7月24日 伯父が家に来た。
夏休みに入ってすぐ、伯父が家に来た。不登校で普通ではない私を投降させるために、お母さんが呼んだのだろう。
伯父の顔は覚えていないくらい昔に会ったきり。正直、誰も私に関わらないでほしい。
◇◆◇
急に妹の恵子に呼び出された。僕にとって姪であるメグちゃんが不登校になったらしい。恵子はお手上げで旦那である誠司君も年頃の娘の接し方が分からない。
それで、僕のもとに話がやってきた。
正直、メグちゃんは僕のことを覚えていないだろう。三歳くらいに一度会ったきりだ。
「食事と寝床を用意するからお願い」
ファミレスで恵子はそう言って頭を下げた。僕は二つ返事で承諾して今に至る。
今、というのは誠司君と恵子は仕事に行き、開かずの間となっているメグちゃんと部屋は分けているがひとつ屋根の下。どうやって天の岩戸を開けるか考えていた。
空腹作戦……は天の岩戸が開いたとしても、刺激を与えた貝のように閉じてしまうだろう。トイレ作戦も同様だ。打つ手なし……ではないが天の岩戸に隙間を作る時間は結構かかりそうだ。
そんなことを思っていると玄関のチャイムが鳴った。
「Y中学校で恵さんの担任をしている北野です。恵さんの夏休みの宿題を持ってきました」
応答すると、若い、それこそ二十代中盤くらいの男が額に汗を浮かべて立っていた。ご苦労なことだ。
僕は家に招き入れ、私が寝床として使わさせてもらっている居間に通し、冷蔵庫の中にあった麦茶を出した。
一通り夏休みの宿題についての説明を何故か僕が受けた後、北野先生はメグちゃんの様子を聞いてきた。
「恵さん、どうですか?」
どうですか? と聞かれてもこの家に来たばかりで顔すら見ていない。
「声をかけに行ってもいいですか?」
この教師、どういう心境なのだろうか?
「先生、ちょっと待ってください」
僕は呼び止めた。
「先生はメグちゃんが不登校になった原因について知ってますか?」
北野先生から緊張感が伝わってきた。そして、いえ知りません、という回答。
「先生、私は先生のように学がないので分かりませんが、教師というのは図々しい仕事なんですかね? 不登校になった原因は明らか学校です。だって、家に居たくなければ家から出るし、学校に行きたくなければ学校に行かない。そうじゃないですか?」
北野先生は苦々しい顔をしている。
「別に先生を責めてる訳じゃないですよ。先生はメグちゃんが不登校になった原因を知らない。それなのに学校に来いというのは荒唐無稽だと思います」
北野先生は何も言わない。
「私も昔は教師を目指してました。勉強もしてましたし、当時先生にどうやったら教師になれるか聞いてもいました。それは何故か? 担任の先生が真摯に向き合ってくれたから。僕もそんなふうになりたいと思ったから」
北野先生の目をまっすぐに見つめて僕は言った。
「先生、今の貴方にメグちゃんに声をかける資格があると思いますか?」
玄関から自身を無くした北野先生を見送って天の岩戸を開けるための作戦を練ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「ありがとう」
来ているような小さな声。
中学生になったメグちゃん。三歳の頃より美人になっている……当たり前か。僕の中学時代の同級生と比べて、伯父補正を無しにしても結構可愛い部類に入るだろう。
「聞かれてたのか……」
僕が頭をポリポリと掻いて誤魔化すとメグちゃんは四十歳半ばの僕を見て不登校の原因を語った。
曰く、メグちゃんは告白された。学年でも結構なイケメンに。でもフった。それに嫉妬した女子達からのイジメが原因で不登校になったらしい。
「三文小説でも書こうかな?」
痛々しい笑顔で言うメグちゃん。僕はそっと頭を撫でて、君は悪くない、よく頑張ったと繰り返し、繰り返し言った。最初、なに? とか言っていた天の岩戸はゆっくりと開き、声を出して泣いていた。
鐘の音が鳴った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。
不意に目が覚めて音を聞いていると十二回。深夜零時なのだろうか? それにしても迷惑だ。こんな時間に鐘が鳴るなんて、と考えて頭が覚醒し始める。この街に来て早五年。深夜の鐘なんて初めて聞いた。
昨晩、私は酒も飲めない下戸なのに、無性にイライラして五万円のウイスキーに手を伸ばした。いつも通り分厚いカーテンを閉め、冷房は二十二度。快適な一人の空間を作り出し、酒を飲んだ。不味かった。正直大人はみんな美味しそうに酒を飲んでいたから期待していたが、成人式の日に飲んだ缶チューハイ一本で気持ち悪くなり、嘔吐した過去がある。それでもストレスが溜まると、若気の至りで買った高級なウイスキーを飲んでしまう。まるで、リストカットのように、自傷行為でストレスを発散している。酒を飲んで嘔吐する感覚。吐き出すときに私の中にある黒いモヤモヤも一緒に吐き出している気がする。
ゴーン。
十三回目の鐘? 十三時なんてあっただろうか?
