【きらめき】
ちょっとしたニュースだった。
久しぶりに再会したレイ君から連絡があった。
「モデル?!わたしが?」
サキは素っ頓狂な声を出した。
「うん。たぶん、文化祭でファッションショーができそうなんだ。サキちゃんに似合いそうなドレスがあるから着てほしい。」
「ええ〜」
レイ君がデザイナー志望だというのはこの間バラ園で再会した時に聞いていた。
「すごいね。高校生でファッションショーだって。」
サキは振り向いて母親を見た。
「ほんとにすごいわね。」
お茶をお盆に乗せて母が近づいてくる。
「たかが普通高校のお遊びみたいな舞台にはしたくないんです。」
レイ君が熱弁する。そのマネキンみたいな綺麗な顔には普段表情を出さないが、今はそれが溢れてる。
「部外者が参加してもいいの?」
「うん、大丈夫。人数が足りないからダンス部にも声を掛けてみようと思ってるけど。」
舞台上で身一つで視線を集めることに慣れてるダンス部ならきっと上手く衣装も魅せてくれるだろう。
「どんな服なの?」
レイはスケッチブックを開いた。
「前はこういうの、自分で着てたんだけど、身長も伸びちゃったし、だんだん似合わなくなってて…」
「あら、そんなことないと思うわよ?」
母とレイ君が話してるそばで、サキはページにくぎ付けになった。
イラストだけでは、きっとまだじゅうぶんには分からない。けど。
サキの癖だった。ちょっとしたきっかけで簡単に、空想の世界に飛んでしまう。一人で自宅や病室で療養してる事があったから、自分の頭の中だけがいつも遊び場だった。
海辺の砂浜、波打ち際で、きっとドレスの裾が水に付かないように捕まえて、クルクルと踊る少女のイメージが湧いた。小刻みに揺れる海面が昼下がりの太陽の光を受けて、キラキラときらめいている。そんなきらめきを写すような、ツルツルとした布地に、柔らかな海の色が溶け込んでいる。すごく綺麗だ。
「……キ。サキ?」
「え?ごめん。ボーッとしてた。」
「またどこか行ってたの?」
母が優しく微笑んでいる。母はサキが白昼夢に浸りがちなのをよく知っている。
「どうするの?引き受けてみる?」
「うん。やってみたい…!」
レイ君が嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、さっそく採寸させてもらっていい?」
レイ君が帰ってから、サキは部屋にこもって絵を描き始めた。ずっと絵本作家になりたくて、描きためている。密かな夢だ。
(レイ君、すごいなぁ…)
ひとりふふふと笑って画材を取り出す。サキの瞳にもきらめきが宿っていた。
【心の灯火】
ふとした時に、心が暖かくなる
すごく辛い時に、希望の光になる
そんな心の灯火を灯して
あなたは消えたの 夕闇に
水彩タッチのイラストを描きながら、シズクはあの夜のことを思い出していた。
我ながら、単純だと思う。あの日からあの人の事を考えてしまう。
(私、恋愛体質なのかな…)
シズクは頬を赤らめた。
よく、女性は耳で恋をすると言われる。
あの日、降りしきる雨音の中、少し高い位置から聞こえる、落ち着いた低い声。耳に飛びついてくるでもなく、かといって逃げようとするわけでもなく、するりと入ってくる、優しい声。急かすわけでも焦らすわけでもない、ちょうどいいテンポの会話。
(なんか良かったなー…)
雨と薄暗がりの中に灯った小さな火。シズクは自分の描いたイラストを見つめた。
(随分と抽象的ね。)
ブーッ
机の端に置いたスマホが鳴り、画面をのぞき込んだ。"あの人"からだ。
しばらく考え込んで、結局シズクはメッセージを開かなかった。イラストを描き続ける。
紫陽花のような薄い青紫を重ねていく。水彩色鉛筆で重ねた深い色に今度はそっと水滴を落としていく。じんわりと溶けた色は紙に広がり、染み込んでいく。
(もう一度あの人に会えたら、"あの人"の連絡先は消そう。)
自分の努力の上に成り立つわけではない状況に左右される条件に願掛けするなんて、賢くない人間がする事だと分かっている。でも、シズクはそういうのが好きだった。
心の灯火は、常にないと生きていけないもの。
【香水】
満員電車の中、ふと香水の香りが鼻をかすめた。知っている匂いだ。
