ここのところ、天気が悪い日が続いていた。窓から見える外はホワイトアウトしており、外に出ることもままならない。
幸いなことに、買い込んだ食料はまだまだ残っている。しばらく、家から出ずに引きこもっていることにしよう。
マーシャはぱちぱちと薪が爆ぜる暖炉の傍に、ロッキングチェアを移動させ、戸棚から毛糸玉と編み針を取り出した。この二つを以前に触ったのがいつだったのか、もう思い出せないが、編みかけの何かが残っている。
その編みかけの何かを矯めつ眇めつして悩んだ末、彼女はマフラーを編むことに決めた。特に凝ったことをするつもりはないが、ただ編むだけではつまらない。縄編みで模様をつけて、最後にフリンジをつけよう。
そうと決めたなら、あとは編むだけ。そして、マーシャは猛然と編み針を動かし始めた。
どれくらいそうしていたのだろう。手がかじかんできたなと思って辺りを見回すと、いつの間にか薪が燃え切っていた。
彼女は大きく伸びをすると、立ち上がった。納戸から薪を取ってこなくてはならない。カーディガンを羽織って部屋の外に出た。
廊下は当然冷え切っている。冷え切った手先に息を吐きかけながら、納戸の方へと歩き出す。
階段を下りようとしたとき、
「マーシャ」
階下から声がした。階段の縁から身を乗り出して下を見ると、マルスがこちらを見つめていた。
「マルス? どうかしたの?」
階上から声をかけると、彼は手招きをした。彼女は困惑して首を傾げたものの、階段を下りていく。
彼の傍に立つと、小首を傾げた。
「どうかしたの?」
彼はマーシャの方を見て、にっこりと微笑んだ。ゆっくりと手を挙げて、ある方向を指差す。
「見てごらん」
彼の指す方向は玄関だ。その方向へ振り向くと――。
まあ。思わずマーシャは声を漏らすと、玄関から外に飛び出した。
いつの間にこんな天気になっていたのだろう。外はここ数日の中では珍しいほどの晴天が広がっていた。
「いい冬晴れだな」
「このまま、少し散歩でもしない?」
「ああ、構わないとも」
輝いた瞳できょろきょろと辺りを見回すマーシャを、彼は愛おしげな眼差しで見つめている。
カーテンの隙間から漏れる陽光が眩しくて、ハイネは目を覚ました。時計を見ると、いつもの時間だ。
ゆっくりと体を起こすと、いつの間に帰って来ていたのやら、ヴィルヘルムが隣で眠っていた。寝息を立てる彼を起こさないように、ベッドから下りると、カーディガンを羽織って部屋の外へと顔を洗いに出た。
冬の朝は冷える。震えながら部屋に戻ると、ハイネは着替えを始めた。外出も来客も予定がないので、ゆったりとしたワンピースを手に取った。
袖に腕を通しているとき、
「おはよう、ハイネちゃん」
背後から声がした。物音を立てないように気をつけていたつもりだったが、いつの間にか彼も目を覚ましたらしい。
ハイネは振り返った。
「おはようございます」
彼女の返事は素っ気ない。
「珍しいですね。いつの間にお帰りになられていたんです?」
その素っ気なさに動じることなく、ヴィルヘルムは体を起こすと微笑んだ。
「深夜にね。ハイネちゃんを起こさずに済んだみたいで何よりだよ」
そうですね、と彼女は肩を竦めると、再びカーディガンを羽織った。
「朝食はどうされますか。召し上がられますか?」
「いいのかい?」
「一人分用意するのも二人分用意するのも大して変わりませんから」
着替えを始めた彼を尻目に、ハイネは部屋を出た。
少しでも寒さに対抗できるようにと小走りでキッチンに向かうと、手早く調理を始める。冬のいいところは食材が傷みにくいところだが、それ以外にいいと思えるところはない。
スコーンを焼くために窯に薪を入れるついでに、リビングの暖炉にも薪を入れる。朝食の用意が整う頃には、リビングもほんのりと暖かくなってきた。
「ああ、いい匂いだね」