そう思って目覚まし時計に手を伸ばした。そのデジタルな目覚まし時計には十三時一分と表示されている。
私の頭ははっきりと覚醒した。
どうやら仕事に遅刻したらしい。
「メグちゃん、スマホを貸してくれないか?」
師匠は不意にそんなことを言った。スマホというと、個人情報の塊。今やそのかまぼこ板くらいの物体に、その人そのものの情報が全て詰まっているといっても過言ではない。一般的な女子高生なら、たとえ仲が良くても人に触らせたくはない代物だろう。
「師匠、何に使うんですか?」
私はそう言いながら親の連絡先しか入っていないスマホをいとも容易く師匠に渡した。
「エゴサだよ。エゴサ。エゴサーチって言うんだっけ? 僕の過去の殺人事件が今どうなっているのか知りたいのさ。人を殺した僕の扱いがね」
師匠はスマホ……というかインターネットに繋がるものを何一つ持ってない。理由は『依存してしまうから』らしい。青空文庫を永遠に読み続けてしまうみたいだ。
「とりあえず一番上の記事でいいかな…………」
記事を黙読しているのだろう。気になるところは記事の概要よりも、その記事のコメント。昔は殺人を犯した師匠のことを全員が全員悪だと決めつけていたが、時間が経つに連れ、師匠擁護派や師匠を神格化した宗教、模倣犯まで現れ、顔写真も出てないのに神の代理人なんて呼ばれたりしていた。
「宗教は規模を小さくなったが継続的に活動を続け……また模倣犯を作り出そうとしてる……」
師匠は、ありがとう、と言いながら、ため息をついてスマホを返してくれた。
世間に与えた影響は小さくはない。人の噂もなんとやら。師匠の殺人事件も今や過去の負の遺産。
それでも師匠は私の目の前で息をして、生き続けている。私のために。師匠の本音は分からない。でも、なんとなく分かる。
俗世にまみれず、自由な人生を過ごしたい。
だから、一人でいたい。
「師匠っていつも本読んでますよね。休憩時間中も昼休みも。なんなら自習のときも本読んでますよね」
放課後の文芸部室で、赤信号を平気で渡る師匠に話しかけた。部員は師匠と私の二人。二人だけの異質な空間。
「休憩時間中は分かるが、自習のときは分からないはずだが……まぁ、本を読んでる」
師匠は一つ上の先輩だが、なんとなく教室で一人ぼっちなのは想像できる。だって人を明確なる殺意を持って殺したことがあるのだから。
「なんでいつも本読んでるんですか? 英書とか、ミミズが這ったような文字の本なんかも読んでましたよね」
いつものくだらない会話。
師匠はライトノベルをパタリと閉じて机の上に置いた。裏表紙のバーコードには五十円と書かれたテープが貼ってある。いつも新書ではなく中古本を読んでいた。お金がない……というわけでもないのに。
「僕はね、知っての通り自他ともに認める倫理観の欠如した人間だ。他者と話してもいいんだが、それだと思考や行動がワンパターンになる…………」
私の顔が理解できないという表情になったのかもしれない。それを察知してか分かりやすく話してくれた。
「例えば、太った人たちの集まりに標準体型の人間を入れたら同じように太ってしまう……みたいな。朱に交われば赤くなる、っていうのが一番分かりやすいと思うんだが、まぁ分からなくてもいいや」
文芸部なのに国語の点数はいつも欠点だ。だから私は師匠の話の三割くらいしか分からない。一を聞いて百を知る人間にはいつも尊敬してしまう。師匠のことなんだけど。
「とりあえず、僕は本を読んで見識を広げているんだ。欠如した……というか人間が勝手に決めた暗黙のルールの答えを僕は他者ではなく本に求めた。本は一応作者の主観とそれを最初に読む編集の客観の両方が入っているからね。他者と話すより効率的だ」
つまり師匠は自分に無い倫理観を、読書を通して補おうとしている……ということでいいんだろうか?
