え――」
聞き憶えのある、いや、もっとも馴染んだ調子の声に、俺は出されていた水割りに口をつけようとしたまま旅人に視線を送った。
いや、だってこの人はたしかに男だったはず――
「ふふ、では私はこれで。あまり羽目を外さないでくださいね」
そう言いながら旅団長は席を立つ。俺は旅人から目を離せずにいる。旅人はそこでようやくマントを脱いだ。その下からあらわれた人は――
「こら、やめろ馬鹿」
思わず手をとって口づけをした俺の手を、その人は軽く叩いた。
まったく、その大げさなのはどうにかできないのか――そう言ってその人は自分の手に唇を当てた。
轟音で目が覚めたようだ。休日の昼下がり、したいこともなく、するべきこともなかったから、時間を捨てるために眠っていた。が、今おそらくしたいことが訪れたようだ。耳をそばだてていると、すぐにそれは訪れた。
ばらばらと屋根や窓を叩く雨粒の音。
来た来た来た。
急いで外を歩けるだけの服を着て、俺は扉を体で押し開けた。すぐに大粒の雨が服に染み込み、重さと動きにくさをもつ。少し遅れて、垂れた髪の先から雨粒だったものが顔を伝って落ちてゆく。目に入るのは閉口するが、それはそれで面白い。ああ、髪を結ってなかったな。まあいいか。
アパートを離れて坂を下り、俺はずんずん歩く。歩幅を広く、風を切って、もっと水の音の聞こえる方へ。天気予報を聞いていたのか、大ぶりの傘を持ったワイシャツの男とすれ違うと、彼は驚いたようにこちらを見ていた。
ジーンズがすっかり水を吸い、やや歩きづらくなった頃、俺は川べりに出た。
すっかり荒れた川面を眺めながら、川上を指す。逆らうことに意味はない。どっちでも同じことだ。こんな日にこんなところを歩く者はないから、どこまで行ってもそこは俺だけのものだ。そのはずだ。雑念もなく、俺はひたすら歩く。いや、あれは何だ。女?男か?遠いのでどちらか分からない。赤いレインコートの人間がこちらに向かって歩いてくる。まあ関係がない。知らない誰かだ。150m、130m、105m。まだ顔は分からない。80m、60m。どっちだろう。男のようにも女のようにも見える。30m、15m。やっぱり分からない。若いのには違いがないけど。そいつはすっとコートのスリットに手を入れた。それはポケットではなくスリットだ。よく分からないがそうなんだ。そういうものもあるんだな。5m。手が出てきて、すらりとしたものが手に握られているのが分かる。あれはナイフか、変なやつだな。先がやや幅広い、あまり見ない形をしている。見せつけているわけじゃなく、自然に下げられたナイフを俺は見ていた。
すれ違う。ほらな、何もないだろう?関係のない誰かが雨の日にナイフを持っていた、それだけだ。その瞬間。赤いコートは俺の後ろから組みつき、喉笛をさっと撫でた。撫でた?赤い飛沫が俺の首から吹き出すのが分かる。なぜ?わずかに混乱し、振り向くとそいつは無表情にこちらを見ている。痛いぞ、と言おうとしたが、声にはならなかった。赤、血は勢いよく吹き出すが、その意味はよく分からない。ナイフがコートの裾で拭われ、スリットの中に消える。そしてそいつは何も言わずに俺が来た方へと去っていく。そうか、俺もそろそろ帰るかな。少し寒いし。そう、そうだな。でもどうするんだ、この血は?さすがに町中を歩くにはこの姿は少し目立ってしまうだろう。うん?よく分からない。何かおかしい。歩きすぎて疲れたかな。
俺は近くの階段に座って少し考える。この血が邪魔だ、どうにか隠せないかと。そのうちに眠気が襲ってくる。さすがにここで眠るのはちょっと非常識だ。でも、ちょっと――。眠い。耐えられない。――だから、ちょっと。寝る。寝かせてくれ。昨日は遅くまで課題をやっていたから。――寝る。寝る。
そういうんじゃないんだよなぁ、と彼は思った。目の前にはどう言ったらいいのか、とテーブルに肘をつき、両手の指を組んでそこに額をつけている旅団長。
「あなたがどんな風に捉えているのか分かりませんけど、ともかくあまりおおっぴらには喋らないでください。さっき言ったように、そういうものでは――ないので」
言っている旅団長のほうが困惑している。最後のひとり、彼を「散々な目」に何度も遭わせている張本人は涼しい顔をしている。言っていいことと悪いことは言い聞かせてある、と。口止めする部分がずれている、と旅団長は頭を抱えていたが、彼には話がよく分からなかった。
