『愛があればなんでもできる?』
愛する気持ちってね、すっごく素敵なの!
大切な誰かや、大好きな何かを失いたくなくて、絶対に守りたい、支えてあげたいって、心で全部を抱きしめてあげたくなる気持ち。
病気で寝込んでいるあなたに、お粥を作って看病してあげたいと思ったり。
飼っている猫ちゃんのために、おやつを買ってあげたいと思ったり。
大好きな家族を支えるために、アルバイトに出かけたり。
私は何かを愛する事が大好き。
だって愛されると、人も動物も、みんなすごく幸せな気持ちになって、ふわふわした夢見心地で、生きていて良かったなって思えるの。
私はみんなの事が大好きだから。
だから、いっぱい、いっぱい愛してあげて、みんなに幸せになって欲しい。みんなを幸せにしたい。
愛する事は、誰かを幸せにするための、誰にでも使える小さな魔法。
だから、大丈夫。
怖くなんて、ない。
緊張で震える全身を騙すように、深呼吸を繰り返す。
お尻に感じられるベッドの感触が、柔らかくて、だけど何も安心なんてできなくて。
初めて入る大人のホテルは、どこか甘美で豪華で、男女の生々しい匂いが、あちこちに染み付いていた。
十分ほど響いていたシャワーの音が、ピタッと、その音を停止させる。
ドクン、と大きく心臓が跳ねた。
ガチャリと浴室の扉が開く。
全身の内側で、早まる鼓動が異常な熱を拡散させた。
呼吸がどんどん、どんどん浅くなっていく。
始まってしまう。大丈夫。大好きなパパとママを助けてあげないといけない。お金を稼がないといけない。怖い。怖くなんてない。バカ。大丈夫だって。
浴室から、ロン毛で太った体のおじさんが、全裸で現れて。
ニヤニヤと、私の全身を舐めるように見つめ始めた。
怖くない。
嫌じゃない。嫌じゃない。
気持ち悪くなんてない。
大丈夫。
できるよ。パパとママの為だもん。
震える全身に力を込めて、漏れそうな本音ごと、無理やりに圧搾する。
大丈夫。
愛があれば、きっと。
男が一歩ずつ近付いてくる。
大丈夫、だから大丈夫だって。
絶対に。
乗り越えられない訳がない。
だって、だって。
愛があれば、なんでもできるんだから。
そう、だよね?
『後悔』
「すみませんすみませんすみません」
取調室の中に、男の錯乱したような声が反響した。
私の目の前に座る細身で冴えない男は、精神が不安定であるのか、謝罪の言葉を執拗なまでに呟いている。
「本当に、僕はなんてことを……すみません、こんな犯罪者に、時間を取らせて、すみませんすみませんすみません。早く、死刑にしてください。お願いします。生まれてきて、すみません」
真顔で表情を一切変えずに言葉を放つ男は、まるで放心状態のようにも見えて、後悔に満ちる言葉とは乖離した無表情が、背筋にゾワっとした悪寒を走らせる。
威圧するように力強く腕を組み、目の前で後悔と自責に狂う男を睨みつける。
ふざけるな。
お前は連続強盗殺人という、人道を嘲笑うかのような最悪の蛮行に及んだ犯罪者だ。
どの口が、後悔の言葉を吐き散らす?
そもそもここで後悔をするような人間なら、強盗殺人、という最悪の行為を聞いた時点で怒りが湧き出るはずだ。
「すみません……本当に、すみません」
謝罪は必死に繰り返すのだが、相変わらず瞳は無感情に染まっていて、態度と言葉と声がどうにも一致しない。
男は一見すると、心神喪失状態に陥り、責任能力の欠如を示す挙動にも見える。
実際、逮捕直後は精神的に危険な状態であった。
つまり今現在の見立てとしては、責任能力がない中で犯行に及んだ可能性を、有意にありえる可能性として真剣に検討している状況なのだ。
つまりそれは、この犯罪者の無罪を検討している状況、という事になる。
ふざけるな。
もう一度、心の中で言葉がこぼれ落ちる。
どんな状況にあろうとも、この男が強盗殺人を繰り返した事は明白な事実であり、犯罪の事実は確かに存在している。
だが。
「あぁ、ああ、あぁ!!すみませんすみませんすみませんすみません!!」
突如として、男が自身の頭をデスクへと、本気で打ち付け始めたのだ。
気が狂ったような叫び声とともに。
金属に頭蓋が当たる鈍い音が、激しく響く。
「おい!やめろ!!」
私が叫んで立ち上がると同時に、別室から取調の様子を観察していた二人の検察官が飛び込んできて、狂乱している男を抑え込んでくれた。
「すみ、ません、すみません、すみません……」
何度も、何度も、何度も。
放心状態の瞳で。
机に押さえつけられながら、虚ろな無表情で謝罪の言葉だけを落とす男。
その様子を見て、諦めの瞼が落ちる。
ダメだ。
今日が最後の取調だったが、もう二週間も毎日この調子。こいつの精神は完全に崩壊してしまっている。
これ以上の取調は、いたずらに時間を消費するだけだな。
悔しいが。
もう、打ち切るしかない。
「……連れて行け」
「は、はい!」
私の指示に緊張の声で返事をするや否や、2人の検察官が両脇で男を抱えて取調室の出口へと向かっていく。
しかし、そうなれば精神科医による診断の段取りを整えて--
連れていかれる男を見つめながら、今後の流れを頭の中で整理していると。
不意に。
無表情の男がちらりと、こちらに表情を向けた。
なんだ?