「メグちゃんの、その何も分かってない目を見てると、僕の説明力はまだまだだなって実感させられるよ」
やれやれと言った表情をしている。
「まぁ、そのすんだ瞳を見ていると、愚かな人間の知ったかぶりよりは、かなりマシだ。無知の知。メグちゃんくらいだよ。分からないことを正直に分からないと言ってくれるのは」
「師匠は私を馬鹿にしてるんですか?」
まるで何もわかってないと馬鹿にされてる気がしたので聞いてみた。ホントのところ、師匠の話は分からないんだけと。
「昔の偉い人は言いました。『馬鹿と天才は紙一重』と」
師匠は人を殺している。
精神的に追い詰めて自殺させた、とか、口論になって押し、その先に何かしらの突起物があって偶然殺してしまった、とかではなく、明確なる殺意を持って人を殺している。
私が師匠と慕う人はニュアンスで駄目なこと、例えば赤信号で渡らないとか、エスカレーターで片方空けるとか、不倫とか、に理由を求め、己が納得できなければ平然とやってのけるような、そんな人間である。
台風が来て学校は午前中で終わった。保護者なんかが迎えに来る生徒を尻目に私は師匠がいる教室……部室へと足を運んだ。
文芸部。
それが私と師匠の学校での唯一の居場所。
もともとは師匠が一人で活動していた部活に、私が入学して入部した部活。師匠は一人でも行きていけるような人で、教室ではいつも、小難しい本を読んでいる。時々英語の本や、ミミズが這ったような文字の本を読んでいる。本当に読めて理解しているのかは不明だが。
「師匠は家に帰らないんですか?」
いつもの席に座り児童文学の本を読んでいる師匠に聞いてみる。
師匠はつまらなそうに本を閉じて私の顔を見た。
「メグちゃんがここに来ると思ったから、鍵を開けて待っていたんだ。優しいだろう?」
恩着せがましい。
「でも台風なんですから、帰らないと怒られちゃいますよ」
私がそう言うと師匠は「怒らないよ。そもそも怒らせない」と言って児童文学の適当なページを開いた。
前に師匠は言っていた。
『僕の物語は、あの時に終わったんだ。そこから僕は死に向かって余生を歩くだけ。誰かの人生の、というか今は君の人生の脇役になったんだ』
あの時とは殺人を犯した時だろう……犯したという言い方は間違ってるかな……。私が師匠のことを師匠と呼ぶ理由を話した時にも同じことを言っていた気がする。
『雨の日も、風の日も、雪の日も、夏の暑い日にも文芸部の扉を開けておこう。そして僕は君の物語の脇役となろう。勿論、嵐がこようとも』
師匠の言っていることの三分の一も理解できない私。そのことについて師匠は『人の心っていうのは難しいんだよ。それこそ十、話して三、分かれば上出来さ』と言っていた。例え話が多い師匠。
私はこれからも師匠のことを慕い続けるんだろう。
師匠が師匠である限り。