ゲルダは立ち止まると振り返った。自分の数メートル後方にいる青年に向かって、手を振る。暗闇の中、カンテラを持つ彼女の姿がぼんやりと浮かび上がっている。
「ガロさん、早く早くー!」
ガロと呼ばれた彼は微苦笑を浮かべながら、返事するかのように小さく手を振り返した。
彼の姿もまた、暗闇の中に、薄っすらと浮かび上がっている。 きちんと彼がついて来ていることを確認したゲルダは、再び歩き出した。
二人は今、日の出を見るために、崖の上に向かう山道を登っているところだ。
急な提案にガロが呆然としている隙に、ゲルダはさっさと先を歩き出した。彼がはっと我に返った頃には、既に彼女は遙か先を行っていた。
出だしこそ遅れたものの、元の体力とコンパスは彼の方が大きい。すぐにゲルダに追いついた。
「ゲルダさん!」彼は彼女の腕を掴みながら言った。「夜道は危ないですから!」
小さな笑い声を上げて、彼女は彼の方に顔を向けた。
「大丈夫ですよ。最近は魔物の数も減りましたし」
「そういう問題ではありません」
まあまあ、とゲルダは彼をいなした。彼女の暢気な様子に、ガロは眉間に皺を寄せたが、何も言いはしなかった。
「ずっと洞窟にこもってばっかりじゃ心身に悪いですよ」ゲルダは花のような笑みを浮かべる。「せっかく谷の異変も治まって、魔物も少なくなってきたんですから!」
そう言う彼女の笑顔が眩しくて、ガロは思わず目を逸らした。
「さあ、行きましょう、ガロさん。ぐずぐずしてたら日の出に間に合いません」
彼女の言葉に、ガロは小さく頷くと、先導するかのように先に歩き出した。その手は腰の短剣に添えられている。ゲルダはそれを見て苦笑した。
二人はようやく崖の上へと辿り着いた。
既に空の端が明るくなっている。これならもう少しもしないうちに、日が顔を覗かせることだろう。
コンパスを使って方角を確かめると、ゲルダはガロを引っ張った。彼は大人しく為すがままにされている。
夜が白み始めた。
彼女は正面を指差した。
「ほら、日の出ですよ」
ゆっくりと日が昇ってくる。彼が食い入るように見つめているその横顔を見て、ゲルダは満足そうに微笑んだ。
新年の祝いを終えた翌日のことだ。ニェナはルヴィリアと共に、屋敷のバルコニーでアフタヌーンティーを楽しんでいた。
「昨日はありがとう、ルヴィリア」ニェナは紅茶を一口啜ると続けた。「おかげさまでとてもいい一日だったよ」
同じように紅茶を一口啜ったルヴィリアは、微笑みを浮かべた。
「どういたしまして。こちらこそ、楽しい一時を過ごさせてもらったよ」
「ハーウェルも来たらよかったのにね」
「一応、呼びはしたんだがな。何を遠慮しているんだか……」
そう言いながらルヴィリアは肩を竦めた。くすくすとニェナは鈴のような笑い声を上げた。
「照れちゃったんじゃない?」
「照れる? 何に?」
訝しげに眉間に皺を寄せたルヴィリアに、ニェナはにっこりと笑って続けた。
「綺麗に着飾ったルヴィリアにだよ」
平素の貴族のお嬢様らしかぬ格好を見慣れていると、あまりそういうことを意識しないが、節目節目の式典などで着飾ったルヴィリアを見ると、彼女もまた整った顔立ちの美人なのだということを改めて認識させられるというものだ。ハーウェルは見た目よりずっと純情なため、そんな美人を目の前にすると上手く喋ることができなくなってしまう。
「はあ?」