私が怪訝な眼差しを返したその瞬間--男が、柔らかな笑顔で微笑んだのだ。
その微笑みを見ると同時に、私は最悪の真実に気付いてしまった。
なぜなら、男の笑顔を見たのは、これが初めての事だったからだ。
たった一秒。
男が私にだけ見せた、その柔らかな笑顔を。
この敗北を。
私は死ぬまで、毎晩のように思い出す事になるだろう。
『風に身をまかせ』
命の行方を、遠くから見つめていた。
黄昏の空に輝く夕日が、背を並べてゆらゆら揺れる稲穂の海を、黄金色に輝かせる。
一人一人が煌めきながら、ただ大きく巡る運命の中で、誰にも気付かれず、小さく揺れている。
列車の車窓から吹き込む秋風は、無愛想に冷たい顔をしながらも、優しくて穏やかで。
風が稲穂を柔らかく揺らして、不意に強く吹き付けた風は、次に稲穂から稲の礫を空へと舞いあげる。
もう一度、柔らかな風が、稲穂を揺らし始める。
きらきら、ぶちぶち、ゆらゆらと。
輝きながら、傷付いて、揺らされて。
だけどきっと、そういうものなんだろうとも、思う。
温かい顔をしながら、冷たく突き刺してきたり。
冷たい顔をしながら、温かく包み込んでくれたり。
私は、どれだけ癒されるのだろうか。
あなたは、どれだけ傷付くのだろうか。
私達は、どこへ辿り着くのだろうか。
いつだって、風は未来へと背中を押してくれる。
宛先はない。
辿り着くべき夢もない。
ならば、もう身をまかせる他には無い。
地獄へ誘われる事もあるだろう。
だけど、世にも美しき黄金色の絶景に、出会える事もある。
ひっそりと揺れる稲穂から視線を逸らして。
ゆっくりと、瞳を閉じる。
この列車もどこへ辿り着くのか分からないが。
運命の流れに命を任せる人生も、時には悪くはないだろうと、そう思ってみたりもする。
『一年後』
一年後、私は必ず司法試験に合格する。
血反吐を吐くほどの勉強時間を乗り越え、予備校の自習室に早朝から通い、誰よりも講師に質問して理解を深め、幼い頃からの念願だった弁護士バッヂを手に入れる。
それが、私の誓いだ。
それが、十年前に立てた、私の誓いだった。
大学卒業後。
親に頼み込んで司法試験に打ち込むと言ってから、結局合格することも無く、十年の歳月が過ぎてしまった。
両親は今でも応援してくれているが、内心では既に呆れ果てているだろう。
--こんなダメな息子でも弁護士になれば人生を逆転できるはず。
三十三歳にして社会人経験のない男が、実家で衣食住のある暮らしを保証されている事の裏側には、両親の投げやりな期待があるに違いない。
そんな邪推をしてしまうのも、たまらなく苦しい。
もう分かっているのだ。
自分には勉強をこなす才能も、意地になって努力をするだけの気概も、何もない事くらい。
このまま私が司法試験に合格することはないだろう。
だって、勉強などろくにできていないのだから。
だって、言い訳ばかりを繰り返してスマホを触っているのだから。
そんな人間が、司法試験という頂きに辿り着けるはずがない。
でも、だからと言って諦める勇気もないのだ。
だって、私には何もない。
弁護士になると豪語して、部屋の中でSNSと見つめ合っていた間、私は交友も仕事も趣味も、何ひとつ積み上げる事はなかった。
ただ、時間だけを、溶かす日々に沈んでいた。
もう司法試験に合格できないと自認しながら、それでも「俺は司法試験の勉強をしている。頭の悪い凡人とは違う」という惨めなプライドと虚栄に縋りついて、この日々を終える事もできない。
そして今さら、社会に踏み出していく勇気さえ持てない。
どこまでも自分という存在に吐き気がする。
いつまでこの日々は続くのだろうか。
誰が終わらせてくれるのだろうか。
あぁ、いや違う。
そうじゃないだろう。
私は司法試験の勉強をしないといけないのだ。
それが私の日々の責務なのだ。
私は一年後、必ず司法試験に合格する。
もう毎年、そう言い聞かせてきた。
性懲りも無く、今日も言い聞かせる。
もう終わっている現実を見つめないためには、一年後の幻想を映し出して、自分を騙す以外に方法はないから。
大丈夫。
きっと一年後。
私は弁護士になっている。
『優しさだけで、きっと』
例えば、体調が悪い時に、家族が自分の好物のゼリーを買ってきてくれる。
例えば、受験に失敗した時に、友達が遊びに連れて出してくれる。
例えば、仕事で大きなミスをした時に、上司が飲みに連れて行ってくれる。
例えば、死にたいと思っている時に、誰かが黙って隣にいてくれる。
辛さや苦しさを抱えていても、誰かの小さな優しさで、それを乗り越える事ができる。
そんな不思議な力を、私たちはいつも、日々の糧にして生きている。
誰かの小さな優しさだけで、きっと、どんな事だって乗り越えられる。
たまにはそんな愚かな事も、信じてみたいと、そう思う。