行かないでくれ。そう言った気がする。上手く言えたかも分からない。声が出ていたか、それさえも。
焦燥感に駆られて口から出た言葉は、まるでガキが駄々を捏ねるかのような無意味なものだった。
コイツは俺を置いてどこかへ行く。それだけは分かっている。何処へ行くかは知らない。ただ引き留めなければならないことは分かる。焦っていた。
『そんな顔すんなよ』
困ったように言う声色は、まさに子供に言い聞かせる母親のようでもあった。
ただ。その男の声に俺は聴き覚えが無かった。
いや、俺自身の体にも違和感があった。着た覚えの無い服を着ていた。仰々しく手袋なんざはめて、宛ら映画の軍服のようにも見えた。
(今のは誰だ?)
疑問と共に俯いた顔を上げる。俺はその声の主の面を拝もうと、相手の名を呼んだ。
「ヒロ、朝だぞー起きろー」
スマホからけたたましいアラームが鳴り響いている。それを止めながら、彼女が俺に呼びかけた。
心臓がバクバクと鼓動を掻き鳴らしている。アラームのせいではないそれに、俺は困惑して言いかけた名前を呼んだ。
「……レイ」
「ん?おはよ。ちょっと、忘れてないよね?スーツケース買いに行くよ」
まだ寝転がる俺に怜が覗き込み怪訝そうに問う。
怜が海外派遣のボランティアに行きたいと言ったのはつい昨日の話だ。看護師として、多くの人を助けたいと。短くて半年、長ければ数年帰って来ないらしい。
「ああ…うん」
「ほら、早く起きて。ついでに朝ごはんさ、どっかで食べよ」
カーテンを開けながら怜が俺に微笑む。母親のようなそれに、俺は何故かずきりと胸が痛んだ。
行かないでくれ、とは何故か言えなかった。怜の提案が立派な行いで、誇るべき事だったからだ。
けれど彼女が向かおうとしている土地は、お世辞にも治安が良いとは言えなかった。部外者の俺がついて行ったとて、邪魔になるのは明白だった。
けれど夢の中の俺とリンクして—いや、この場合は夢の中の俺が勝手に口を滑らした、が正しい。
「行くなよ」
不意に口を吐いた言葉が宙に舞う。誰の言葉か分からず、俺は怜と顔を見合わせて驚く。
同時に理解する。俺が言ったのか。理解した瞬間、顔がガッと熱くなる。汗が噴き出る。
怜も同様に驚いたものの、俺が黙るのを見るなり困った顔で笑った。
「そんなこと言わないの」
子供に言い聞かせるように告げられた言葉が、何故か夢とダブって聞こえた。
まだベッドから降りない俺に、怜は「うりゃ!」と茶化して抱き付いた。
「お土産話、いっぱい持って帰るからね」
耳元で優しくそう言う怜を、俺は何も言えず力一杯抱きしめた。
≪もう一つの物語≫
雷鳴が轟く。
降り止まぬ雨が辺りに不快な音をばら撒き続けている。ひやりとする空気が鼻先を掠め、私はその冷たさに身震いした。
この時期の長雨は厄介である。闇は辺り一面を覆い、雨音は静寂を邪魔してくる。
夜目の効く私でさえも、目を凝らさねば遠くを見止めることが難しくなる。
なればこそ、常日頃から周囲に気を張り—。
『うぉわっ!?びっくりした……ゆかりさん、いつからそこいたの』
明滅が一つあった後、辺りがパッと明るくなる。その先には我が同居人—リュウノスケがいた。
かつて外を闊歩していた私を、あろうことか抱え上げ攫っていった極悪人である。
飯を与え、寝床を用意する献身っぷりに致し方無く同居を許しているが、飯を確保するためかしょっちゅう外へと繰り出している。その癖私の外出は許さない狭心さ。
目を細める私に情け無い声をかける。私より図体がデカい癖していつも私に驚いている気の小さい奴だ。
『どしたん?ゆっちゃん何か見つけたん?』
窓辺で外を確認していた私にリュウノスケが何か問いかける。
この『どしたん』という問いかけを奴はいつもする。大方『何か不具合があったか』とか『何をしている』という意味だろう。
私は答えた。
「見よ。酷い雨だ。外には出るなよ」
『雨だねぇ。朝には止むといいねぇ』
私の頭を撫でながらリュウノスケが何かにゃむにゃむと答えた。暢気な声色なのを見るに、恐らく私の忠告は理解していない。なんて知能の低い生き物だ。
