私は雨が好きだ。雨が降るときだけのあの匂いや音、普段なら人が居る場所にも誰も居ないあの新鮮さ、そして何より雨は何か洗い流してくれるような、包み込んでくれるような暖かたみがある。
これらは一見、長期的な雨が降ったときに限るような感覚であり、通り雨には無いものだと思う人も私の周りには多数居る。
それは雨が好きでなければそんなことに気を配らないし、常識的に考えての結果だろう。
しかし、それは全くもって違うのだ。
雨が降ったあとも匂いはするし、雨音は身近なものであるため雨が止んだあともすぐに音を思い出すことができる人も恐らく多いだろう。
田舎や公園だと、通り雨に焦り驚き目的地や家に急いで向かう人は大勢居るし、人の居ない新鮮さは十分堪能できる。
少しの雨でも洗い流してくれるような感覚や包み込むような暖かさはある。むしろ、通り雨の方が雨がすぐに止み、生き物が息を吹き返し鳴く音や、蜘蛛に隠されていた日の、強く元気な光が差し込み勇気づけられるような満足感に満たされることもある。
雨を嫌だと思う人は、この先もたくさん居るだろう。だけれど雨にも種類があり、それぞれいいところがあることを理解し、雨が降ったときは神経を研ぎ澄まし雨と少しでも向き合ってみて欲しい。そうすれば雨もきっと楽しめるようになるはずだから。
そんな綺麗で新鮮さをもたらし満たしてくれる雨だからこそ、私は雨が好きだ。
『色々な雨のいいところ』
私はアニメが好き。非現実的なものも、現実的なものも。
作画が綺麗だと、そのキャラ自体が美しく見える。
瞳が綺麗だと、そのキャラの心が綺麗に感じる。
そして、アニメに出てくるキャラクターはみんな人間性がいい。その度に、「自分もこうならこうなれたのかな」と思う。
でも現実は違って、そんな「美しく」なれやしない。
周りから変だと思われ、そんなことで傷つく自分をアニメを見て傷を塞ぎ、また傷つきアニメに縋る。
アニメのキャラは瞳が綺麗だ。傷ついた人を惹き付けるような、人格の差を見せつけるような、そんな瞳だ。それを見たらもう戻れない。またループに堕ちていく。
澄んだ瞳は、癒しにも刃物にもなってしまうと、私は思う。
「友情」定義がなく、学校の道徳でも出てくることはきっと多いだろう。
そんな道徳の授業ではその定義について書くことも少なからずあるはずだ。そんな時、これを見ている人はどのように書いているんだろう。
年齢によって異なるだろうが、例として挙げられやすいものは「信頼し合える」「助け合える」「一緒に居ると笑える」「安心する」など、夢のような関係性だ。
もちろん、そういう関係性の人達が存在していないわけじゃないと思うが、滅多に居ないと私は思う。
だが、それでは夢がない。
ならば私はお互いが友達と思えるなら、利用していても騙していても友達なんじゃないかと思う。
でも、その考えはあっさりとしすぎている。冷たい、関係が浅いなどの印象を受けることがある。
友情は定義が無い。だからこそ、難しく色んな意見が出る。みんなはどう思うんだろうか___
「今日もお花に水をあげてくれてありがとうねぇ! (本名)ちゃん、お花いつくらいに咲くのかしら?」
これは小学6年生の夏休み間近の話だった。
学校の委員会で、私は環境委員会という委員会に入っていた。
環境委員は生物、植物、学校環境(掲示板、掃除)の3つのグループに別れて仕事をするらしく、繊細な生き物の世話や、掃除なんて面倒臭い仕事は嫌だった私は植物グループを希望した。このグループでもリーダーを作るらしく、6年生だからと私はリーダーに推薦され、残念なことにリーダーになってしまった。
植物グループの仕事は勘づいている人が多いかもしれないが、基本植物の水やりだ。たまに花を植えたり土を入れ替えたりするくらい。滅多にやらないが。
まぁこんなことは忘れていい。無駄話をしすぎた。
冒頭のセリフを言った人はどういう立場だとみんなは思ったのだろう。おおよそ担任や校長、委員会の先生あたりか?
正解は上記の人達ではなく、よく学校に来るばっちゃん(おばあ様)だ。
「割愛」これからばっちゃんはSと表記します。
「まぁ仕事なんで。ミニひまわりとかそんな名前だったし、そろそろ咲いていいと思うんですけど…中々咲きませんねぇ…」
適当に返事をした。別に適当だからといってSが嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。
「そうなのね…?あ、あれ!あそこつぼみが開花してきてない!?」
Sはそういうと西側の花壇を指した。数秒探したあと、それっぽいものを見つけた。
近寄ると開花しそうな状態だった。
「本当に開花しかけですよ。水水〜っと」
私はそういいそこの花壇に持っていたジョウロのの水をたくさんやった。
とても綺麗だ。つぼみにキラキラと光る水がつき、花が可憐に強く咲いているようだ。
それから残りの花壇にもたくさん水をあげ、いつも通りホームルームの最中の教室に入った。
それから休み時間や体育の時には必ず花の様子を見に行き、水が足りなそうだったら水をあげた。
それを数回繰り返したある日、花が完璧に咲いた。
それを見た瞬間、自然と目は開き口角が上がった。
心の底から何かが勢いよく沸きあがってきたように感じた。その瞬間、達成感や満足感に似た感情が強く湧き上がり言葉に表せないほど嬉しかった。
今はもうその周辺のことは覚えていないが、凛々しく可憐に、そして美しく咲いていたあの花や、雲ひとつない暑いあの晴天はしっかりと覚えている__
私の名前はありきたりな普通の名前。
苗字も下の名前も一般的。そのせいで名前が被ることも少なくない。
例えを言うなら…そうだな。「須藤花美」(この名前の方が居たらすみません。悪意などは無いです。)みたいな女の子らしく、変わったところもない。
幼い頃は『「桜」や「朱音」、「結葉」みたいな可愛らしい名前がいいー!』とか、可愛らしいか被らない名前がいいとよく駄々を捏ねていた。
だが、今は逆に普通でよかったと思う。
普通だからこそ、名を名乗る時には相手に読み間違えられることはあまりないし、名前をちょっと略した可愛らしいあだ名で呼ばれたりもする。
私はそういうことがストレスも無いし、自分の名前のいい所だと誇りに思っている。
そして何より私に愛を苦しいくらい注いでくれた親がつけた名前だ。ケチを付けるのはあまりよくないし、キラキラネームじゃなくて本当によかった。
これを読んだみなさんの中に、自分の名前について不満がある人は居るだろうか。
今は改名や読み方変えが出来るが、それをする前に1度「自分の名前」を色々な角度から眺め、良い所を探した上でそれをやってみて欲しい。