『何もいらない』
誕生日に何が欲しいかと聞くと、娘は必ずこう答えた。
「何もいらない」
一見、無愛想な返答にも思えるが、意外にもその声色は軽やかで、表情はニコニコとした笑顔に満ちている。
初めての事は、4歳の頃の事だった。
それから誕生日を迎える度に、何が欲しいかと尋ね、娘は毎年必ず「何もいらない」と答えた。
別に構わない事ではある。
だが、疑問も、芽生えてくる。
まだ小学生の、それも高学年でもない子供が、誕生日プレゼントを欲しがらないというのは、少し奇妙な言動のようにも思えたからだ。
普通、もっと色々なものを欲しがらないだろうか?
まして年頃の女の子が、誕生日に何もいらない、というのは何か裏があるのではないか?
しかし、そんな疑問を押し付けても、意味の無いことだ。
娘が何もいらない、と言うのであれば、それが娘の意思であり、性格なのだろう。
ならばその意向を尊重するのも、親の務めに違いない。
そうして12歳の誕生日を迎えた時。
娘は何も欲しがらないだろうと思い、誕生日は盛大に祝った上で、もう何が欲しいかと聞くことはしなかった。
翌朝。
娘は失踪していた。
『言葉にできない』
言葉にできない気持ちや景色なんて、もう無くなってしまった気がする。
自分の見た事、考えた事、描いた事、感じた事。
言語化できない事など、最近は無いように思える
自分の気持ちを例にとっても、今の感情、その感情が生まれたきっかけ、その感情が存在する理由、その感情を持つ脳に育った背景。
全てを、誰にでも簡潔に説明できる言葉で、言語化できてしまう。しかもご丁寧に、イメージを把握しやすい比喩や、身体感覚を添えて。
つまり、何かを書き記し、相手に理解できるように説明できる、という点においては、言葉にできない事など、この世に無くなってしまったとすら思う訳だ。
そのためか、文章を書く事は心を踊らせる営為であったはずだが、最近は変換作業のように思えてしまって、毎日の「書く習慣」も、途切れ途切れになりつつある。
それでも、書いている理由がある。
それは表現だ。
説明の言語化は無機質だ。
だがそこに添えられる表現が、形を決め、色を付け、温度を与え、そして人々の心を震わす。
説明は納得を呼び寄せるものだが、表現は感動を生み出すものに他ならない。
事実として、最近、文章を書いていて最も心が踊る瞬間は、いい比喩や表現を思いつかない時なのだ。
今この瞬間に伝えたいテーマを最大打点で届けるためのレトリックを、何とか探り当てようと闇の中を彷徨う時間。
どこにあるか分からない。
そもそもそんな表現は無いかもしれない。
というより見つからなくとも構わない。
形にならない言葉を必死に模索する、その探訪行為それ自体にこそ、真なる鼓動を感じているのだから。
あぁ、なるほど、そうか。
つまり言葉にできないという事は、文筆家にとって、最も幸福な出来事であると言えるのかもしれない。
そして探していた言葉を見つけ出す事は、至上の喜びであるに、違いない。
『これからも、ずっと』
一緒にいたい。
一緒にいられたら。
あぁ、つまらない。
僕の頭蓋骨に収納されている、この知的機関は、なんとつまらない言葉を垂れ流す欠陥品なのだろう
誰にでも書ける言葉だ。
ならば僕が書く必要などありはしないじゃないか。
一緒
そうだ、一緒という言葉が、そもそもとしてくだらないのだ。
くだらない
くだらない
あぁ、くだらない。
独りぼっちが寂しい訳じゃない。
孤独が辛くて叫んでいるのではない。
誰かと一緒という感覚に安堵や喜びを感じる回路が、まるで存在していないのだ。
だから、苦悩が加速する。
僕にとっては、誰かと過ごすことは、常に防衛体制に入る苦痛の時間でしかなく、誰かとずっと一緒にいたいなど、微塵も思ったことが無い。