「リュウ、暗がりで隙を見せるな。一瞬で狩られるぞ」
『ん?何?餌ならあと30分で出るよ』
エサ、と言った。私が食事を催促していると思っているのか。なんてポンコツなんだ。
嗚呼、駄目だこの生き物は。良くここまで生きてこれたものだ。やはり私が見張ってやらねば。
—故に私は目を光らせる。この暗がりの中、この低脳なデカブツを守るために。
≪暗がりの中で≫
元来、ウォーカーは紅茶が好きでは無かった。
竹馬の友であるジャンが生粋の紅茶信者であったが為に、気がつけば飲む機会が多かっただけだ。
そもそも紅茶は嗜好品であり、原産のトルマリスタン公国から関税の高いフロイト連邦を経由しなければ手に入らない。所謂、貴族や有産階級が嗜むものだった。
我がコバルタ共和国には珈琲の文化が浸透しており、仕事終わりの農夫でさえも飲めるほど普及している飲料であった。
焙煎された珈琲は香り高く鼻腔をくすぐり『飲みたい』という欲求に訴えかけてくる。ウォーカーもあの香りには抗い難い官能的な魅惑を感じていた。
だが実際飲んでしまえば、木炭をすり潰した濁水のような苦味。砂糖を入れなければ飲めたものではない。それが珈琲への感想だ。
麗らかな午後の日差しと共に、ウォーカーは自身の執務室にいた。お互い時間が取れた為、副官のジャンがこうして紅茶を淹れてくれている。
パチンと懐中時計を閉じ、ジャンがポットへと手を伸ばす。この蒸らす時間さえ勿体無いと感じてしまう辺り、やはり自分は紅茶に”向いていない”。ウォーカーはしみじみ思う。
鼈甲色の液体を仰々しく注ぐ姿は、宛ら宮殿遣えの執事のようでもあった。
寸分も無駄のない動きで紅茶を差し出すジャンの表情は、穏やかであり誇らしささえ滲んでいた。
カップを口元へ運ぶ。燻る湯気には華やかな芳香が纏わりついていた。
この、何とも形容し難い複雑で且つ独特な香り。ウォーカーはどうにもこの香りが苦手だった。
だが飲んでしまえば何ともない。ただの”美味い茶”であった。
ほう、と一息つきウォーカーはぼやいた。
「……この間、レイが入れた紅茶を飲んだんだ」
「おや。経過は如何ですか」
「ぼちぼちだ。左手の治療の一環で、日常生活でも使うよう言われてるんだ」
レイがあの激戦区から戻ったのは鋼鉄国との停戦協議後から数ヶ月経った先月だ。満身創痍の状態からよくあそこまで復活したものだと医者も目を見張る程であった。
「で、練習がてら紅茶を淹れたんだ。ほら、お前に貰ったえらく高い茶葉だ」
「ああ!あれを淹れたんですね。どうでしたか?香りが良かったでしょう」
「いや、クソ不味かった」
苦い顔をしたウォーカーに、ジャンは驚いたあと何かを察したのか小さく笑った。
「…煮出し過ぎて苦かったとか?」
「うん。えらく濃くてな…香りも酷かった。入れ手で変わるってのは本当だったんだな」
一杯目は酷く薄かった。だからウォーカーは『遠慮せず茶葉を沢山使え』と言った。それが悪かった。
二杯目は紅茶とは思えないほど黒々とした液体で、エグ味と紅茶特有の香り、苦味が変わる変わるやって来てとても飲み干せなかった。
「だから紅茶に関してはお前の淹れたものに限るな」
「それは…お褒め頂き光栄です」
苦笑するジャンにウォーカー情けなく笑って返す。
好きでは無いはずのその香りが、今のウォーカーにはひどく安心出来るものになっていた。
「彼に淹れ方、お教えしましょうか?」
「やめろ。練習台にされる俺の身にもなれ」
苦言を呈するも二人して小さく笑った。ようやく戻った日常がそこにはあった。
ウォーカーはまた一息ついて、馴染み深い味を一気に飲み干した。
≪紅茶の香り≫
「母さん」
それだけ言ってまるで岩壁のような、男梅の様に眉間に皺を寄せた男—善爺さんは湯呑みを握りしめたまま新聞から顔を上げなかった。
齢八十九歳。昨年米寿のお祝いにと着せられた黄色のちゃんちゃんこを羽織っても、そのぶすくれた表情をぴくりとも動かさなかった。
さて、この無口で無愛想で岩の様に動かない善爺さんが、生涯の伴侶と出会ったのは戦後間も無い頃であった。
