テーマ:言い出せなかった「」
僕は1人で夜道を歩いていた。
ひっそりと静まりかえった深夜だ。煌々と光る街灯に、蛾が集っている。
僕もこの蛾と同じだ。
何処に行くでもなく、ただ光に吸い寄せられている。
只、僕が吸い寄せられているのは人工物の灯りではない。
月光だ。
今日は、何故だか寝付けなかった。
何があった訳でもない、いつも通りに学校へ行きいつも通りに過ごした。
何か悪いことがあったでも、良いことがあったでもない。季節は夏といえど、エアコンの前には寝苦しい気温など関係もない。いつもなら、寝付けるはずだった。
しかし、寝付けなかった。そこだけ普段と異なっていた。
寝られないが、特にすることもないので僕はカーテンを開けボーっと窓から月を眺めていた。
そうしたら、外に出てみたいと思った。
あの月光に、少し近づきたくなった。
無論、月光に向かって歩いて行ってもそれは宇宙の彼方にある訳なので、どれだけ時間をかけようが実際に近づくことなどないと理解はしていたが、ただフラフラと正しく吸い寄せられたのだ。
こっそりと足音を殺し、玄関扉を押し開け外へ出る。
8月の、じっとりとした空気が身体に一気に纏わりつく。
月は、満月だった。
僕は当てもなく頭上を眺めながら歩いた。歩き続けた。
アドレナリンが出ているのを感じる。
いよいよ、今夜は眠れそうにない。
夜明けまでは後どれほどあるのだろうか?あぁ、時計でも持ってこればよかった。
昔読んだ絵本を思い出した。ぼんやりとした記憶だ。
女の子が、柄杓を持って夜道を歩く話だったと思う。
途中でさまざまな人に出会い、持っていたパンを渡したり、着ていた衣服を渡して最後には何もなくなったけれど、空から金貨が降ってくるみたいな話だったと思う。
あの話は、何故だか僕をそわそわさせた。
幸福でも不幸でもない、ただ神秘的だと思った。
それだけ、印象に残っている。
僕も今、あの子と同じだ。ここは街灯もある単なる住宅街で、僕はパンなど持っていないし衣服をなくすようなシチュエーションにもならないだろうけど、同じだと何故かその時は思った。
歩き続けて、丘の上の公園へ来た。
ベンチが見える。そこへそっと腰掛けた。
じっとりと汗をかいている。あぁ、これは朝にシャワーでも浴びないといけないだろうな。寝巻きがわりにしていたシャツが肌に張り付いて鬱陶しい。
月を眺める。風がそっと吹いて体を少し乾かす。
ついでに脳も乾いていった。一体何をしているんだろう?
僕は、帰路に着くことにした。まだ、夜は明けていない。結局家を出てから1時間も経っていないのではないだろうか?
今度は月に背を抜けてトボトボ歩く。
玄関扉を開けると、母が立っていた。
少し不機嫌そうだ。あぁ、バレてたか。やっちゃったな。
「何をしていたの?」と、ささくれたような声で問われる。
僕はただ、「眠れなくて」とだけ答えた。
母は、ため息をつくと良いから大人しくベッドに入って羊でも数えてなさいと僕の背を押した。
僕は、「でも今日はもう眠れないよ」と言おうと思ったけれど、結局言い出せなかった。
ベッドに入り、天井を眺めると街灯の下でくるくる舞う蛾のことを、ぼんやりと思い出した。
今日はどうにも、不思議な心持ちだ。
テーマ:「届かない」
自分の書いた手紙に込めた思いは彼に届かないことはわかっている。
きっと、彼は私の手紙を読もしないだろう。
でも、それでいいんだ。
彼は、手紙を読まないけれど捨てもしない。
このSNSが発達した時代に、態々紙という媒体を選んだのはそれが理由だ。
彼は、きっと手紙を食べてくれる。
自分の痛々しいほどに張り詰めた心の内を全て曝け出すかのように書いた長々しい文章は、1行も目に触れることなく、彼の胃袋に収まるのだ……
数日後、彼からの手紙が届いた。
手紙を開くと、「この間のお手紙、御用事なあに?」と一言。慌てん坊でそそっかしい彼らしい少し斜めった、お世辞にも綺麗とは言えない字。
その文字を指でなぞり、少し微笑みが溢れる。
私は、今度はスマホで彼にメッセージを送る。
「なんでもないよ。ただ、この間映画を見ていたら久々に手紙を書いてみたくなってさ。ねぇ、今度久々に会ってどこかで遊ばない?」
すぐに、彼からのメッセージが返って来た。
「そっか!じゃあまた美味しいものでも食べに行こうよ!あと、この間の手紙も実は食べちゃったんだけど、美味しかったよ!」
私の思ったとおり。黒ヤギさんは相変わらずなんだから……!