「用意ができましたよ」
「ありがとう。いただくよ」
ハイネの言葉に彼は席につくと、フォークを手に取った。ハイネは少し遅れて席につくと、焼いたスコーンを半分に割ってジャムを塗る。食べようと口を開けた瞬間に、ヴィルヘルムが言った。
「ねえ、ハイネちゃん」
「……何ですか?」
「幸せって何だと思う?」
彼の問いを無視して、ハイネはスコーンを頬張った。バターの風味と濃厚なジャムの取り合わせがとても美味しい。
さあ、とでも言いたげにハイネは首を傾げた。スコーンを呑み込んで、ハイネは渋々と口を開く。
「幸せかと問われると、首を傾げてしまいますが、それならば不幸せなのかと問われると、違うと感じます」彼女は一旦口を噤んだ。深呼吸をして言葉を続ける。「だから……わたしにとって幸せとは何でもない毎日のことだと……そう思います」
ハイネはそう言うと、優しい微笑みを浮かべた。
ゲルダは立ち止まると振り返った。自分の数メートル後方にいる青年に向かって、手を振る。暗闇の中、カンテラを持つ彼女の姿がぼんやりと浮かび上がっている。
「ガロさん、早く早くー!」
ガロと呼ばれた彼は微苦笑を浮かべながら、返事するかのように小さく手を振り返した。
彼の姿もまた、暗闇の中に、薄っすらと浮かび上がっている。 きちんと彼がついて来ていることを確認したゲルダは、再び歩き出した。
二人は今、日の出を見るために、崖の上に向かう山道を登っているところだ。
急な提案にガロが呆然としている隙に、ゲルダはさっさと先を歩き出した。彼がはっと我に返った頃には、既に彼女は遙か先を行っていた。
出だしこそ遅れたものの、元の体力とコンパスは彼の方が大きい。すぐにゲルダに追いついた。
「ゲルダさん!」彼は彼女の腕を掴みながら言った。「夜道は危ないですから!」
小さな笑い声を上げて、彼女は彼の方に顔を向けた。
「大丈夫ですよ。最近は魔物の数も減りましたし」
「そういう問題ではありません」
まあまあ、とゲルダは彼をいなした。彼女の暢気な様子に、ガロは眉間に皺を寄せたが、何も言いはしなかった。
「ずっと洞窟にこもってばっかりじゃ心身に悪いですよ」ゲルダは花のような笑みを浮かべる。「せっかく谷の異変も治まって、魔物も少なくなってきたんですから!」
そう言う彼女の笑顔が眩しくて、ガロは思わず目を逸らした。
「さあ、行きましょう、ガロさん。ぐずぐずしてたら日の出に間に合いません」
彼女の言葉に、ガロは小さく頷くと、先導するかのように先に歩き出した。その手は腰の短剣に添えられている。ゲルダはそれを見て苦笑した。
二人はようやく崖の上へと辿り着いた。
既に空の端が明るくなっている。これならもう少しもしないうちに、日が顔を覗かせることだろう。
コンパスを使って方角を確かめると、ゲルダはガロを引っ張った。彼は大人しく為すがままにされている。
夜が白み始めた。
彼女は正面を指差した。
「ほら、日の出ですよ」
ゆっくりと日が昇ってくる。彼が食い入るように見つめているその横顔を見て、ゲルダは満足そうに微笑んだ。
新年の祝いを終えた翌日のことだ。ニェナはルヴィリアと共に、屋敷のバルコニーでアフタヌーンティーを楽しんでいた。
「昨日はありがとう、ルヴィリア」ニェナは紅茶を一口啜ると続けた。「おかげさまでとてもいい一日だったよ」
同じように紅茶を一口啜ったルヴィリアは、微笑みを浮かべた。
「どういたしまして。こちらこそ、楽しい一時を過ごさせてもらったよ」
「ハーウェルも来たらよかったのにね」
「一応、呼びはしたんだがな。何を遠慮しているんだか……」
そう言いながらルヴィリアは肩を竦めた。くすくすとニェナは鈴のような笑い声を上げた。
「照れちゃったんじゃない?」
「照れる? 何に?」
訝しげに眉間に皺を寄せたルヴィリアに、ニェナはにっこりと笑って続けた。
