『ところにより雨』
今日は僕たちの番らしい。
姉ちゃんが交通事故で死んだと、父さんから報告を受けたのが、つい10分前の事だった。
婚約者を紹介するため、群馬県にある我が家に、高速道路を使って向かっていた姉と婚約者の男性は、大型トラックに背後から衝突され、即死でこの世を去ったらしい。
遺体は潰れてぐちゃぐちゃで、もはや人の原型も留めていなかったそうだ。
トラックを運転していた54歳の男性は、軽度の打撲で済んだとか、どうだとか。
だけど怒りや悲しみは湧いてこない。
まだ、何も脳が理解していない。
いや、理解したら壊れると、分かっている。
大好きな姉と二度と言葉を交わせない悲愴と絶望。
危険運転で人を殺しながら、自分は軽傷で済んだ社会のゴミクズに対する怒りと殺意。
そんなもの、認識してはいけない。
認識したら壊れてしまう。
だけど、どうにも、抑えきれそうにない。
母が発狂したように泣き叫ぶ声が、家の中に響いている。
父が静かに憎悪と憤怒を燃やす気配が、家屋を震わす勢いで漏れ出ている。
不意に、僕の右頬を、雫が伝っていた。
ポタポタと、畳の上を濡らしていく。
そうか、今日は僕たちの番なのか。
気まぐれに降り注ぐ絶望は。
僕たちの元に落ちる事を、決めたらしい。
『特別な存在』
ちりりり ちりりり。
鈴虫たちが捧げる恋の唄。
あなたに届けと夜空へ響く。
ちりりり ちりりり。
そこに居るのに、どこにも見えない。
届かぬ返歌の光は闇の中。
ちりりり ちりりり。
会いたいな、会いたいな。
寂しいな……寂しいな……。
ちりりり ちりりり。
明日になったら会えるかな
明後日はもっと綺麗だろうな。
形を変えては闇に溶け。
大きく弧を描いて光を放つ
ちりりり。
この世界で、ただ一つ。
特別なあなたが愛しいな。
『バカみたい』
あーあ、私ってバカみたい。
だって、なーんにも仕事ができないんだもん。
だって、少しだって頭がよくないんだもん。
だって、誰と話しても会話についていけないんだもん。
だって、もう生きていても苦痛しかないし、毎日のように自分の顔を殴って、手足を切り裂いて、死にたい、死にたいって、願い続けているのに。
まだ、生きてる。
まだ、死んでない。
あーあ、私ってバカみたい。
もう死んだ方が楽だって、分かってるのにね。
なのに今日も手羽先を食べたの。
美味しいって、思ったの。
お腹はそれでも、空いちゃうの。
その後に、リストカットをしたの。
このまま出血多量で死にたいって思ったの。
でも怖くなって止血したの。
あーあ、私ってバカみたい。
美味しいものを食べて満足して、自傷して死にたくなって、でもなんだか怖くなって、生きてしまったんだもん。
死にたくて、自分を傷付けてばかりなのに。
なんだか、普通に、生きている。
あれ、もしかしてさ。
つまり私の人生って
死にたいと苦しみながら生き続けるだけの人生?
え、なにその人生。
もう死んじゃえよ。
でも明日もご飯を食べるんだろうな。
あーあ。
私って、本当に、救いようのないくらいに。
バカみたい。
『二人ぼっち』
お父さんは戦争に行ってしまった。
残された僕と妹は、雨風を凌ぐだけの木造りの家屋の中で、身を寄せ合って震えていた。
先日、4歳の誕生日を迎えたばかりの妹は、骨と皮がくっつきそうな程にやせ細った身体をよじって、僕に身を預けてくる。
僕もまた、生きているのがギリギリな妹を愛するように、その華奢な身体を受け止めてあげる。
妹を抱きしめる腕が、ただただ、痛い。
指先の皮膚が剥がれ落ち、骨が張った妹の体に、僕の皮と骨だけの腕がぶつかり痛む。
あぁ、腕が、全身が、痛い。
父が戦争に行ってから、もう何日が経っただろう。
最後の食料は1週間前に底を尽き、僕たちの命を繋ぐのは、時たま降り落つ雨の雫だけ。
音も動物の気配すらない世界の中に、僕と妹は二人ぼっちで寄り添いあっている。
気が付けば。
妹の呼吸が止まっていた。
瞳は薄目で開かれており、光の無い瞳孔が虚無を見つめている。
死。
ああ、ついに僕はこの世界にひとりぼっち。
共に生きた妹もついにこの世を去ってしまった
でも安心しておくれ。
お前を一人にはしないから。
僕は妹の亡骸を強く抱きしめる。
全身の骨が傷んで軋む。
ゆっくりと、瞼が落ちていく。
数日後。
山奥にぽつんと建てられた家屋の中で、痩せ細った骸骨のような体を寄せあって、この世を去っている兄妹の死体が発見された。
軍の計算によれば、兄妹は実に50日もの間、二人ぼっちで命を繋いでいたという。
『夢が醒める前に』
私は昔から、写真が好きじゃなかった。
目の前の光景は、ひとつ、またひとつと、移ろい崩れ、新たな新芽が葉を開くように、知らない世界へ変わりゆく。
人も他の動物も、ただその美と崩壊の繰り返しの中を、流れるように生きている。
取り戻せない今を懸命に抱き締めるからこそ、命は輝くのだと思った。
だけど、そんな無常の当然を受け入れがたく思い、美を永遠に保存しようと愚かにも嘆願し、その瞬間をいつまでも抱きしめたいと、みっともなくシャッターに指をかける。
写真という媒体ほど、人間の弱さと受容耐性の低さを、如実に表すものはない。
だけど同時に。
写真こそ、人間の心を表すものだとも思う。
いつか醒めて無くなる美を、消えてしまう前に保存しておきたいと願う心は、きっと誰も否定してはいけない。
それでも私は、写真を撮る事は無いだろう。
写真に保存してしまえば、記憶に保存する必要は無い。
なぜなら、また、何時でも、見れるから。
でも二度と見れない光景だとすれば、きっと私たちは、その景色を忘れないよう、心を込めて見つめるに違いない。
意識の全てを懸けて見つめるから、消えゆく景色が、心と記憶に同化するのだと信じている。
瞳のフィルムが保存した美しい景色こそ。
いつの日にか振り返った時。
私だけの想いが折り重なり、鮮烈な郷愁と共に、あの時以上の夢を描けると思うから。