孤影悄然
「済まない、枷は外します」
改まった調子でそう言うと兄は立ち上がった。私は妹と身を寄せ合いながらその言葉を聞いた。不思議そうに兄と私を交互に見る幼子に、私たちは何とも答えなかった。年長者たちにしかわからない会話がひそかに、しかし公然と行われていることに妹は気づかない。兄はそっとその雄弁な眼を伏せて、背を向けた。その背にはあるいは薄汚れた翼が一対、あったのかもしれない。私と妹は融合しそうなほど一層体を密着させて兄を見送った。ひどく孤影悄然とした彼の後ろ姿は、墨汁のような深い印象をぽつり、私に残していった。
想わねば本日
何をして、何を思ったのか。何を得て、何を失ったのか。どんなことを成して、どんな失敗をしたのか。昨日のぼくはどう生きたのだろうか。
ぼくは昨日を想う。朝に目を覚まして見た天井の染みから、寝る前に視界を横切った蝿の腹の模様まで、全部を想う。ひとつひとつを丁寧に、決して落とさないように。
そんなふうに想う間に、気づけば空は夕焼けに染まっている。橙は紺へと流れて、太陽は退き月に身を譲る。
はっと目が覚める。天井の染みが目に映る。私は慌てて昨日のことを思い出す。決して落とさないように、丁寧に。
世界に一つだけの
世界に一つだけの枯葉とか、世界に一つだけの吐瀉物だとか、あるいは世界に一つだけの私みたいなものを、一体、誰が愛せるのか、私は知らない。
夜の衣を返す
太陽がぽとり落ちて、月光が夜を知らせる
お風呂と歯磨きを済ませた私が部屋に一人
青白い色の月光が自室へと滑り込んでいて
私はふと、寝間着をゆっくり裏返してみる
あの人に会えますように、と枕にねがって
夜の衣を返し、夜の布団へともぐっていく
夢は見るかしら、いえ、見るのでしょうね
だんだんと、眠気が体を満たしていって、
意識がすうっと、薄れていく。あ、消えた
鳥のように翼があれども
いや、全くばかな問いかけをされたと思った。ねえねえ、そこのお兄さん、もしあなたが鳥だったのなら、どうしますか。なんて、実にばからしい。鳥はあれ、阿呆である。私が鳥だったしても、どうにもなりようがない。
とはいえ、擦れた私でも、時に考えてみることがないでもない。もし、この狭い背に翼があれば、今よりずっと、自由かもしれないと。
しかし、すぐさま思いなおす。ばかなことを考えたと反省する。翼があったとしても、私はきっと飛ばないだろう。地に足つかねば何とやらと、そんな言い訳ひとつこぼしながら、獣道を行くのだろう。もちろん、乾いた土のよく見える、獣道である。
翼は一等、邪魔である。お飾りである。私は決して、飛ばないのだから、駄目である。
大地にすくと立って、私はそんなことを思ってみる。鳥の活発な、晴れた日のことだった。