「綺麗に着飾ったルヴィリアにだよ」
平素の貴族のお嬢様らしかぬ格好を見慣れていると、あまりそういうことを意識しないが、節目節目の式典などで着飾ったルヴィリアを見ると、彼女もまた整った顔立ちの美人なのだということを改めて認識させられるというものだ。ハーウェルは見た目よりずっと純情なため、そんな美人を目の前にすると上手く喋ることができなくなってしまう。
「はあ?」
ルヴィリアはきょとんとしたように瞬きしたが、すぐに呆れたように肩を竦めると、話題を変えた。
「それはともかく、年が明けたわけだが……ニェナ、何か新年の抱負みたいなものはあるのか?」
「そうだなあ……あともう数年もしないうちに、本格的な修行が始まるだろうから、それまでに何か冒険みたいなことしてみたいなあ」
「冒険、か……。私もしてみたいものだ」
「ルヴィリアも一緒にしようよ! 二人でならきっと楽しいよ」
「そうだな。どうせなら、ハーウェルも一緒に連れて行こう。今でも一攫千金を夢見ているようだからな」
「一攫千金を夢見るより、普通に働いた方が楽だと思うけどなあ」
苦笑しながらもニェナは三人で未知の場所を冒険する様を思い浮かべて、うっとりした。
ぐったりとステラは机に突っ伏していた。
「ああ……しんどかった……」
口から溜息混じりのつぶやきが漏れる。
新しい年を迎える今日という日に、国を挙げての祝賀祭があった。祭りといっても、大聖堂で国王と王妃が新年の抱負を述べる厳かな式典である。儀式を終えたのちに、反比例するかのような華々しく騒々しい祭りが始まるのだ。
本来ならば、既に表舞台を去った身であるステラには、何の係わりもない行事であるはずだったが、何を思ったのか彼女にも式典の招待状が送られた。彼女は欠席を即断したが、同じく招待状を貰ったラインハルトに説得され、渋々と出席の回答を送ったのだ。
平素から研究のため、睡眠時間を削る悪癖のあるステラは、深夜三時に寝たにも係わらず、身支度のため二時間もしないうちに叩き起こされた。眠気覚めやらぬまま、顔を洗われ、髪を結われ、化粧を施され、ドレスを着させられた。
コルセットをこれでもかというほど締められて、苦しさに喘ぐステラを、身支度を整えたラインハルトが迎えにきた。彼は、屋敷の侍女たちの気合いの入れように苦笑すると、彼女に綺麗ですねと声をかけた。
「……ありがと」
照れくさくて目を伏せる彼女を、彼は優しい眼差しで見つめると、彼女に手を差し伸べた。その手を取って、ステラは大聖堂へと向かった。
式典は滞りなく終了した。しかし、その後の祝賀祭にて、久々に姿を現した彼女を一目見ようとする者たちや、一言交わそうとする者たちに揉みくちゃにされて、彼女は這々の体で屋敷に戻ってきたのだった。
コンコンとノックの音が部屋に響く。どうぞと小さく返すと、ゆっくりと扉が開かれて、ラインハルトが中に入ってきた。
「今日はお疲れ様でした」
彼女はゆっくりと体を起こすと、彼の方へと向き直った。彼は手に湯気の立つカップを持っている。
「本当に疲れたわ……」
彼からカップを受け取りながら、ステラは口を開いた。カップからはアールグレイの芳醇な香りが漂う。
「……もう、行けって言わないわよね?」
そう言いながら、上目遣いで彼を見上げる。小さく笑うと、彼はええと頷いた。あの騒ぎを思い返して苦笑を浮かべる。
「まさか、あんなに人だかりができるとは思いませんでした」
「まったく、見世物にでもなった気分だったわ」
「それだけあなたの人気が衰えていないということですよ」
彼の言葉に彼女はどうだか、と肩を竦めた。
「まあ、いいわ。式典自体は悪いものじゃなかったし」ふふと口元を綻ばせると続ける。「結構な年月と犠牲を払ったのだもの。この穏やかな時間が長く続けばいいわね」