自分で選びたかったのさ。リュートを背負った青年は杖をくるりと回した。不便だろ、と問うと、まあね――と彼は椅子に収まり、水出しはありますか、とウェイターに訊いて、数度のやり取りの末にじゃあそれで、と話を締めた。
だからって自分で潰すことはないだろう、と言うと、そうだったかもね、となんてことのないように彼は応えた。ただ、おかげでつまらないことを訊かれないし、好き勝手言ってもあんまり怒られないよ、今は昔より歩きやすいしね、と続けた。それにしたって、と思う。あまりにつり合わないじゃないか。
まあ観念的というか、得手勝手な言い草だろ、澄みきった瞳って。だから潰したのさ、俺は。それにさ。そう言って彼はサングラスを外す。初めて見たわけじゃないけど、やっぱり怖い。
――本当は見える、って言ったら君はどうする?
低く、低く、可能な限り低く保たれた温度のもとで彼は眠り続ける。夢を見るのか、見ないのか、それは誰にも分からない。時が来るまで眠り続ける。それが彼の選んだ仕事だ。まだ夢物語の技術、安全性も心身への影響も分からないシステム、冷凍睡眠。
眠りにつく前に彼と話した技師が部屋に戻ってきて僕らの顔を見た時、慌てて顔を作り直したのを僕は見ていた。たぶんみんな見ていた。彼は不機嫌に椅子に座ると、そんなもんなんだろう、とだけ言って、カルテを打ち込みはじめた。その彼はもういない。すぐに辞めていったから。でも、初期のメンバーはもう僕だけだ。僕だってもういい加減歳になっているから、来年にはお役御免だ。あとは彼が無事に目覚めるのを望むだけ。どうなるかは誰にも分からない。――本当に?
昏々と眠り続ける彼の暗室の方を見やる。本当に彼は眠っているのだろうか。起きている?何十年も、あんな寒い部屋で、何も食べずに、何もせずに?そんなことがあるはずないのは分かってる。でも、暗室には誰も入れない。だから結局分からないのだ。ぞっとして妄想を振り払い、詰め所に戻る。
彼はあと数十年眠り続ける。嵐が来ようと、凪が来ようと、国が栄えようと、滅びようと。金と科学が生きているならば。
祭ってさ、
うん。
興業なの?慣習の維持装置なの?それとも、
ちょっと待った。
なに?
あんた、また面倒なこと考えてるね。
考えるのに建前を使えるほど器用じゃないよ。
.....。でもさ、それ、祭の楽しさをばらしちゃってるというか。
うん。だから君に話してみた。
うん?
いい加減なこと言ってきれいな部分を見せあうだけの相手じゃない、ってこと。
君も大概たらしこんでくるね。嫌いじゃないけど、案外ベビー級な――愛情表現するんだね。
愛情表現いうなよ。
そういうのを愛情表現っていうんだよ。いや、だから嫌いじゃないのさ。
恥ずかしくなってきた。もういい。この話題中止。ああもう、手を握るな。
世界は優しくなんてない。優しくしなければ、優しくなんてならない。そんなこと、早ければ十になる前に分かるだろう。遅くたっていずれ分かる。だから、頑張って、頑張って、頑張って。時にずるく、時に不誠実に、僕らは優しい世界を作るのだ。演出するのだ。そうでなければ悲しいから。悔しいから。立ちゆかないから。家族で、仲間で、セクションで。村で、都市で、国で、世界で。境を作って、せめてそのなかでもって。
それでもそれを侵すのもいる。曰く世間、曰く客、曰く他人、曰く。都合よく、随意に、合理的に、政治的に、大義をもって。いや、その逆か。
だから僕らは神を作る。描く。夢想する。慈悲深い神を、あるいは峻厳たる神を。正しきものには安らぎを、悪しきものには容赦なく。思い描き、共有し、仮託し、権威を与えて。ただし願いは叶わない。曰く届かなかった、曰く日頃の行いが、曰く、曰く、曰く、曰く。ああうんざりだ。だから僕らは神を呪う。冒涜する。汚す。無効化する。権威を否定する。そうしてすがって、引いて、もたれて、分析して、理屈をもって切り刻んで。もうすっかりおもちゃだ。
だからソレが出た時も、ホンモノの髪、あ、いや神かは判らなかった。それが前ぶれもなくあらわれ、たったひと言言ったんだ。カミサマらしく、厳然と。
君たちは自由だ。
だから僕らは逃げたんだ。ひとつの直観のもとに。
誰かのためになるならば。
――仮定の問には答えないよ。
――政治家みたいなこと言わない。
冗談だよ、と君に睨まれたので謝り、考えを巡らす。けれど、答はそのへんにも、どこにも、頭の中にもちょっと見あたらなかった。
だってしょうがない、誰かために、誰でもない誰かのためにしたいことなどそうそうない。目の前で怒っている君に、独立して都会に出たきょうだいに、あるいは故郷かどうかも分からないあの町で別れた仲間に、したいことなら色々ある。そうでなくてもどこかで飢えてる人ためには寄付だってするし、地域猫の活動とか、引退馬の世話をする牧場とか、そういうのにならやっぱり多少の額なら出す気になれる。だから名前も顔も知らないから、なんにもする気になれないのではない。そのへんで財布を拾いでもすれば、がめずに交番に持っていく程度の根性ならあるさ。でも、それらは「ため」っていうより起こったことに対するリアクションだろう?君が聞きたいのはたぶんそういうことじゃない。でも、僕から世界に関わっていく理由がないんだよ。僕は世界を愛さない。分かってるだろう?分かっていてそんなことを訊くのだから、君もたいがい酷いじゃないか。だからちょっとだけすねた調子を声にのせて、君にならしたいこともあるんだけどね、なんて言うと、君は呆れたように、それは何?なんて言う。試すように、挑むように。僕は黙って立つと台所でがりがりミルを回し、二杯分のエスプレッソを用意する。一杯はグラスに氷を満載したのに注いで、もう一杯は熱いまま。熱々のほうを君の前に置くと、君はちょっとだけ口もとを歪めて、ひと息でそれを飲み干して、熱かった、と言うと、僕の冷えたコーヒーをひと口、堂々と盗み飲んだんだ。