ルヴィリアはきょとんとしたように瞬きしたが、すぐに呆れたように肩を竦めると、話題を変えた。
「それはともかく、年が明けたわけだが……ニェナ、何か新年の抱負みたいなものはあるのか?」
「そうだなあ……あともう数年もしないうちに、本格的な修行が始まるだろうから、それまでに何か冒険みたいなことしてみたいなあ」
「冒険、か……。私もしてみたいものだ」
「ルヴィリアも一緒にしようよ! 二人でならきっと楽しいよ」
「そうだな。どうせなら、ハーウェルも一緒に連れて行こう。今でも一攫千金を夢見ているようだからな」
「一攫千金を夢見るより、普通に働いた方が楽だと思うけどなあ」
苦笑しながらもニェナは三人で未知の場所を冒険する様を思い浮かべて、うっとりした。
ぐったりとステラは机に突っ伏していた。
「ああ……しんどかった……」
口から溜息混じりのつぶやきが漏れる。
新しい年を迎える今日という日に、国を挙げての祝賀祭があった。祭りといっても、大聖堂で国王と王妃が新年の抱負を述べる厳かな式典である。儀式を終えたのちに、反比例するかのような華々しく騒々しい祭りが始まるのだ。
本来ならば、既に表舞台を去った身であるステラには、何の係わりもない行事であるはずだったが、何を思ったのか彼女にも式典の招待状が送られた。彼女は欠席を即断したが、同じく招待状を貰ったラインハルトに説得され、渋々と出席の回答を送ったのだ。
平素から研究のため、睡眠時間を削る悪癖のあるステラは、深夜三時に寝たにも係わらず、身支度のため二時間もしないうちに叩き起こされた。眠気覚めやらぬまま、顔を洗われ、髪を結われ、化粧を施され、ドレスを着させられた。
コルセットをこれでもかというほど締められて、苦しさに喘ぐステラを、身支度を整えたラインハルトが迎えにきた。彼は、屋敷の侍女たちの気合いの入れように苦笑すると、彼女に綺麗ですねと声をかけた。
「……ありがと」
照れくさくて目を伏せる彼女を、彼は優しい眼差しで見つめると、彼女に手を差し伸べた。その手を取って、ステラは大聖堂へと向かった。
式典は滞りなく終了した。しかし、その後の祝賀祭にて、久々に姿を現した彼女を一目見ようとする者たちや、一言交わそうとする者たちに揉みくちゃにされて、彼女は這々の体で屋敷に戻ってきたのだった。
コンコンとノックの音が部屋に響く。どうぞと小さく返すと、ゆっくりと扉が開かれて、ラインハルトが中に入ってきた。
「今日はお疲れ様でした」
彼女はゆっくりと体を起こすと、彼の方へと向き直った。彼は手に湯気の立つカップを持っている。
「本当に疲れたわ……」
彼からカップを受け取りながら、ステラは口を開いた。カップからはアールグレイの芳醇な香りが漂う。
「……もう、行けって言わないわよね?」
そう言いながら、上目遣いで彼を見上げる。小さく笑うと、彼はええと頷いた。あの騒ぎを思い返して苦笑を浮かべる。
「まさか、あんなに人だかりができるとは思いませんでした」
「まったく、見世物にでもなった気分だったわ」
「それだけあなたの人気が衰えていないということですよ」
彼の言葉に彼女はどうだか、と肩を竦めた。
「まあ、いいわ。式典自体は悪いものじゃなかったし」ふふと口元を綻ばせると続ける。「結構な年月と犠牲を払ったのだもの。この穏やかな時間が長く続けばいいわね」
秋は夕暮れ、今日は誕生日!
