ふわふわする。
瞼は一定の場所から上がらず、舌も回らない。
(もしかしたら、このまま起きれずに済むかもしれない)
毎度そう思いながら、その場で横になる。
周囲の悲鳴の様な声も遠くに聞こえた。
腕を引っ張られて両脇に抱えられ、足を引きずりながら冷えた空気に晒される。喧騒は一時遠ざかり、暫くするとまた人混みの声が響き渡った。
「毎度、勘弁してくださいよ! お疲れ様でした!」
耳元で叫ぶ声を最後に、柔らかいシートの上に押し込まれる。緩い動作で頭を上げれば、冷静な目をした運転手が俺の様子を観察していた。大方、吐くか吐かないかを判断しているのだろう。
何がしかの会話がなされ、外の喧騒を遮るように扉が閉められるとタクシーが動き出す。
「お客さぁん、飲みすぎましたねぇ」
「えぇ……いつものことで」
相槌を返すのが精一杯で、最後は口の中の空気を押し込むように声を出すと横に倒れ込む。無理やり締められたシートベルトが体に食い込んだ。
いつもの事だが、記憶も失わず翌日恥に身悶え、吐けないばかりか体内の毒素に苦しめられる。
いっそ吐いてしまう方が楽になるのに、勿体ない精神を持つ体は、そう簡単には解放してくれなかった。
「中途半端に飲めるのも、考えもんですね」
いつの間にか独り言でボヤいていたのか、運転手が気の毒そうにミラー越しに見つめていた。
「でも、この酒のために一週間頑張ってるんで……」
週に一度の飲み会。
どこにも逃げられない、ただ意識だけを飛ばす逃避行だ。
「でもそろそろ、周りに迷惑をかけない逃避行でもすべきかな」
そう呟くと、運転手はニヤリと笑ってハンドルを切った。
「お客さん、幸運ですね。お連れ様から、迷惑のかからない逃避行の注文を承っていますよ。」
ぼんやりとした視界で最後に見たのは、自宅とは真反対の山中に向かうルートが示されたカーナビだった。
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「酔っ払いの始末」
⊕現実逃避
私を、同人の世界に引き入れてくれた人。
もっと正確に言うと、会ったことも姿を見た事も無く、性別すらも知らないアナタ。
最後に作品を見たのは、ネットの海を漂って辿り着いた個人サイト。それも、掲示板の荒らし対策で、数回サイトを引越ししていたのを追いかけた数ヶ月間のことだった。
「まだ探してるの?」
長年の友人に呆れたように言われても、日課のようにリンク切れのサイトをひたすら訪れる。
「また読みたいんだもの」
記憶に残る、あの作品に再会する日まで。
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「世界の入口にいたアナタ」
⊕君は今
「正直、勝ち負けなんてどうでもいい」
そう思える日が来たら苦しまないのに。
そういえば、練習試合で初めて会った時も、一番楽しんでいたのは彼だった。
「勝負している間の、互いに本気でぶつかり合っている瞬間が楽しいんだ」
そうハッキリ言えてしまう君が羨ましい。
でも僕の喉は暑さで張り付いて、本音を言わせてくれない。その代わり、熱気を吸い込んで口を開く。
「でも、勝負の世界はいつも残酷だ。
誰かが勝って、勝者だけがその先に行ける」
その楽しい時間を長く続けるため、勝ちを追い求める必要がある。
僅かな抵抗で返した苦し紛れな言葉に、彼は太陽のような笑みを浮かべた。
「そうだね。だから、お互い楽しい時間を追い求めよう。決勝まで」
僕の両肩を叩いた手は力強く重たいもので、限界を迎えつつある僕の腕が、悲鳴を上げた。
多分、僕は次の試合でこの夏の戦いは終わってしまう。
「ああ、決勝まで」
強がりでそう返すのが、今の精一杯だった。
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「夏の勝負」
⊕勝ち負けなんて
暗く、静かな部屋の中を細心の注意を払って、
扉の音も足音もしないように進んだ。
街灯の僅かな灯りに慣れた目で、
ベッドに横たわる愛しい人を見下す。
最近寝付けないらしく、顔色が悪い。
如何にも体調が悪そうだ。
心配だが、この部屋に自分の痕跡を残しておく訳には行かない。
けれど、眠っている間に掛け布団を直すくらいは許されるだろうか。
心臓の音がバクバクする。
うっかり体に触れない様に、掛け布団の端を持ち上げた時。
パッと電気が付いた。
驚いて振り返ると、いつの間にか制服のお巡りさん達がいて、警戒した面持ちで私の手元を見つめていた。
「布団をね、かけ直してあげようと思ったんですよ」
ニッコリと微笑むと、何故か不気味そうな表情を浮かべて、一人が私の背に手を添えた。
「外で少し、お話しましょうか」
促されるままに外へ出ると、一人の男性が遠くから見つめているのが見えた。
彼のことは知っている。
彼女の友人で、私との仲を邪魔しようとしたから。
『ストーカー野郎』
声は聞こえなかったが、スマホを握りしめた彼の口がハッキリそう言っていた。
「掛け布団をね、かけ直したかっただけなんですよ」
⊕これで最後
今日は土曜日。予定もない。
あるとしたら、目の前にあるコスメの箱を開封するくらい。
学生時代、メイクに殆ど縁がなかった。
そんな私が興味を持ったのは、推しがいるから。
理由の半分以上は自分のためと、あと少しは推しのため。
前者は推しの目に映れるなら、できるだけ綺麗な姿で居たいから。
後者は「〇〇推しの人」のレッテルを背負うから。
でも、最近はちょっと違う。
動画やメイク記事で勉強したり、コスメカウンターのスタッフさんに教えてもらって、コスメを買った後は妙にワクワクする。
このワクワクはきっと、昨日の私より綺麗になれるかもしれない期待から。
胸を張って歩くための武器と、それを手に入れるための術が目の前にあるから。
だから私は、今日よりもっとメイクが好きになる。
「自分がちょっと好きになる」
⊕昨日と違う私