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4/4/2026, 1:08:46 PM

『それでいい』

夜中にラーメンを食べてしまった。

でもお腹が空いたんだから仕方ない。
これは僕がより幸福になるための行いだ。実際に僕は、夜中の2時に味噌ラーメンを食べた事により、普段は味わえなぬ、罪に通じる快楽を満喫したのだ。

夜中にラーメンを食べて、何が悪い。
自分がより幸福になるための行いなのだから、それでいい。



平日に何もせずダラダラ過ごしてしまった。

でもやりたい事も無いし、人間は怖いから仕方ない。
これは僕が安心して生きるための戦略だ。家から出ない事は、外部からのストレスを避けさせて、体力の補充に努める、極めて生存に適した合理的選択なのだ。

仕事もせずダラダラして、何が悪い。
自分がより安心して生きるための行いなのだから、それでいい。



覚せい剤に手を出してしまった。

でも生きているのは苦しいし、何も楽しいことがないから仕方ない。
これは僕が命を終える前の最後の娯楽だ。すい臓の病気で、あと数ヶ月しか生きられないというのなら、最後にこの身体を犠牲にして得られる最高の快楽を、死ぬ前に知っておきたいと、思ったのだ。

死を控えた身体に覚せい剤を与えて、何が悪い。
自分の命を満足して閉じるための行いなのだから、それでいい。


全てのことは、それでいい。

誰も、何も、間違ってはいないのだから。

4/3/2026, 9:47:11 AM

『大切なもの』

大切なものは理性だ。

なぜなら理性とは、感情を抹消する事ができる、唯一の対抗機関であるからだ。

本能を切り刻む刃を手にして、なぜその威力に、心を奪われずに居られるのか。

感情という愚民に主権を与えている事こそが、人間という生物が抱える、基本的にして最大の欠陥だ。

だが理性は、その主権を奪い返すことができる。

例えて言うのであれば、国内で暴れ回る反社会的勢力を、問答無用で退治できる武器が、理性なのだ。

絶対に、手放す訳にはいかない。

故に理性こそ、私にとって、最も大切なものである。

4/1/2026, 12:17:09 PM

『エイプリルフール』


「4年2組 村上春香」

今からの作文で、私はうそをたくさん書きます。
本当はふたつだけです。

みなさんには、どれとどれが本当かを、考えて欲しいです。

それじゃあ書いていきます。




おばあちゃんのおそう式がありました。

かんおけの中で眠るおばあちゃんは、きれいで、気持ちよさそうな顔をしていました。

でも、とても悲しかったです。
何度も、生き返って欲しい、って思いました。

おばあちゃんは病気で死にました。

本当に、すごく、悲しかったです。
あんなにやさしくて、かわいくて、私をぜったいにきず付けなかったおばあちゃんが死んじゃうなんて、本当に悲しいです。

もう会えないのが、寂しくて、寂しくて、すごく悲しいです。

でもおばあちゃんの最後は、苦しんでる感じもなくて、おだやかに眠る感じで、目を覚まさなくなりました。

それは、すごく良かったと思います。

今までありがとう、おばあちゃん。
おばあちゃんと過ごした日々は、きっと、すぐにわすれちゃうけど。

おばあちゃんの背中をさした感じは、一生ずっと、わすれないと思います。

もう会えないのが、本当に、悲しいです。




以上です。

エイプリルフールなので、うそをたくさん、書いてみました。

本当はふたつだけです。

4/1/2026, 11:18:48 AM

『幸せに』

「どうか幸せになってください」

私の結婚式では、みんなが私にそう言ってくれた。

祝福の言葉を聞く度に、脳が沸騰しそうな程に熱くなり、震える拳を握りしめる力が、害意を押し殺すために、強くなる。

黙れ。
遺伝子と環境に恵まれただけの無自覚な加害者共が。

偉そうに、上から目線で人の幸福を願うのも大概にしろ。

「幸せになってください」

それはお前らが、まず、最低限の幸福度を抱いているからこそ、口をついて出た言葉だ。

例えば他人が結婚した時に、私がまず最初に捧げるのは「さっさと不倫して裁判沙汰になってしまえばいい」という不幸の祈祷だけである。

他人の幸福を願うという行為ほど、無自覚で、無意識な、善意の皮を被った序列の認識行為は他にないからだ。

結婚をして家庭を持つ人が笑顔で放つ「幸せになってください」と、婚活に失敗し続けて恋愛を拗らせた人が絞り出す「幸せになってください」は同じ意味では無い。

かたや自分は幸せになった側としての優越の言葉であり、かたや嫉妬と苦痛を理性でカモフラージュしただけの自虐の言葉。

私は後者が好きだ。
そして優越としての祝福を放つ人間が、たまらなく嫌いだ。

自分の加害性に気付きながら、倫理と理性で抑えた言葉では無い。

言葉が持つ優越性に気付かないままに、純粋な善意と誤認して、他者の幸せを願う人間が、たまらなく大嫌いだ。

そんな奴らには、他人の幸せなど、二度と願わないで頂きたいものだ。



3/30/2026, 11:19:57 AM

『何気ないふり』


気を遣っている事を、相手に気付かれてはいけない。

それは他人に気を遣う人生を送り続け、気遣いの到達点に達した私が見出した、一つのミニゲームである。

人に気を遣うという行為は、他者の意識に上がる前の、無意識が望んでいる欲求を、先回りして満たしてあげる行為に他ならない。

つまり、無意識が意識に上がるその寸前を貫くのだから、当然、相手の意識に気付かれない事も可能な訳だ。

さらにデメリットもある。
相手の意識に気遣いを捕らえられてしまえば、その意識が『気を遣わせてしまった』という思考を生み出し、気遣いが気遣いを誘発する。

それに対してこちらも『気遣いがバレて気を遣わせてしまった』などという、気遣いのスパイラルが発生してしまう始末。

そして気遣いをした、されたの関係が、両者の自明として把握される事は、後々の関係に歪みを起こす楔となりうる事もまた、問題点として挙げられる。

相手がこちらの気遣いを当たり前に思い出すと、横柄な態度の表出や、半奴隷的な対応に繋がりかねない。
あるいは気遣いをされているという意識が、申し訳なさや自己嫌悪を誘発するかもしれない。

故にこそ。
気遣いは、絶対に、バレてはいけないのである。


では具体的に気遣いを考えてみよう。


例えば
近くにいる誰かの両手が塞がっている時

否、それでは遅い。


誰かの手が塞がりそうな流れを先に察知し、その人物が荷物を手に持つ前に、扉を開いておくのだ。

そのまま自分は何気ないふりをして、一度廊下に出て電話をいじるといい。

そうすれば誰が扉を開いてくれたのかは分からないが、荷物を持つ当人は、特になんのストレスもなく部屋を出て荷物を運んでいく。

その影に、私という存在の気遣いと手助けがあった事など、知られてはいけないのだ。

知られる必要など、何も無いのだ。

誰に感謝されなくても、自分の存在が無視されていても。

私の行為は、まるで妖精が気まぐれに訪れたように、不可思議な出来事として、謎のままに終われば良いのだ。

それが、最も美しい。


以上が、自分を大切にする事を完璧に諦めた人間が、社会の中で最後に楽しむミニゲームの1つである。

気遣いを気付かせない事は中々に難しいが。

それでも暇な人間には、おすすめの娯楽だ。

最後に人を気遣うコツを一つ。


気遣いは、何気ないふりで。

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