高校生の頃、あの人に手紙を書いた。
勇気を出して書いた手紙だ。
“私のこと、どう思ってた?好きだった?私は、多分好きだった。”
たった1行の手紙だ。この1行に、私は全部の思いを込めた。
ずっと、嫌いだと思っていた。ずっと、嫌いだと思うようにしていた。
本当は、貴方のことが好きだという事を認めて、そして貴方にも私を思う気持ちが何処かにあるんじゃないかって期待をする事が苦しかった。
そんな苦しみを、全部この1行に詰めた。
でも、渡す勇気は私には無かった。
結局、貴方とは小学校4年生のあの日以来話すことは無かった。
それから、私は28歳になった。貴方の顔も、もうすっかり忘れていた。歳をとったね……私も、貴方も。
棺の中の、顔を覗く。嘗ての顔がどんなだったかもうぼんやりとしか覚えていないけれど、全然知らない人みたいだ。
私、貴方に会うのがずっと怖かったんだ。
貴方が私を愛していないって知っても、私を愛してるって知っても、どんな顔をすれば良いのか分からなくて。
お母さんとの裁判で、貴方が親権なんていらないって言ったって聞いて、私はそれがずっとショックだった。
だから、私は貴方に合わないことで傷つかないように自分を守る事を選んだ。
でも、私ね覚えてるよ。私が夜中に泣いた時、優しく腕の中に包み込んで私を慰めてくれた事。
だから、私本当は分かってた。貴方が私を愛していたって事。私も、本当は好きだったって事。
何度も会いたいって言ってくれてたのに、結局会うことも、手紙を渡すことも出来なくて。私は本当に臆病だ。
ずっといつか渡そう、渡そうと思っていた手紙。今になって渡すなんて遅いかな。
でも、この手紙は貴方に届ける為に書いたものだから。
机の引き出しから、引っ張り出してきたんだ。
「左様なら。お父さん。」
さようなら。良い父親では無かったけれど、悪い人でも無かったと思うから。
きっと、手紙の行方は天国行きになるように、そっと祈った。
『夫婦』
幸恵と結婚したのは12年前になる。あの頃は、早く婚姻関係を持ってこの女を自分の側に縛り付けねばならないという一種の使命感のようなものを抱いていた。
若い時分、私は九州出身の男らしく亭主関白を家庭のイメージとして抱いていた。実際、親父はまさに昭和の亭主関白な頑固親父といった態度であり、母の方は物静かで地味な土手に咲くすみれのような大人しい純和風な女であったため、自身の考えていた家庭のイメージとはそんなものだった。九州の辺鄙な片田舎では、周囲の家庭も概ねその様なものであった為、大人になれば自身もそのような家庭を作るのだろうとぼんやりと考えていた。
大学進学という頃に、俺は上京をした。仕事も人も都心に集中していくと叫ばれ、田舎の人口減少やら少子高齢化が強い波となり押し寄せて来た頃であり、事実実家近くの会社やら、商店やらも廃業続きでこのまま此処で暮らし続けて良いものかと不安感を覚え無理を通して東京の大学に入学をした。
幸恵とは、2回生の頃に飲み会で出会った。一体何の名目で開催された飲み会であったかは忘れたが、俺を飲みに誘った剣道サークルの村上先輩の彼女の友達に誘われて、その飲み会にやって来たのが俺と同じく2回生であった幸恵だった。
飲み会の主催が先輩であった為、2回生は少なく俺と幸恵は端の方の席に隣り合って座らされた。
田舎から出てきて、1年は経ったがまだ東京の人間には中々馴染めず、その中でも東京の女は派手な装いをしていることが多かった為、俺は2回生になっても女とはあまり関わり合いにならなかった。時折り、話しかけられても苦手意識というか、嫌悪感というか東京の女とは同族の様に思えず心に大きな壁があった。
幸恵には、「東京の女」の雰囲気を感じなかった。飲み物を両手で持ち、下を向いて周囲の会話に混ざれず、ただただグラスを垂れる水滴をジッと見ている内気な女。メイクも薄く、服装も暗い色のブラウスとズボンというまぁ地味なものであった。間違っても、渋谷の109などには行きそうにもない。第一印象は、田舎の女なのだろうか?というものだった。 東京の女とは、馴れ合えそうもないが、この女とはまぁ話が出来そうだ。そう考えた俺は、幸恵に声をかけた。
「君も2回生なんだろう?話そうじゃないか。君、出身は何処なんだい?」
俺の言葉を聞くと、幸恵はゆっくりと顔をグラスから此方へと移し、小さい声で答えた。
「はい。2回生です。出身は東京で宇多川のあたりです。」
俺は驚いた。幸恵は、色が白く地味なもんだから大方青森だとか、秋田だとか東北から来たものだと考えていたが、まさか東京の「と」の字も感じさせない様なこの女が東京生まれだとは。俺は俄然、幸恵に興味が湧いた。東京生まれの東京の女らしからぬ女。一体どうすればこの煩く、年中百鬼夜行の様な騒がしく爛々とした東京で東北の女の様な風態になるのだろうか。
