誰かのためになるならば。
――仮定の問には答えないよ。
――政治家みたいなこと言わない。
冗談だよ、と君に睨まれたので謝り、考えを巡らす。けれど、答はそのへんにも、どこにも、頭の中にもちょっと見あたらなかった。
だってしょうがない、誰かために、誰でもない誰かのためにしたいことなどそうそうない。目の前で怒っている君に、独立して都会に出たきょうだいに、あるいは故郷かどうかも分からないあの町で別れた仲間に、したいことなら色々ある。そうでなくてもどこかで飢えてる人ためには寄付だってするし、地域猫の活動とか、引退馬の世話をする牧場とか、そういうのにならやっぱり多少の額なら出す気になれる。だから名前も顔も知らないから、なんにもする気になれないのではない。そのへんで財布を拾いでもすれば、がめずに交番に持っていく程度の根性ならあるさ。でも、それらは「ため」っていうより起こったことに対するリアクションだろう?君が聞きたいのはたぶんそういうことじゃない。でも、僕から世界に関わっていく理由がないんだよ。僕は世界を愛さない。分かってるだろう?分かっていてそんなことを訊くのだから、君もたいがい酷いじゃないか。だからちょっとだけすねた調子を声にのせて、君にならしたいこともあるんだけどね、なんて言うと、君は呆れたように、それは何?なんて言う。試すように、挑むように。僕は黙って立つと台所でがりがりミルを回し、二杯分のエスプレッソを用意する。一杯はグラスに氷を満載したのに注いで、もう一杯は熱いまま。熱々のほうを君の前に置くと、君はちょっとだけ口もとを歪めて、ひと息でそれを飲み干して、熱かった、と言うと、僕の冷えたコーヒーをひと口、堂々と盗み飲んだんだ。
あの日出ていった彼のために残していたかごを久しぶりに出した。帰ってくるところはここだと、待っているぞと長いこと軒下に吊るしていたかごは、朽ちてはいないがどうしてもみすぼらしくなっていた。もう無理だ、帰ってきやしないとしまおうとするたびに、悔しそうに反対していたルームメイト、出ていって久しく、生きているかも分からない彼が、それでも持っていくのは苦しいからと置いていったかご。ほこりやくもの巣よけに袋に入れていたから、汚くもないし、むしろきれいなものだと思う。雨風にさらされたかごは――さすがににおいはしないか。代わりに汚れてくれた袋には感謝。
彼もさすがに生きてはいまい。天寿をまっとうできているなら、案外生きていてもおかしくないが、いや、奴は鈍くさかったからな。食事もへただったほどだしな。すんと鼻で笑って、かごを覗く。面影は見えないか。くせのある羽の輝きは思い出せるが、はてどんな顔だったか。まあ鳥なんだから、鳥臭いのだろう。思い出せない自分には失望もしない。突然、ポーの鴉の台詞がよぎる。――またとない。そうだ、またとないのだ。彼の面影も、彼の口癖も、彼と彼の息づかいも。そう思うとようやっとさみしさを俺は感じ。息を吸ったら――
あくびが出た。
それはたぐり寄せなければこないものでもあり、忍びやかな巾着切りのようにいつの間にか懐に滑り込んでくるものでもあり、臓腑が破裂するほど蹴りつけられるような思いをしてもあっけなくこぼれ落ちてくものでもあり、また怨霊のように、妖怪のようにべったりと貼りついているものでもあり。
だからそんなにありがたがるものでないのかもしれないし、プロパガンダのような、気持ちの悪く美化されたものかもしれず、結局はよく分からないものらしいと、彼はそれを歳をとるごとに曖昧になっていくもののひとつに数えている。
ただ、ひとつ確かだと思っていたのは、「馬鹿な選択をするいいわけになること」だったらしい。らしいというのは、もう彼もいい加減耄碌していて、まともに考えることができていないようだと、彼のわずかに残った仲間が教えてくれたからだ。そんな彼が逝ったのは、もう半世紀も前の話。だからもう、誰もそんなことはどうでもいいのだ。ひそかに。ひそかに。私が私の骨を撒いてもらったとき、その不確かなことも死に絶えるのだ。
暗闇で密かに開き、時には月明かりでぼうと浮かびあがり、そして空の白みはじめる前にはすでにしぼみ始めている、ヒトの目に触れることのない、そんな花のもとで死ぬことに、彼は、あるいは彼女は納得しただろうか。その花の茎を醜く握りしめた彼にそう問うのは野暮なのだろう。その骸が無粋な力学によって衆目に晒されなければ、彼は、彼女は次の夏にはその花になっているのだろう。いや、なっていてほしい。全てを見渡す御座にあって、それは思った。そしてそれがかなうことはないと、それは知っていた。なぜなら。
耳に男の声が蘇る。おまえは自分の意見をいえると思っているのか。希望が通ると思っているのか。ただ俺の命令を聞いて、それに従えばいいんだ――と。