Open App
8/13/2023, 4:12:56 PM

『心の健康』

 美しいものを美しいと、思えるくらいの心の健康。

8/3/2023, 6:56:11 AM

『病室』

 病室の窓から眺める景色が好きだった。

 二十年と少しの人生の大半をこの無機質な白い部屋で過ごしてきた私にとって、その小さなフレームから見える景色だけが、色の付いた世界だった。

 この部屋は広くて狭い。私は籠の中の鳥で、水槽の中の魚だった。外に出たいと願うくせに、外では少しと生きてはいられない。私の体をこの部屋に繋ぐ細い管は、同時に私の生命線だった。文字通りの、生命線。

 もし私が人並みに健康だったらと、ありもしない人生を何度想像しただろう。自由に野を駆け回る子どもに、何度醜い嫉妬を抱いただろう。健全な精神は健全な肉体に宿るように、不健康な私の身体には捻じ曲がって歪んだ思いが棲みついている。このままいけば終の住処となってしまいそうなこの部屋は、私の暗い性根を際立たせるように白く清潔だ。

 窓から覗く美しい世界の片鱗を眺めて、普通の生活すらままならない脆弱な器を嘆く。そんなことばかりしているからこの身体も一向に治りはしないのだと、そう言われればそうかもしれない。病は気からというが、しかし、気だって病に侵されるのだ。

 はたからみれば、鬱屈とした人生に違いない。あるいは可哀想だと憐れまれるのがよく似合う、悲劇の少女なのかもしれなかった。もう少女という年でもないが、少女だった頃からこの部屋に縛られていたことは事実だ。

 いっそのこと___と、何度か考えた。お金のかかるこの身体を維持するために、必死になって働いてくれている人たちの顔が思い浮かぶ。私がいなくなれば、彼らだって少しは余裕のある生活を送れるはずなのだ。何度か考えた末に、やはりこんな人生でも生への執着を捨てきれないのだから、人間とはなんと愚かな生き物なのだろう。あるいは私だけかもしれないが。

 今日も窓の外を眺める。澄み切った青空の高さには、この折れそうなほど痩せた手をいくら伸ばしても届かない。遠く遠くに見える雲の、その先へ行くのはきっとそう遠くない未来だ。

8/2/2023, 2:53:26 AM

『明日、もし晴れたら』

「明日晴れたら、ピクニックに行こうか。」
「ふふ、素敵ね。湖畔の公園がいいな、私。」

 彼女とそんな会話をした翌日は、大抵雨。生粋の雨男の俺は、小さい頃から楽しみにしていた日にはほとんど必ず雨が降った。分厚い雲と降り頻る雨を睨め付けたことは数知れず。傘に合羽に折り畳み。家にはやたらと雨具が充実している。
 そんな俺と彼女のデートは、当然のごとく雨ばかりだった。毎回、次こそはと目覚めた朝、カーテンを開けた瞬間の失望。ベッドにいても雨音が聞こえてくる日だって、そう珍しくもない。

「ごめんな、毎回こんな天気で。」

 いい加減げんなりしている俺に、彼女は楽しそうに笑うのだ。

「私はうれしいよ。だって、それだけ楽しみにしてくれてるんでしょう?」

 そう言ってお気に入りの傘をくるくる回す彼女に、俺は心底惚れている。


…………
………
……


「ねえ、明日、楽しみ?」
「はあ?そんなの楽しみに決まって___ああいや、違う!全然、少しも、全く楽しみじゃない!」
「あはははっ!」

 誰かに言い訳するみたいに慌ててそう叫ぶ俺に、彼女はこれ以上ないほど楽しそうに笑い転げた。

「笑うなよ。」
「だっておかしいんだもの。そんなにムキになって。」

 ざっと数分は笑っていた彼女の目尻には、うっすらと涙すら滲んでいる。どうやらツボに入ったらしい。

「だって、嫌だろう?結婚式まで雨なんて。」
「私は雨でも気にしないよ。」

 彼女はそう言って楽しそうに笑う。でも俺は知っている。まだ学生だった頃の彼女が、『憧れはガーデンパーティーなの。』って、友達に話していたことを。俺との結婚式にガーデンパーティーはあまりにリスクが高いことは明白だったから、結婚式の打ち合わせでも、彼女は一言だって言わなかった。

