待ってて
※ペットロス中の方がいましたら注意してください。
縁側で新聞を読んでいると、チャカチャカ足音を立ててチビが来る。フサフサと自慢気に尻尾を揺らし、当たり前のように俺の膝に乗ってきた。
「おい、チビ。邪魔だ」
「お父さんったらまた憎まれ口叩く」
花恵が続けて「離れたら離れたで、チビチビ言って探すくせに」と笑いながら言うもんだから、俺は何も言い返せず膝に居るチビを撫でる。チビは心地良いのか目を細めて黙ってそれを受け入れていた。
「また春が来たら桜が見れるぞ」
言葉が分からないはずだが、チビは目を開いてどこか嬉しそうな顔をして俺を見つめた。
チビはいつも俺の傍に居た。小さいからふとした拍子に踏んじまいそうで落ち着かなかった。ろんぐなんちゃらとかいう小洒落た犬種で、無駄に毛並みが良いし、あとは大きい目をしていた。
――また、この生意気な犬と桜を見に行くつもりだった。
あれは朝の散歩をしていた時だ。突然だった。本当に、わけがわからなかった。
パタリとチビが倒れたのだ。俺はチビを抱き上げて直ぐに病院に向かった。心臓がバクバクと動いているのに、やけに周りの音が遠くに聞こえる。
とにかく早く、早く、頼むから、大した事ないと言ってくれ。ただの立ち眩みだと言ってくれ。
犬用のバッグから見えるチビは、浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
医師から、心臓の大きさや血が流れていく動きの状態が悪い……そんなようなことを聞かされた。小難しい話を分かるように説明しようとしてくれているのは理解できたが、俺は力なく尋ねた。
「チビは治りますか」
それに医師は言い淀む。俺は腕の中のチビを苦しくないよう抱きしめた。
「死なないでくれ」
情けない声で小さな命にすがりついた。
……それから数日後、チビは居なくなった。家の中に響いていた足音は聞こえないし、膝の上の温もりもない。縁側でぼんやりしていると花恵が隣に座ってきた。
「静かね」
「そうだな」
会話は短いが、その中には俺達にしか分からない重みがあった。
「虹の橋のたもとですって」
葬式を終えた後にもらったパンフレットを見ながら花恵は言う。
「そこでチビが待っててくれてるから、行くときは大好きなおやつを持っていってあげましょうね」
「……そうだな」
「だから、もう少し待っててもらいましょう」
震える声で俺を慰める花恵に、気の利いた言葉を返すことができないまま、俺は内側から溢れる感情や今までの思い出を涙にしていた。
「――もっと、色々してやりゃあ良かった」
小さいくせに存在が大きすぎたんだよ。お前は。
だから、また会った時は覚えてろ。膝に乗せて、嫌がるまで頭を撫でてやる。
――記憶の中のチビが嬉しそうな顔をして、尻尾を振った。
日々家
▼余談/登場人物
秋永 芳朗(あきなが よしろう)
秋永 花恵(あきなが はなえ)
秋永 チビ(あきなが チビ)
▼
自分の抱える思いを話に託しました。
伝えたい
自分の中で思いついた詩や物語が少しでも誰かの心に届けば良いな。
そんな願いを込めて、今日も言葉を紡いでいく。
楽しみながらも悩みながら、ひとつの作品を作り上げていく。
名も知らぬ貴方もきっと、心の中にある世界を自分の言葉で紡いでいくのでしょう。
――輝く太陽のような言葉で夜空のような言葉で激しい雨のような言葉で木漏れ日のような言葉で。
今日もまた、どこかで誰かの世界が作られていく。
日々家
この場所で
長い坂をただひたすらに登っていく。空は青々と澄み渡り、真っ白な雲が良く映えていた。アスファルトには焼き付いたみたいに黒い影がある。太陽が強く光り輝いて、私の体はじわりじわりと汗をにじませていく。