だが、どうやら、世間はそれを基準にして動いているらしい。
だけど同時に、不思議に思うこともある。
『これからも、ずっと』
この言葉が目に入った瞬間に、轍の無い孤独の遠路を歩いてきた僕ですら
一緒にいたい
というニュアンスの言葉が、反射のように顔を出す。
例えばそれは、僕の中に欲求として眠っているからこその、表出なのか。
あるいは、人生で蓄積された常識ルールブックを脳で開き、無意識が基本解を弾き出した結果なのか
いずれにせよ。
どうやら僕は、なぜかは分からないが
『これからも、ずっと』
という言葉に対しては、反射的に『一緒』という言葉を書き記してしまうらしい。
『沈む夕日』
静止画が浮かんだ。
つまらない。
心が本音を呟いてから、僕は気の進まない手を、毛先の整った細い筆に伸ばした。
パレットに白の絵の具を出す。弄ぶように筆先で白で広げて、薄く水平線を横に引く。
次。
赤と黄色と、わずかな白を織り交ぜて、柔らかく身を預けるオレンジの光を描いた。
青を出して紫を作る。
紫色に染まる空を背景に描けば、紫色のカーテンが沈む夕日を演出する、強調のコントラストが誕生。
小さく息を落として、描かれた絵を見る。
完璧な一枚絵だ。
まるでカメラで切り抜いたような写実的な骨格に、幻想的な色の衣装を着せるように描かれた【沈む夕日】は、高校生が描く絵画としては、天才と銘打たれても遜色のない完成度に思えた。
だけど、ダメだ。
僕の描きたい絵は、こんなものじゃない。
あくまでも先生の指示に従ったけれど、そもそもテーマの提示がお粗末だ。
沈む夕日、と言われてしまえば、夕日を描く事になり、その他は全て引き立て役にしかならない。
だがもし、『夕日が沈む様子』を描けと言われていたのなら。
絵の主役は夕日ではなく、絵画全体の様子ということになる。そうなれば、構図や描く物体の有無も、そこにある全てが夕日が沈みゆく様を見送るように描く必要も出てくる。
単純に、テーマの提示ひとつで、こちらの訓練にも、絵画を書くという営みに対しても、大きな違いが生まれる。
あくまでも、先生の言ったテーマに沿う絵を描く事を徹底はしているが。
それでも『沈む夕日』を描けというのは、僕にとっては、あまりにも退屈でつまらないテーマだった。
今日は家に帰ってから、『夕日が沈む様子』の絵を、描いてみるとしよう。
『それでいい』
夜中にラーメンを食べてしまった。
でもお腹が空いたんだから仕方ない。
これは僕がより幸福になるための行いだ。実際に僕は、夜中の2時に味噌ラーメンを食べた事により、普段は味わえなぬ、罪に通じる快楽を満喫したのだ。
夜中にラーメンを食べて、何が悪い。
自分がより幸福になるための行いなのだから、それでいい。
平日に何もせずダラダラ過ごしてしまった。
でもやりたい事も無いし、人間は怖いから仕方ない。
これは僕が安心して生きるための戦略だ。家から出ない事は、外部からのストレスを避けさせて、体力の補充に努める、極めて生存に適した合理的選択なのだ。
仕事もせずダラダラして、何が悪い。
自分がより安心して生きるための行いなのだから、それでいい。
覚せい剤に手を出してしまった。
でも生きているのは苦しいし、何も楽しいことがないから仕方ない。
これは僕が命を終える前の最後の娯楽だ。すい臓の病気で、あと数ヶ月しか生きられないというのなら、最後にこの身体を犠牲にして得られる最高の快楽を、死ぬ前に知っておきたいと、思ったのだ。
死を控えた身体に覚せい剤を与えて、何が悪い。
自分の命を満足して閉じるための行いなのだから、それでいい。
全てのことは、それでいい。
誰も、何も、間違ってはいないのだから。