「ごめんな……ガーデンパーティーがしたいって言ってたのに。」

 俺が雨男じゃなかったら…なんて、嫌でも考えてしまう。

「ええ?私そんなこと言ってたっけ。」
「言ってた。高校生の時、まだ付き合う前だけど。」
「そんなに前のことまで覚えてくれてたの?うれしい。」
「そりゃ、あの時から好きだったから。俺のせいでごめんな。」
「謝らないで。間違いなくあなたのせいじゃないし、それに私、ほんとに全然気にしてないの。だって、キャンドルサービスができるんだもの。これは室内じゃなきゃ出来ないのよ?」

 いたずらっぽく笑って俺の顔を覗き込む彼女が、もう途方もなく愛おしくなって、俺は彼女を抱き込むように腕の中に捕まえた。彼女は「きゃあ!」と楽しそうに悲鳴をあげて、俺の腕の中に収まる。

「もう、まだ続きがあったのに。」
「続き?」
「雨でも気にしない理由!」
「ふふ、うん。聞かせてよ。」
「明日が雨でも晴れでも___」

 彼女は一度言葉を切って、俺の目をまっすぐに見つめた。まるくゆるんだ瞳が愛しい。
 それから、ちょっと照れたみたいにはにかんで、

「___あなたとなら、なんだって幸せだから。」

 そう言って頬を淡く色付ける彼女に、俺は明日の天気を諦めた。

「……明日はきっと土砂降りだ。」
「ふふ、そうね。」
「ウェルカムスピーチの練習でもしておこう。始まりは『お足元が悪い中__』だ。」

7/31/2023, 5:43:22 PM

『だから、一人。』

 無機質、と言うには少し違う。その部屋は、無感情という表現がふさわしいように思えた。椅子に浅く腰掛け、まっすぐにこちらを見ている男もまた、無感情な瞳をしている。嫌になるくらい晴れた日だった。

「___早く去れ。」

 彼はそう言って、ふいと視線を逸らした。青くて透明な瞳。そこには何も映っていない。かつて好奇心に輝いていた光は、彼が大事なものをなくしていく度に薄れ、そして消えていった。

「私は、」
「去れ、と言ったのが聞こえなかったのか。」

 冷たい声だ。異議を唱えようと上げた声はあっさりと封殺される。彼はもはや、こちらを見ようともしない。
 少しの沈黙を経て、私は目を伏せた。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。ああ、この人は。

「……失礼いたします。」
「ああ。そして二度と来るな。」

 この人はどれだけ孤独なんだろう。

 そっと退出の礼をする。再び顔を上げた時、彼はこちらに背を向けて、窓の外を見ていた。
 その背中に強がりを感じるのは私の願望だろうか。その声に痛みさえ感じるのは、私の。

 ___大事な人など作ったところで、すぐに消えるのが関の山だ。私は呪われている。

 いつかの彼の言葉だ。独り言のように呟かれたその言葉の虚ろな響きが、今も私の頭にこびりついている。あの時あなたに言葉を返すことが出来たなら、あなたは今ほど孤独を愛してはいなかった?

 屋敷のある丘を下りながら、私はつらつらとどうにもならないことばかり考えていた。どれだけ考えても、どれだけ願っても、過去は変わらない。変えられるのは未来だけで、未来を変えるにもまた相応の力が必要だった。その勇気も、力も、私にはない。

 私はきっと、明日もあなたを訪れる。そして今日と同じ言葉を返されて、またこうして坂を下りるのでしょう。

 あなたを救えるほど強くはない。拒絶を跳ね返して傍に居続ける度胸もない。あなたの心に土足で踏み込めるほどの図太さもない。

「……」

 臆病な私は、何も出来ない。

7/30/2023, 1:45:25 PM

『澄んだ瞳』

 透き通る瞳はまるで湖面。僕はあっさりと引き込まれ、そのまま深く沈んでいく。水の中でもがくように、鈍い抵抗もまったくの無駄。吐き出した最後の息は、宝石のように輝いて水面に消えて行く。
 僕はもうすっかり、君の虜。

Next