夏の暑い日のことだった。
風を通すためだろうか、屋敷中の襖が開けられていた。古めかしい日本建築のお屋敷は、襖を開け放ってしまえば、まるで大きな一つの部屋のようだった。
屋敷の中は薄暗くて、縁側の方から差し込む太陽の光が強い逆光を生む。そのせいで、夢花は自分の前に立つ彼が、本当に彼なのか強い確信が持てなかった。
「夢花?」彼が小首を傾げる動作をした。その声音は紛れもなく彼で、不思議そうな色が見え隠れする。「どうかしたのかい」
夢花は首を横に振った。こうすることで、悪い夢からも醒めることができるような気がした。
「何でもない。大丈夫だよ」
「そうかい?」彼女の言葉に返答する彼の声音は、心配げだった。「何だか、顔色が悪いようだけど……」
夢花は微笑を浮かべると、彼の手を取った。
「それはね、部屋の中にいるからだよ!」彼の脇をすり抜けて、ぐいぐいと引っ張る。「松緒さんも籠ってばっかりじゃ駄目。たまにはお日様に当たらないと」
そう言いながら夢花は縁側に向かって歩き出す。彼女の為すがままにされながら、彼は苦笑を浮かべた。
「日の光は、僕みたいな陰の者にはきついんだよ」
「陰だろうが陽だろうが知らないけど、人間だったらお日様に当たっても平気でしょ?」夢花はつないだ手を握り締めた。「わたしより、松緒さんの方が顔色悪いよ。蒼白いもん」
彼がそっと手を握り返してくれたので、夢花は立ち止まると振り返った。今度は彼の顔がよく見える。自分を見る眼差しは穏やかで優しい。
売り言葉に買い言葉という感じで口にしてしまったが、こうやって見ると、本当に彼は蒼白い顔をしている。人の寝静まった夜中に何かをしているせい――寝不足だろう。日中も起きているのに、夜中も起きているからそういうことになる。どちらでも何をしているのか、夢花はよく知らないが、せめてどちらかだけにして、どちらかで眠ったらいいのに。
「夢花?」
ううん、と彼女は再び首を横に振ると、前を向いて歩き出した。
縁側には燦々と日光が降り注いでいる。日が当たらないせいで、薄暗くほんのり冷えた部屋から縁側に出ると、むっとした熱気が顔に当たった。
その熱気に彼はたじろいだ。
「あっつ……」思わずといったように洩らす。「冷たいお茶でも持ってこさせようか?」
外の眩しさに目を細めながら、夢花は頷くと、彼の手を離した。彼は遠くから様子を窺っていた使用人に手を振る。そそくさと使用人が近づいてくるのが見えた。
夢花は縁側に座り込むと、足をぶらぶらとさせた。目の前には庭園が広がるものの、直射日光に当たっていて、いかにも萎れているように見える。小さな池があるが、その池だって干上がりそうだ。
ぎっと床板が軋んだ。夢花がそちらの方に顔を向けたとき、彼が両手に水滴のついたグラスを持って、座ろうとするところだった。彼は夢花と同じように縁側に座ると、持っていたグラスの片方を渡す。
受け取ってすぐに夢花はグラスの中身を飲み干した。中見は麦茶だった。
ことりと背後で音がしたので振り返ると、先ほど彼と話していた使用人が、二つの器を載せた盆を二人の後ろに置いた。その人は夢花ににこりと微笑みを向けると、小さく頭を下げて、空になったグラスと共にまた暗がりの中に去っていってしまった。
「ねえ、松緒さん」
夢花は盆を引き寄せて、器の中身を確かめる。器にはゼリーとシャーベットが盛られていた。彼の指示なのか、使用人の好意なのか、夢花にはわからない。わからないがこれはとても嬉しい。
「何だい?」
夢花は彼に器を渡した。きょとんとしたようにこちらを見る彼に、彼女は言った。
「さっきの人がこれも持ってきてくれたの」
「ああ……あとで礼を言っておくよ」
「松緒さん、どっちがいい?」夢花はもう一つの器の中身を彼に見せながら言う。「こっちはシャーベット、そっちはゼリー」
彼はやわく微笑んだ。
「僕はこちらにするよ。君はシャーベットの方が好きだろ?」
夢花は目をぱちくりさせてから、嬉しそうにはにかんだ。
「えへへ、ありがと! 松緒さん」
どういたしまして、と彼は答えながら、ゼリーを口にした。夏蜜柑のゼリーだった。凍らないように、しかししっかりと冷やされたそのゼリーは、ほんのりと苦かった。