坂をようやく登り終え、買っておいたペットボトルの蓋を開けて一気に中身を飲み干す。視界に広がるのは空とその色を映し出す海と私の住む町。一目惚れして移住を決めたくらい大好きな景色。
――自分が生きていきたいと思える場所に出会えるとは、私はなんて幸運なんだろうか。
そんな事を考えながら、リュックに入れておいたスケッチブックと色鉛筆を取り出し、木陰の中でこの景色を残していく作業に入った。
日々家
誰もがみんな
――誰もがみんな幸福だと言える世界があるならば、どんなに素晴らしいだろうか。
俺はパソコンのキーを打つのを止めて、淹れておいたコーヒーを口にする。
「誰もが幸せ、ねえ……」
ため息交じりに出た言葉に皮肉めいた響きが混じってしまった。それはきっと、一人の不幸の上に多くの人の幸せが成り立つあの話を思い出したからだろう。
「そりゃ、理想はみんなが何の犠牲も払わず幸せになるのが一番だ。けど実際問題“何も無し”は無理だろ。なあ?」
俺が仕事に集中している間、ずっと膝で寝ていた愛猫のわらびに声を掛ける。この名前の由来は、わらび餅に似ているからという単純なものだ。
わらびは耳を少しだけ動かし、先程の俺と同じようなため息を吐きながら一声鳴いた。
「うんうん、お前も俺と同じかあ」
言葉を勝手に解釈し、桜の形をした片耳を優しく撫でる。
「とりあえず、俺はお前の幸せを維持しねえとな」
膝の温もりを感じながら、俺は再び文章の海に思考を沈めていった。
日々家
花束
「これやる!」
顔を真っ赤にして差し出されたのは、花びらを鮮やかな黄色に染め上げ綺麗に咲いたたんぽぽの花束。
家に入ってからずっと背中に何を隠しているんだろうと思っていたが、まさか花束だったなんてっと少し驚いてしまった。また虫だったら怒らなければと考えていたことを反省して陽希を見る。
いつもなら「なつ姉ちゃん! 聞いて!」と笑顔を向けて今日学校であった話をしてくる陽希は下を見たまま私の反応を待っている。
少し考えてから、私は手を伸ばして花束を受け取った。
「ありがとう。綺麗だね」
その言葉に陽希は顔を勢いよく上げて、キラキラと目を輝かせながら「うん!」といつもの笑顔を向けてくれた。それが手にある花に重なって、私もつられて頬を緩ませる。
「おれ、すぐになつ姉ちゃんと同じ中学生になるから待っててよ?」
「いいよ〜。待ってる……って言ってもお隣さんだからいつでも会えるよ?」
「そういうのじゃないの! 全然違う!」
「ごめん、ごめん。ちゃんと学校で待ってるよ」
陽希は満足したのか「分かってくれればいい」と言い、大人びた表情を見せた。
「たんぽぽ、花瓶に入れてあげないと。はるは居間に行って、今日の宿題出しときな」
「はぁい……」
宿題という言葉に肩を落とす姿は年相応で、それになぜか安心した。
洗面台に向かい、棚にしまってあった花瓶に水切りしたたんぽぽを挿す。白い陶器に黄色がよく映えている。
花瓶を持って居間に入ると、午後の太陽の光に照らされた陽希が目に入る。それがとても眩しくて、私は目を細めた。
私に気付いた陽希が「国語の問題意味わかんない!」と口をヘの字にして言う。
それに「はいはい」と笑って返すと「早く教えて」と急かされた。
窓際に花瓶を置いてから、私はいつものように向かい側に座って勉強を教え始める。
――きっと彼は、私の知らない内に成長していくし、沢山の人に出会い、私への感情も変わっていくだろう。
それでも良いと思う。
今この瞬間が、綺麗な思い出として残るのなら悪くはない。
「なあ、なつ姉ちゃん」
「ん? どうした?」
「おれは真剣だからね」
考えを見透かされたように鋭い一言が心を突く。
いつの間にか、私が知らない陽希がすぐ傍まで来ている気がした。
日々家
▼余談/登場人物
沢田 陽希(さわだ はるき)
森岡 夏乃(もりおか なつの)