『街』
暗がりが街を襲っても、耐えない光がそれを防ぐ。
つまらない日常、変わらない場面。その中で、唯一街に彩られる様々な光だけが好きだった。
「ただいまー」
俺の声だけ侵食していく空間が、疲れた体を一層重くさせる。鞄をそこら辺に投げ捨て、ネクタイを緩め、そのままベッドにダイビングした。
このままねれそう。
ウトウトしながら重い瞼に身を任せ、さあ眠ろうかというところで、眩い光が視界に写り込んでしまった。
カーテン…
発声はされず、口だけが従って動く。
横になって再度起き上がるのは億劫なのに、一度気になってしまうと眠りにすらつけない性格なのが腹立たしい。
「繁華街」
そういえば好きだったっけな。繁華街の明かり。
ベランダの窓を開けると、硝子越しでは伝わらなかった輝かしさが、より伝わってくる。俺は胸ポケットに常備してある煙草とライターを取りだし、火をつけた。
「そろそろ帰るか」
片親で、ここまで育ててくれた母親を押し切ってまでした上京。今更何を、と言われてしまえば何も言い返せないけど、そろそろ俺の体は限界を迎えている。
どれだけ強いメンタルを持っていようと、毎日怒鳴られ残業させられ小言を言われ。そんな生活はもう続けていられない。
「あ、もしもし母さん?」
『どうしたの?こんな夜に…』
電話越しにも伝わってくる不安そうな声色が、俺の涙腺を緩めた。
「……もう、帰りたいなって」
涙を流すのをグッと堪え、自身を安心させるように煙草を安定剤として使う。
『お疲れ様、力になってあげられなくてごめんなさいね。これからはずっと傍にいてあげるからね』
この数年間、流したことのなかった涙が、ゆっくりと頬を伝った。
「…うん、」
『やりたいこと』
「ほら、もうそろそろ進路決めないと」
担任からも、親からも、何度口にされてきたか分からない言葉。その言葉を聞く度に悲哀感に苛まれる。小さい頃は堂々と語っていた夢というものも、大人に近づくにつれ薄れていく。夢なんて叶えられるはずが無いと理解してしまったのが、そもそもの原因なんだろう。
「どうして貴方はいつもいつも…」
いっそのこと、そう言ってくれた方が楽だったかも。親に左右される人生の方が、良かったのかもしれない。なんて言ってしまったら、それに苦痛を味わっている人に顔を合わせることさえ出来なくなる。
誇れる特技も、好きだと言い張れる趣味も、私には兼ね備えていない。
「私医者になるために、医大行ってくる!」
数少ない友達も、医者や教師やテレビ関係の仕事やら、高度な夢を追いかけている。それに見合う努力も才能もあって、私とは程遠くて。
『やりたい事は無理して見つけるものでは無い』
勉強を後回しに読んでいた本の中に、そんな言葉を見つけた。
ああ、なんだ、そんなことか。
そう思った。
今まで悩んできたことが全て無駄になったのに、何故か私の心は信じられないほどスッキリしている。
「あの、私─」
あさ
毎朝、目を開けばそこにあるのは大好きな彼の姿。今日も幸せだと、満ちた感情を抱きながら重い体を何とか起こした。
「おはよう」
私の一方的な朝の挨拶をあしらうようにして、背を向けて再度眠りにつく。私の言葉はぜーんぶ無視。でもそんな彼が大好きで、こんな朝を毎日飽きもせず続けている。
「あっ、今日外晴れてるよ」
昨日は土砂降りで、明日もそれが続くのかと憂鬱になった昨日の事なんて綺麗さっぱり忘れてて。
「気温も暑すぎないし丁度いいね」
ベランダの窓を開け、心地良い風を体全体で感じていると、私の隣を彼が横切った。
「ちょっと、地面まだ濡れてるよ?」
私の忠告を聞き流しながら行ったせいで、彼は水溜まりに手を突っ込み、飛び跳ね、私の足に爪を立てしがみついた。
「ほら言ったじゃん」
お手入れしてる綺麗な私の足が、見事に傷だらけ。まあそれを覚悟して一緒に過ごしている訳だけど。
「足拭いてあげるから」
平均よりも大幅に越えている体重。それを軽々に持ち上げるのは至難の技ではない。
「おっも……あんた、少しは痩せなよ」
睨まれた気がする。勘違いかな。
持ち上げた拍子に、彼の匂いが鼻腔をくすぐる。
「こんないい匂いしてたっけ」
「に"ぁ」
下手くそな鳴き声と、私の笑い声が部屋に響いた。
「なにが?」
それに返せるものは何も無くて、その言葉に対する答えだけを必死に頭の中で探していた。
「えっと…」
あー。えー。えっと。話せるのはその3単語だけで、繰り返す度に彼女の表情が曇っていくのが感じ取れた。
顔を見なくてもわかる。それ程付き合いが長かったから。
「ごめん」
結局はその言葉で場面を締めてしまう。
それは、いつも許されると思っているから。
「もういいや」
意外な言葉に驚愕しつつ顔を上げるも、もうそこに彼女の姿はない。
運動もろくにしたことが無い俺が走る姿は、さぞかし恥ずかしい事だろう。それでも彼女を追いかけるのは、多分まだ好きだからだと思う。確信は持てない。
でも、彼女には追いつけなくて。
「あ」
今初めて、彼女に捨てられたんだと気づいた。