神木優(かみきゆう)という名前。平々凡々な名前。優しい人になりなさい、みたいな由来だったと思う。詳しくは覚えていない。名前なんて人と人を区別するための記号。そんなふうに思っていた。
そんな痛々しい僕の中学時代。あだ名をつけた女子生徒が一人。彼女は病弱で、もう死んでしまっているのだが、僕を見つけるとパッと笑って、『キユウ君』と読んでいた。
彼女はどこか世間知らずなところがあって、というか、病院で大半の人生を過ごしているからか、学校に来れたことが嬉しくて、無茶をしていたんだと思う。
それを端から見ていて、内心ハラハラしていると、彼女は「キユウ君は心配性だな」と、いつも笑っていた。
僕のことをキユウ君と呼ぶ人はもういない。
でも、時々お墓に弱音を吐きに行くと、声が聞こえる気がする。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。まったく、キユウ君は心配性だな」
小説を書くにあたってインスピレーションはとても大切だ。同じ時間、同じ場所、同じ毎日を繰り返していたら思考も発想も凝り固まってしまう。
だから僕はよく散歩をしている。
新しくできたカフェに入ってみたり、骨董店を眺めてみたり……
だが、いいアイディアが降ってくることは稀だ。普段はただの散歩で終わってしまう。
今日の散歩も収穫はなしか……
そう思い、帰路についた時、ふと視線の先に自動販売機があった。別になんてことはない普通の自動販売機。喉が渇いているわけではないが、商品を眺める。
黒色の炭酸水。お茶。スポーツドリンク。コーヒー。
そして下の段、一番左にあるハテナと書かれたドリンク。百円玉を入れてハテナのドリンクを押すとランダムに商品が出てくるらしい。
面白そうだ。
そう思い財布から百円玉を取り出して、硬貨を自動販売機に入れる。ボタンの色が灯ったのでハテナを押した。
ガコン、と商品が落ちてくる。
何が出るのか分からない期待と不安の入り交じる中、商品を手にとって不覚にも笑ってしまった。これだから散歩はやめられない。
冷たくて結露しているおしるこをカバンの中に入れて、僕は帰路についた。
三十路目前にして同窓会があった。
一次会に興味はない。仲の良かった三、四人で居酒屋の個室を借りてやる二次会。こっちがメインだった。メインのはずだった。
学生の頃、彼女なんていらねー、とほざいていた友達Aは結婚し、働いたら負けだろ、と言っていた友達Bは有名企業でいい役職にいるらしい。他の輩も学生時代から結構変化があった。
ただ、僕だけ。僕だけが学生の頃から変わっていない。
未だに吹聴していた『作家になる』という夢を追いかけ、彼女も作らず、定職にも付かず、なんの資格も取り柄もなく、小説もどきを書き続けている。
気分は最悪だった。
「おい神木。まだ小説は書いているのか?」
不意にそんなことを聞かれた。僕は嘘がつけず、書いてる、とだけ答えた。それを聞いた他の輩は羨ましそうな顔を僕に向けた。
「お前に変化がなくてよかったよ」
誰かがそう言った。他の輩も、うんうんと同じように頷いている。
「俺達はさ、結婚とか就職とか筋トレとか、やらざるを得なかった。周囲から変化しろ、と圧力をかけられて変わっちまった。俺たちだって本当は昔みたいに馬鹿やって、その日暮らしができりゃーそれでよかったのに、どうしょうもなくなって、やりたくないこともやらなきゃいけなくなって、気がついたらこうなってた。
だからさ、変わってしまった俺達にとって、お前は俺達を過去に戻してくれる大切な友人なのよ。お前まで変わってたら、人間は誰一人として時代の波に逆らえないことになっちまう。だからさ、お前はできるだけそのままでいてほしいのよ」
酒の席。作家を目指してるお前が丁度いい、と言われてるような気がして素直には喜べなかった。が、嬉しかった。
ないものねだり。
僕は心の中で呟き、学生時代のニヒルを演じた笑い方で笑い、でグラスに注がれていたビールを飲んだ。
「僕の将来の夢は作家になることです。小説を読んでいるとき、僕はその物語の主人公になったような気分になります。ドラゴンを倒してお姫様を助けたり、怪盗になって厳重な警備を突破して宝石を手に入れたり、時には病気で好きな人の最後に立ち会ったり……現実ではなれない自分を物語を通して追体験させてくれるような気持ちになります。勉強勉強の毎日に正直、僕は今、学校生活があまり楽しくありません。ですが小説を読んでいるときは、そんな現実を忘れさせてくれます。だから、僕は作家になり、僕みたいに現実にうんざりしている人を救いたいです。」
小学生の時の課題:将来の夢 より
僕は作家になれない。
公園の木陰に寝転んだ僕は空を見上げ、そんなことを思う。
小説もどきを書いては出版社に送る生活を続けて、もう三十歳手前。どこも色の良い返事は返ってこなかった。
バイト先にでも就職しようか……
そんなことを考えていると公園の外から小学生の声が聞こえる。四人グループ。じゃんけんに負けたであろう一人の児童が他の三人のランドセルを担ぎ運んでいる。次の交代ポイントは公園の入口な、そしたらまたじゃんけんしようぜ、と仲が良さそう。
将来の夢、という課題を小学生だったころに書いたっけ?
「僕の将来の夢は作家になることです。作家になって──」
作家になって、何をするんだったか思い出せない。
でも、そんな昔から作家になろうとしてたんだな。
僕は立ち上がって帰路についた。
昔の自分に胸を張って作家になったぞ! って言うために。次の小説は自信作だ!