それから、幸恵は自分から他人へ話をするのが苦手そうなタチであるのに加えて、俺の方は幸恵に様々な質問やらをしたものだからその飲み会では幸恵はほぼ俺とだけ話すことになっていた。その後も、ゼミやらサークルやらの付き合いで飲みに誘われるたび、どういう訳か幸恵もまた別筋の知り合いから誘われて来ているという事があり、俺と幸恵が恋仲になるのにもそう時間は掛からなかった。
大学を卒業し、東京の大企業とは言えないがそこそこの商社に就職した俺は今では九州の男というより東京の男になった。東京は人を染めると言うが、俺は正しく東京に脳天から爪先まで染められた。若かりし頃の「東京の女」への嫌悪はなくなり、街を闊歩する魑魅魍魎も当たり前の人間であり、当然の住人だと認識を改めた。
読書家で大人しかった幸恵は、出版社に就職をしたもので、文学書を担当したいのかと思っていたが、実際のところ担当したかったのは女性向けの雑誌であったらしく、今では何とかという横文字のファッション雑誌を担当している。
学生生活を終え、俺と結婚をし、仕事に精を出す中で幸恵はどんどんと変わって行った。結婚をすると、女は派手な装いから地味になる事が多いと聞くが、幸恵はその反対であった。
地味な幸恵は、洒落た装いの女になった。109などには絶対行きそうにも無いなどと考えていたが、今では仕事でもプライベートでも109に行き、最新の流行だと言う服を買ってくることも多い。先日も、何処かしらのサロンで施して貰ったというネイルを披露してくれた。
幸恵は、あの時分俺が興味を持った東京らしからぬ女では無くなった。実のところ、幸恵の稼ぎは俺よりも多いほどで俺が養ってやるというような女でもない。家にこもって大人しく亭主に縛られて生きるなんてのは、全くもっての外のようで、自分のそばに縛りつけるなんて事は出来ない、自由な蝶となった。
幸恵は、輝いている。出会った頃より一層。今の幸恵は面白く、興味深く、あの時分つまらないと思っていた東京の女はこんなにも側にいて楽しい存在だったのかと思わせられる。 過去の出会いから、現在までに思いを馳せていると、キッチンから幸恵が紅茶を持って来て対面の席に腰掛けた。
「私ね。貴方と付き合い始めた時は、紅茶を飲むなんて思ってなかったなってさっき考えてたの。」
一体、何の話だろうか。と思い、どうしてそう思ってたんだ?と問いかけると、幸恵は笑いながら答える。
「昔の貴方って、頑固な人って感じで少しムスッとして、如何にも亭主関白で緑茶を淹れさせそうだったものだから。昔は、そこが面白そうで貴方に興味を持ったんだけど、今は東京の男で紅茶に砂糖を2つも入れるんだから。」
俺は、少し不安になって幸恵に尋ねた。
「亭主関白で、頑固そうな人が好みだったのか?それなら……俺はかなり変わってしまったから、今はもしかすると……」俺が言い淀むと、幸恵は快活な笑い声を上げた。
「まぁ、昔はね。あまり周囲にいないタイプだったから。でも、今の貴方も大好きよ。意外と繊細で可愛いんだから!」
私も、妻も昔とは変わった。性格も考え方も。昔興味を持った相手と、今の相手は同じでは無い。でも、今の相手にも興味を持って、愛を持って、そして昔より今の方が好きだとさえ思う。
幸恵と結婚挨拶に行った時、見せてもらった親父と母の出会いのアルバムと、父の言葉をふと思い出す。
母は薙刀の選手で、道端のすみれというより、生けられた一輪の白百合で父は気弱な文学青年だった。それが、一見関白な亭主と大人しい妻になっていた。
「本当は、アイツは私に縛られるような人じゃ無いのだが、私に尽くすのがどうも楽しいらしくてね。可愛らしいだろう。」
人は、変わる。変わっても愛おしく、変わるから愛おしい。その変化を側で見られることそれが夫婦の楽しみであり、喜びだ。
幸恵の淹れる紅茶は、今日も美味しい。
『スリル』
買い物をする時、僕の脳裏にはふと、これは万引き出来そうだなと悪い考えが過ぎる。
防犯のタグがない小物や、タグがついている台紙からすぐに外せそうなアクセサリー、監視カメラの視覚になっている場所、防犯のセンサーが設置されていない店。
僕の脳は、いつも自然と万引きのシミュレーションを始める。自分で言うのは何だが、僕は善良な人間である。こんな事を考えながらも万引きをした事など一度もない。
愛想がいい事で近所のおばちゃん達にも人気だし、バイト先でもいつも元気でニコニコしていて良いねと褒められる。今までの人生でした悪いことは、急いでいた際に車通りの少ない道路で信号無視をしてしまった事くらいで、人畜無害とは正に自分を指す様な言葉だ。
別に、特別その物が欲しい訳では無い。お金に特別困っているという訳でもない。ただ、僕は面白さを見出してしまっているのだ。もし、万引きをしたらと考え自分がまんまとこの店から何かを盗るという誰にも知られない、自分の頭の中だけでのスリルを。
僕がこんな事を考えているなんて、誰も思いすらしないだろうという倒錯した優越を。僕は一人愉しんでいるのだ。