和正

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【香水】

満員電車の中、ふと香水の香りが鼻をかすめた。知っている匂いだ。

匂いは、簡単に記憶を引き出す、形の無い鍵のようなものだ。もう二度と開けたくなくて厳重に封をしたつもりでも、そよそよと流れてきたかと思うと、いとも簡単にその箱を開けてしまう。厄介な存在だ。

マコトは顔をしかめた。脱サラして以来、めったに満員電車には乗らない。こんなのに毎日乗って出勤していたという事が嘘のように思える。誰もが屠殺場に送られる家畜のような顔をしている。男性たちは痴漢の冤罪に怯え必死に両手を上げ、女性たちは中年男性に挟まれるとあからさまに嫌そうな顔をする。小さな子が騒ぎ、母親が肩身の狭そうな表情を浮かべる。電車でのマナーを知らない外国人が大声で会話しているのを聞くと、なぜか内心ホッとしていた。

なぜわざわざこんな時間に電車に乗っているかというと、午前中で完売してしまうというパン屋のスコーンを買いに行くところだからだ。脱サラして開いたカフェはコーヒーだけでやっていこうと思っていたが、特にバリスタの大会で賞を取ったとか、そういう「箔」がついてないと厳しいようだ。それで、何か軽食を出そうと思案、情報収集している。

(香水の匂いは苦手だな…)

それも、満員電車が嫌いな理由の一つだ。一つ一つはいい香りなのかもしれないが、複数の香りが混ざってしまうと地獄になることがある。

(しかもこの匂い…)

目を閉じると、嫌でもあの人の姿が思い浮かぶ。華奢で小柄な体つき。お嬢様育ちで世間知らず。弱くてどうしようもない人。

ちょっと胸が苦しくなりかけた時、アナウンスが聞こえた。降りる駅だ。

人混みにもまれながら電車を降り、駅を出る。目的のパン屋は徒歩10分程度だ。近くまで来ると、焼き立てのパンの匂いが辺りまで漂っている。マコトは少し立ち止まってパンの匂いを肺の底まで吸い込んでから、店内に入った。

店内にはところ狭しとパンが並べられている。今日の目的はスコーンだが、マコトは他のパンもいくつか買っていくことにした。サンドイッチにできそうなバケット、子供の頃から好きなメロンパン、イングリッシュマフィンにクロワッサンもある。店内にイートインのようなスペースはない。

パンの焼ける匂いは人間を幸福にすると思う。子供の頃、母と姉が何度か作ってくれたバターロールを思い出す。妹はまだ小さくて、いつも手をベタベタにしながら食べていたっけ。それをティッシュで拭いてあげるのはマコトの役目だった。そんな妹も今は大学生だ。

マコトは店から出て、紙袋の中を確認した。

(ちょっと買いすぎたかな)

顔がニヤけてしまう。

(近くのカフェ探してコーヒー飲んでから帰るか。)

もう、あの香水の香りを思い出すことはなかった。

8/31/2023, 7:29:52 AM