馴染みの床屋のおかみさんが、朴訥で浮いた話の一つもない善に是非合わせたいと、床屋の斜向かいのお隣に住まう娘、絹江を紹介した。
この絹江という娘、大層小柄でまだ中学にも上がってない様にも見えたが、今年で十三になったとのこと。
十七になったばかりの善からしてみれば、第一印象は「ガキじゃないか」のただ一点であったそうな。
だが紹介された手前、善も顔だけ合わせて帰るわけにもいかず。何度か顔を合わせれば相手も己の無口さに呆れて断るであろう、と善は踏んでいた。
しかし、想定外であったのは絹江の”おしゃべり具合”であった。善が黙っているのをいいことに、まあ良く喋る娘であった。のべつ幕なく実にかしましく、善はラヂオでも聴かされているかとさえ錯覚した。
挙げ句の果てには「あたし、五月蝿くないかしら?」と聞いて尚その癖は直らないときたものだ。
善は不思議でならなかった。どうして自分の様な仏頂面の男に話し続けて苦ではないのか、と。
そのまま絹江に問えば、彼女は頬を林檎のように赤らめてこう言った。
「父も母も忙しくて、妹も弟も皆まだ小さいから…だぁれもあたしの話なんて聞いてくれないの。友達も皆彼氏の話ばかりで…あたしそんなのいないから、あたしの話はつまらないって。でも、善さんは黙って聞いてくれるでしょう?嫌な顔もしないし、たまに頷いてくれる。だからあたし嬉しくて!」
善は思った。なら俺がこの縁談を断ったらどうするのだ、と。もう話を聞く者はいないのか?と。そう思うと、途端に不憫に思った。
「善さん。あたし、喋りすぎかしら?もしかして、嫌だったのかしら?」
絹江の問いに、善は思わず口走った。
「…聞くだけなら、別に」
「おじいちゃん!お茶なら自分で入れなよ!急須目の前じゃん」
孫娘が善に苦言を呈した。だかその言葉に答えたのは絹江婆さんであった。
「いいのよ。私が好きでやってるんですから。それにこの人は…」
善の手から優しく湯呑みを受け取ると、絹江は嬉しそうに言った。
「これしか言わない人だから」
ふふ、と微笑む絹江にため息をつく孫娘。それを尻目に善は呆れて内心ぼやいた。
(お前が喋らせないからだろうが)
≪愛言葉≫
さよなら大好きな人、ずっと大好きな人…
あの有名な歌をたまたま聴いた時、私は真っ先に喧嘩別れした友人を思い出した。
酔ってんじゃねぇよ。それが感想だった。吹っ切れた瞬間でもあった。
…決してこの曲のネガキャンではない。
10年来の友人だった。何をするにも一緒だった。
共通の友人達からは「熟年夫婦みたいだ」とさえ言われた。
だがある日「そういうのやめてや」という何気ない私の非難に、過敏に反応して逆ギレに逆ギレをかましてくれた。
「私も悪かったです。でも—」からの言い訳があまりにも保身に走った内容過ぎて、謝りたいのか私を非難したいのか全くわからなかった。
親友が話の通じない宇宙人に変わり果てた絶望感たるや。
挙げ句の果てに「縁を切ってくれて構いません」という何様だ?という迷言さえ吐き捨てられた。切りたいならオメェが切れよ。そうやって責任をこっちに押し付ける所が卑怯なんだよ。それが本音だった。でも言えなかった。
本音を言い合えるのが親友だと思っていた。
でも現実は言いたいことの三分の一も伝わらない。…懐メロばかりを例に出して申し訳ない。
大体うまく行ってる友人との会話は、8割私が聞き役で本音の殆どを飲み込んで口滑りのいい事を言っている事が多い。
多分それは相手もそう思っていて、持ちつ持たれつなんだとも思う。
そういう関係性に不満があるわけじゃない。時間を共有出来る上部だけの存在って大事だと思う。
それが大人な交友関係なんだと思う。
ただその根底が崩れると、上記のように拗れてコケる。コケると結構疲れる。私は人間として生きるのに向いてないのかなとさえ思う。
私が本音さえ言わなければ、拗れることはない。簡単だけど、結構しんどい。
そうした瞬間に思う。友達ってなんだろう。
少なくとも私には”疲れる”要因なのかもしれない。
……なんてね。まぁ冗談なんですけど。
≪友達≫