匂いは、簡単に記憶を引き出す、形の無い鍵のようなものだ。もう二度と開けたくなくて厳重に封をしたつもりでも、そよそよと流れてきたかと思うと、いとも簡単にその箱を開けてしまう。厄介な存在だ。
マコトは顔をしかめた。脱サラして以来、めったに満員電車には乗らない。こんなのに毎日乗って出勤していたという事が嘘のように思える。誰もが屠殺場に送られる家畜のような顔をしている。男性たちは痴漢の冤罪に怯え必死に両手を上げ、女性たちは中年男性に挟まれるとあからさまに嫌そうな顔をする。小さな子が騒ぎ、母親が肩身の狭そうな表情を浮かべる。電車でのマナーを知らない外国人が大声で会話しているのを聞くと、なぜか内心ホッとしていた。
なぜわざわざこんな時間に電車に乗っているかというと、午前中で完売してしまうというパン屋のスコーンを買いに行くところだからだ。脱サラして開いたカフェはコーヒーだけでやっていこうと思っていたが、特にバリスタの大会で賞を取ったとか、そういう「箔」がついてないと厳しいようだ。それで、何か軽食を出そうと思案、情報収集している。
(香水の匂いは苦手だな…)
それも、満員電車が嫌いな理由の一つだ。一つ一つはいい香りなのかもしれないが、複数の香りが混ざってしまうと地獄になることがある。
(しかもこの匂い…)
目を閉じると、嫌でもあの人の姿が思い浮かぶ。華奢で小柄な体つき。お嬢様育ちで世間知らず。弱くてどうしようもない人。
ちょっと胸が苦しくなりかけた時、アナウンスが聞こえた。降りる駅だ。
人混みにもまれながら電車を降り、駅を出る。目的のパン屋は徒歩10分程度だ。近くまで来ると、焼き立てのパンの匂いが辺りまで漂っている。マコトは少し立ち止まってパンの匂いを肺の底まで吸い込んでから、店内に入った。
店内にはところ狭しとパンが並べられている。今日の目的はスコーンだが、マコトは他のパンもいくつか買っていくことにした。サンドイッチにできそうなバケット、子供の頃から好きなメロンパン、イングリッシュマフィンにクロワッサンもある。店内にイートインのようなスペースはない。
パンの焼ける匂いは人間を幸福にすると思う。子供の頃、母と姉が何度か作ってくれたバターロールを思い出す。妹はまだ小さくて、いつも手をベタベタにしながら食べていたっけ。それをティッシュで拭いてあげるのはマコトの役目だった。そんな妹も今は大学生だ。
マコトは店から出て、紙袋の中を確認した。
(ちょっと買いすぎたかな)
顔がニヤけてしまう。
(近くのカフェ探してコーヒー飲んでから帰るか。)
もう、あの香水の香りを思い出すことはなかった。
【ことばはいらない、ただ・・・】
シュンとは、そういう関係になった。まぁ、男同士つるんで、そんなにお喋りするもんでもない。
レイは心の中で呟いた。そうは言っても、今日のレイはどう見ても女の子だ。太ももに大きくダメージの入った太いジーンズに、へそがのぞくキャミソール、その上からゆったりしたかぎ針編みのニットを着ている。骨格診断のことはよく分からないが、女性のナチュラルタイプとかが着てそうな服はまだいける。もちろんムダ毛は全部処理しているし、そこらへんの女の人よりボディケアには余念がない。
「俺が急に行っても、驚かれないか?」
珍しく、シュンが緊張しているようだ。
モデルになってくれるようお願いしてから、その話とは関係なく、何度か会って分かったことがある。シュンは見た目こそ不良みたいな風貌をしているが、実際にはちょっと天然が入っている。
初めてバイトの応募の電話を掛けた時には、居酒屋にかけて「未成年はトラブル防止のため」と断られたらしい。しかもそれであきらめずさらに2件別の居酒屋に掛けて同じ理由で断られている。4件目にしてやっと、21時までという条件で面接を受け、採用され、今はそこで働いている。
「なんで居酒屋にこだわるの?高校生なら、ファーストフードとかコンビニとか、他にもあるでしょ。」
といつものカフェの店長に聞かれて、
「いや、なんか俺、居酒屋にいそうでしょ」
とシュンは言い放った。
睨んだだけで泣く子も黙るような見た目なのに、どこかズレている。それが、レイの受けた印象だった。大方、その見た目のせいで損してきてるんだろう。
「うちの家族、あんまり家にいないから」