彼の故郷ではそれを語ることはタブーではなかったし、少なくとも男性がそれを語るときに、こと相手のことを慮っていたかというとそうでもなかった気がする。いずれにせよ自分には早いか、縁の薄いことだと思っていたから真面目には聞いていなかったし、聞かされて興をもよおすこともあまりなかった。オルステラも同じかどうかは知らなかったし、だから秘するべきことだというならあえて逆らいたいと思っているわけではない。ただ、彼の見聞きしてきた範囲で考えるに、どうにも一貫しないものを感じさせていたため、結局それらの情報をどう扱えばいいのか量りかねていたというのが正直なところだ。片方でひどく関心をもっているかと思えば、もう片方ではタブー視するし、それに対して率直であるほうがいいということもあれば、控えめなのがいいということもある。だから分からなかったのだ。当事者である彼女から伏せるように言われたことは守っているつもりだったから、旅団長にこうして叱られるのは意外だったし、言うことにも彼の思っていることとははっきりとしたずれがあったから、言われたことに諾々と従うのにも違和感があったのだ。もっとも旅団長の口ぶりから推し量るに、彼女自身もどこかすっきりとしないものを抱えているのはなんとなく分かったので、いい加減に聞き流すこともできずにいた。
そして彼は自身がそれをどう捉えているのかを考える。彼の故郷の文化に照らすと、彼のスタンスは異常である。が、彼自身はそれについてはなはだ懐疑的だったし、そのたびにああいう目に遭うことには却って充足を感じている。安心というか、再認識というか、いかにも自分らしい気がするのだ。いや、「彼女に」そういう目に遭わされることに強い納得を覚えていた。たぶん相手が彼女でなければ彼も抵抗したはずだし、怒ってすらいただろうと思う。そして彼女にとってそれは遊びというのか、気晴らし程度というのか、おそらくそういう感覚でいるらしいことにも彼は納得している。それもどうやら異常らしいのだが、それでもそれがしっくりくるのだ。ひと言でいえば惚れているのだ。それはもう熱烈に。
「ともかく、それそのものを止めるつもりはないのですが、中身はなるべく喋らないでください。その、真似する人が出るとは思えませんが、余計な好奇心にさらすこともないでしょう?」
「余計な、好奇心…」
彼は彼女に視線を送ると、彼女は口の前で指を立ててみせた。
海の底があるのか、ないのか。
そんなことが争われていた時代。そんなことを俺は夢想する。答を知りようがなかったから、そこになんだって思い描けた。怪異がいた。龍宮城があった。クラーケンやシーサーペントが、とにかく知らないものがいた。
俺たちの時代ならそれはたとえば宇宙のようなものだ。果てや始まりを計算できても、その目でお目にかかれることはない。本当は何があるのか分からない。
でも、俺たちはタコのような異星人を思い描けない。巨大昆虫がありえないことだって説明できてしまう。代わりに手に入れたのは硫酸の雨や窒素の海だ。目を、耳を閉ざさなければロマンもへったくれもない。
だから俺は海に入った。愚か者のふりをして、時代遅れのサルガッソーやアトランティスを叫びながら。
でも、本当の理由なら隠せたかな。
ふふ、息ができねえ。身体が重い。さあ、海。弓を引け。牙を剥け。人間に。俺を殺せ。ざまあみやがれ。
そこらの連中は死んでも灰になるだけ。地球に何も返せない。俺は違うぞ。この身体、誰かがこやしにするんだ。サメか?エビか?プランクトンか?なんだっていいさ。
だから俺は最後の最後でもっとましになれたんだ。
でも、ちくしょう。最後の最後まで苦しいな。死ぬのがこんなに苦しかったなんて。そんなことは、計算できないほうがよかったな。
――さよならだ。
鳥のように、彼らの命は軽かった。
デノミが繰り返され、野菜スープのほうが大事になった。
命は銃弾のようなものだった。意思や思いや言葉はさらに安かった。
だったというのに。
彼らの、たった数代あとの代理人たちはまったくそんなことが分からないらしい。
言葉は金で買うものですらなくなったらしい。睨みさえすればどうにでもなるらしい。
命と生活は数字に置き換えられるらしい。数字に重さなどない。鳥どころか、蛆虫より軽いのだろう。
未だに、白と黒とには違いがあるらしい。その欲望にすら軽重があるそうだ。
だったら。
そんなところに住みたくなどないだろう?
そんなところに自分の愛し子など生み落とせるものか。
そんなところにどんなありがたみがある?
無血革命か、流血の革命か。問うていられるのかい?
でも、その革命は、きっと市民革命でなければならない。
サムライの子を殺せ。