レイは答えた。半分は嘘だ。母親はいつも家にいるし、部屋に引きこもってる妹もいつも家にいる。家にいないのは父親だけだが、妹は部屋から出てこないのだから、いないようなもんだろう。
「そっか・・・」
シュンはしきりに手汗をズボンで拭いている。
(あんまり友達の家に行ったことないんだろうな。)
「ま、入って。」
レイは玄関を開けてシュンを招き入れた。
まさか、そんなすぐに、あんなことが起こるなんて思ってなかった。
いったいどういう巡りあわせだろう。
ガシャン
玄関から入り、そのまま一緒に階段を昇ろうとしているシュンの姿を見て、母が片付けようとして手に持っていた食器を床に落とした音だった。
その音にシュンが振り向き、母と対峙した。
「お母さん・・・?」
「シュン・・・?」
その後に待っていたのは、地獄だ。結局シュンは「悪い。今日は帰る。」と言って出て行った。母はうろたえて泣くばかりだ。
母に前の夫がいることや、その人との間に子供がいることも、聞いていた。だから、その場ですぐに、状況は察した。
ことばはいらない、ただ・・・
(弁明はいるだろう、よ)
レイは昇りかけた階段の途中から、ただひたすらうなだれる母を見下ろすしかなかった。
【突然の君の訪問。】
突然、君がやってきた。もちろん、部屋の掃除はしていない。
「相変わらず、汚いね~」
レオナが言う。彼女がこの部屋に来るのは、かなり久しぶりだ。
「なぁに、幽霊でも見たような顔してる」
自信に満ち満ちたような表情はあの頃と変わらない。
「だって。そりゃ、驚くでしょ。ずっと部屋から出てないって聞いてたから。」
ユウキは声を絞り出すようにして、答えた。
「焦るとメガネ直す癖も変わってないね。」
ユウキの言葉は無視して、レオナが指さしてくる。ユウキは少しムッとして、
「なに?急に来て。」
せっかく引きこもってた幼馴染が来てくれたんだから、ほんとは嬉しい気持ちでいっぱいなのに、レオナの横柄な態度につい応戦してしまう。
「別に。元気かな、と思っただけ。」
レオナは悠然とユウキの机のへりに腰かけ、ユウキのヘッドホンを耳に着けた。
「最近は何やってんの?」
優雅な仕草でパソコンを覗き込む。
「ゲームだよ。」
ユウキはドキドキしながら、最近やっているゲームの画面を開いた。
実を言うと、内緒でレオナのSNSのアカウントをフォローしている。というか、フォローするだけに留まらず、素性を隠して仲良くなり、一緒に楽曲制作をしているのだ。そして、それが今バレるのは良くない。
ユウキはSNSをログアウトできているかハラハラしながら、少しだけそのゲームをプレイして見せた。
「やば。めっちゃ強いじゃん。」
ヘッドホンはレオナがつけてるので無音で操作せざるを得ない。
ドサッ。
画面上の敵が倒れた。
「ふーん。」
レオナはヘッドホンを外して、今度はベッドでくつろぎ始めた。艶のある黒髪ストレートのボブに、いつの間に入れたのかブルーのメッシュが入っている。小さい頃はモデルをやっていただけあって、その長い脚を組むだけで妖艶な雰囲気さえ漂う。
(中学生とは思えないな・・・)
昔から、レオナは女王様だった。いつどこにいても、あっという間にその場を支配してしまうオーラがある。
「ねぇ、学校、行かないの?」
「うーん。どうだろうね。」
「レオナなら今から勉強しても間に合うだろ?」
彼女はユウキとは違うお嬢様中学校に通っている。高校はエスカレーターで上がれるはずだ。
「まぁね・・・。」
煮え切らない返事をしながら、ベッドに投げ出してあった音楽系の雑誌をめくっている。主にピアノ曲の雑誌だ。
「まだピアノやってるんだね。」
「うん・・・。」
何か突っ込んだことを聞かれるんじゃないかと、ついそっけない返しになってしまう。
「ん。帰るかな!また遊びに来るね。」
来た時同様、突然レオナは立ち上がった。
彼女がさっさと出て行ってしまったので、なんとなく立ち上がるタイミングを逃してしまった。階下の玄関の方から、母がレオナを見送っている声が聞こえてくる。
不思議な感じがした。
さっきまで、この部屋にレオナがいた。彼女の妖しげな微笑を思い出す。ユウキはベッドの方に目をやった。さっきまで、そこにレオナが座っていた。
なんとなく、見続けてはいけないような気がして、ユウキは慌ててヘッドホンをつけ、ゲームで無心で敵を倒し続けた。